日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2015年10月25日 主日礼拝「終末の苦しみ」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章15~28節

説教題

「終末の苦しみ」

今週の聖句

「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」

(マタイ24:27)

 

訳してみましょう

1739 Sin sees the bait but is blind to the hook.
(罪は釣り餌を見る。しかし針に対しては盲目である。=罪には罠がある。)

1740 It’s never too soon to come back to God.
(神に立ち返るのに、早過ぎるということは決してない。)

 

説教メモ

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●終末の苦しみ

先週はマタイの福音書24章1~14節までのところで、終末が来るまでには7つの前兆があることを学びました。
この7つの前兆は、歴史的な順序で主がお語りくださったわけでははありません。

「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マタイ24:4)

「気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」(マタイ24:6)

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:11)

主の教えをはっきりと、正確に覚えておくことは私たちにとって大切なことです。

 

ほとんどの聖書学者は、紀元前70年に起こったエルサレム滅亡の預言だと考えました。
だとすると、今を生きている私たちにとって、それは過ぎ去ったことで関係のないことなのでしょうか。
いいえ、違います。
私たちの手元に、このように聖書があるということは、当時起こったことの記録ということだけではありません。

主の目的は、終末の前兆と、終末に備える心構えを教えることにあるのです。

 

確かに、紀元70年にはエルサレムの滅亡が成就したことに間違いありません。

「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば…」(マタイ24:15)

ユダヤ人の歴史家は言っています。
「ダニエルの預言は、ローマ軍によるエルサレム征服によって成就した。まったく同じように、ダニエルも、ダニエル書においてローマ政府によってエルサレムが荒らされるべきことについて記しているのである。」

 

当時のシリアの総督、ポンテオ・ピラトがエルサレムに軍隊を送りこみました。
そして、ローマ皇帝“カイザル”の象徴が現わされた軍旗を、エルサレム市街に立てようとしました。
ユダヤ人は偶像を拒否する民族でした。
ユダヤのある人は死を覚悟してまで、カイザルの軍旗を取り下げるよう、総督ピラトに請願しました。
その熱意に打たれた総督ピラトは、ついに軍旗をカイザリアに返還しました。

この歴史上の事実から、荒らす憎むべき者=ローマ軍旗であって、その軍旗がエルサレム市街に見えた時、

「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば…」

この預言が成就したのだと多くの人は考えました。
ルカの福音書にも別の表現で同じ内容が書かれています。

「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら…」(ルカ21:20)

その時、どのようにしろと言われているでしょうか。

「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」(マタイ24:16)

「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。」(ルカ21:21)

このことも成就しました。

ローマ軍による神殿滅亡のとき、エルサレムには、「過ぎ越しの祭り」のために非常に多くのユダヤ教徒が巡礼のために訪れていました。
そして大勢のユダヤ教徒はその巡礼者とともに宮に立てこもりました。
それは「宮にいれば救われる。」と信じ切っていたからだったようです。

しかしその時、クリスチャンはどうしたでしょうか
クリスチャンたちは、宮も都も見捨てて、はるかペレア(ペリア)地方にまで避難しました。
山へ逃げる、都から立ちのくことの成就です。

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さらにルカの福音書21章19~20節も文字通りに成就していきます。

ローマ軍が侵攻し、エルサレムの街を包囲し尽くさないうちに、エルサレム市民は熱心党員によってエルサレムからの脱出を禁じられていました。
「何もかも見捨てて、一刻も早く脱出するように。」とのイエス様の忠告は、このように真実だったのです。

そして当時、町中の飢饉が想像を絶するほどに、非常に厳しいものでした。

「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24:21節)

世の初めから現在に至るまでかつてなく、またこれから先も起こることのないような、大きな艱難が起こることが記されています。

23~26節には偽キリスト、偽預言者が登場します。

確かに、紀元66年からの「ユダヤ戦役」当時にも、偽キリストや偽預言者が出現しました。
「一人の偽預言者が、民の破滅のきっかけであった。偽預言者はその日、都の中で神が人々に“神殿にのぼれ”と命じた、そしてそこで救助されるという奇跡的なしるしを受ける、ということを公言した。」
このような記録があります。
偽預言者は当時の横暴者たちから、民衆をだますようにとそそのかされていました。
そして、民に「神の救いを待つべきである。」と布告しました。

それより少し前には、各地に偽モーセの出現が相次ぎました。

 

このようにして、イエス様のみことばのほとんど全部が、ローマ軍によるエルサレム侵攻、神殿滅亡によって成就しました。

しかしイエス様は、紀元66年から始まったユダヤ戦役と、その結果紀元70年にエルサレムの宮が滅びた事件だけを預言したのではありません。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば…」(マタイ24:15)

「それゆえ」との書き出しで始まっています。

14節までで語られた終末の前兆、とりわけ教会が受ける迫害、偽預言者の出現、教会自体の腐敗や堕落、それら『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを目の当たりにしても、まだ聖所にしがみついているような未練がましい態度は捨て、さっさと逃げるようにと命じておられます。
さらに、どれほどの迫害や背教、教会の大部分が躓き、裏切り、憎み合い、惑わされ、愛を冷やしてしまうなどの腐敗や堕落があろうとも、必ず福音は全世界の隅々にまで届けられるのだから、それさえも安心して聖所を捨ててしまいなさいと命じられています。
宮にとどまるのではなく、山に逃げよと命じられています。

以上の命令が、ユダヤ戦役の時のことだけに語られていたのだとしたら、15節にはなぜ「それゆえ」との書き出しで始まっているのでしょうか。

それは、その時に起こったことだけにではなく、一般的な、永遠の真理として主がお命じになっていることだからです。

エルサレムの神殿崩壊・滅亡が文字通り実現したという記述は、一つの比喩的なものとして用いられたのです。
エルサレムの神殿が滅亡したから、すぐに終末がやってくるというものではありません。
それは、終末をノアの時代の洪水を、また、ソドムとゴモラを引用するのと同じことです。イエス様は神殿滅亡の前兆をただかかげたのではなく、神殿滅亡そのものをノアの洪水やソドム・ゴモラの滅亡と同様に、終末のひとつの比喩、型、しるしとして語られたのです。

 

「『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」(マタイ24:15)

『荒らす憎むべき者』は旧約聖書のダニエル書にのみ出てきます。

「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(ダニエル11:31)

「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル12:11)

ユダヤ民族は偶像礼拝は恥ずべきもの、憎むべきものとしていました。

紀元前167年12月に、当時ユダヤ人を支配していたシリアの王アンティオコス4世エピファネスにより、エルサレム神殿に偶像を立てられました。
ユダヤ人の神聖な場所エルサレム神殿にて、聖なる供え物「燔祭(はんさい)」を取り除き、代わりに異教の捧げ物・祭儀を行なうことにより神殿を汚したのです。
それは

「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(ダニエル11:31)

このことの成就となりました。

ダニエル書の預言は、イエス様がオリーブ山からエルサレム市街を見下ろしておられたその当時から、およそ200年前にすでに起きていたことでした。

しかし、「読者は悟れ」と言われます。

 

●読者よ悟れ

ダニエルの預言は、いまだ成就を待っています。
一度文字通りのことが起これば、神さまの預言は過ぎ去ったものになるということではありません。

いつでもこの「荒らす憎むべきもの」が、不釣り合いにも「聖なる所に立つ」のを見る時、それが紀元前167年であれ、紀元70年であれ、さらに今日の20世紀であれ、私たちクリスチャンは今の生活をすべて捨てて逃げるようにと、イエス様はお命じになられます。

ダニエルは荒らす憎むべきものを預言しました。

「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(ダニエル11:31)

「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル12:11)

この二つの預言に挟まれるように、次の預言がされています。

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」(ダニエル12:1)

ダニエルが言う「悩みの時」、すなわち、マタイが言う「艱難の時」、その時が訪れます。

「終わりの時」、それは文字通り「終末の時代」となります。
荒らす憎むべきものを聖なる所に建てるのは、先述のエピファネス個人ではありません。
むしろ、彼から終末までの時代全体が「終わりの時」、そして「悩みの時」なのです。
マタイの福音書でダニエル書を引用されたイエス様は、そのように大きな目で見た艱難の期間を考えておられるのです。

「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)

艱難の期間とは、ある時の数年間というものではありません。
今なお続いている終末の時代全体のことです。

 

「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」(Ⅱテサロニケ2:8)

イエス様も、パウロも、ダニエルと同じように『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見る時、それは「終わりの時」、「悩みの時」であり、それは、主の再臨と終末とが直ちにに続くと語りました。

ダニエルの時代から、すでに2100年以上経っています。
また、エルサレム滅亡からもすでに1900年以上経っています。

しかし聖書において、艱難の期間が選びの民のために縮められた短期間であることに変わりありません。
聖書は新約の時代全体を「終わりの時代」、「救いの日」、「終わりの日」とさえ呼んでいるのです。

主の日は近い、時は縮まっている。
この確信をもって主の再臨を待つ私たちクリスチャンにとって、ほんの終わりの一時でしかないのです。

イエス様が私たちに与えておられる教訓は、いつの時代も神のことばとして読まれなければなりません。
私たち新約時代に生きているクリスチャンは、大きな艱難の期間においても、イエス様の警告に従わなければなりません。

「長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(黙示録7:13-14)

天の御国で白い衣を着ている人たちは、紀元70年前後にユダヤにいたクリスチャンではなく、あらゆる国民、部族、民族から召され、大きな艱難を通ってきた異邦人クリスチャンであると言っています。

 

ここで心に留めましょう。

  • いたずらに「聖なる場所」に未練を持ってそこに留まることが安全ではないこと
  • そこから逃げることが勧められていること

『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見た時には、神殿に未練を持つべきではありません。
すぐに山へ逃げなければなりません。
それは、一刻の猶予もないのです。
いのちを得るためには、この世を見捨てなければなりません。

「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」(マタイ24:16-18)

 

ロトの妻のことを覚えておられますか?
ソドムの滅びを免れながら、彼女は逃げた都に未練を感じ、後ろを振り返りました。
すると塩の柱となり、いのちを失ってしまったのです。

同じようにモーセに率いられエジプトを脱出したユダヤ人は、荒野で飢えた時、豊かだったエジプトでの生活を思い起こしつぶやきました。
それにより、彼らは40年間荒野をさまようことになりました。
そして、エジプトを出た人々は、わずか二人を除きすべて約束の地に入ることができずに死んでしまいました。
いのちを失ってしまったのです。

 

「するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)

終末の信仰によって、偽預言者の惑わしを締めださなければなりません。
偽預言者に惑わされてはいけません。
なぜなら主の再臨は、次のとおりだからです。

「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。」(マタイ24:27-28)

 

「死体のあるところにハゲタカ」

ハゲタカは空高く飛んでいても、動物の死骸を見つけるとすぐに地上に降り立ちます。
空高く飛んでいても、見えるのです。見つけることができるのです。

死骸にハゲタカが襲いかかるように、滅ぶべき人々がいる所どこにおいても、東から西まで、天の端々までキリストは現れます。
しかもそれは、稲妻が東から西に、天の端々で閃くように、一瞬にして起こります。

主の再臨は「誰かに教えてもらう」ことなど必要ありません。
それは一瞬にして起こるので、誰かに教えてもらうことなどされなくても、すぐにわかるのです。
だれかが「いつ」「どこに」などと教えているなら、それは間違いなく「偽」です。
たとえ、再臨のニュースがNHKで流れていたとしても、それは「嘘」で「偽」です。

  • 人に惑わされないようにしなくていはいけません。
  • 憎むべきものと化した宮に安心や信頼を寄せてはいけません。
  • この世のものに後ろ髪惹かれていてはいけません。
  • 再臨を恐れ、戸惑ったり、うろたえた生活をしていてはいけません。

落ち着いて、毎日の生活を全うしていく。
その中で主の再臨は訪れるのです。

パウロが伝道し、多くのクリスチャンがうまれたテサロニケでは、イエス様がすぐに再臨されるというデマを聞いた人々が、仕事が手に付かない状態となってしまいました。
そのようであってはいけません。
パウロはそのためにテサロニケ人への手紙という書簡を書きました。

矛盾した命令だと思われるでしょうか。

「しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」(マタイ24:22)

選民のために、艱難の期間は短くされています。
神さまの愛への確信により、神さまは終末までの時を、私たちのために動かしてくださっているのだということが分かります。

「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(Ⅰコリント3::22-23)

世界も、生も死も、現在のものも、過去のものも、すべて私たちのもの、そして私たちはキリストのものであり、キリストは神のものです。

歴史は誰もが体験するものです。
しかし、イエス様の見るところ、特に教会とクリスチャンのために歴史は左右されます。
そして終末はやがてやってきます。

 

神のユビキタス

ユビキタス=遍在(どこにでもおられる)

インターネットの時代、この言葉は良くつかわれるようになりました。
「どこにいても」ということでしょう。

今はスイッチひとつで、どこにいても原子爆弾が発射される、ある意味では終末の時代です。
危機感がみなぎっています。

キリスト教的に歴史観を堅持することは、とても大切なことです。
神さまはクリスチャンのために、歴史、さらに終末の到来を調整してくださっています。
それは同時に、歴史に対するクリスチャンの責任の重さを意味します。

「年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。」(エゼキエル9:6)

老若男女問わず殺して滅ぼすこと、しかししるしのあるものには触れるな。まずわたしの聖所から始めよ。
このように語られています。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)

神さまのさばきは、私たちクリスチャンから始まるのです。
ですから、聖書は「クリスチャンである読者が悟りなさい」と言います。
常に聖書を読む私たちに、緊張感を与えています。
これら警告を、過去の歴史においてすでに終わったこととして読むのではなく、常に聖なる神さまの家に要求されている終末に備えるみことばとして悟ることができる人は幸いです。

 

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

神さまのご性質で代表的なものは「永遠」です。
人間は時間と空間の中で生きています。
しかし神さまには、始まりも終わりもありません。
アルファでありオメガでり、遍在(ユビキタス・どこにでもおられる)というご性質もお持ちです。
神さまはどこにでも、いつでも存在しておられるのです。

しかし今の世の中は、時間と空間を問わず、いつでも、どこにでもインターネットでアクセスできるという「ユビキタス時代」です。
機械がすべてのことを人間の代わりにやってくれる楽な時代です。
そのことによって、人間は虚無主義へと陥ってしまうでしょう。
文明の利器がいかに優れていようとも、心に平安がなくなってしまいます。
平安と楽とはまったく異質です。
本当の平安は、私たちを楽にしてくれる技術や利器から来るのではありません。
本当の平安とは、ただ神さまを感じ、経験するときにだけ得られるものです。
虚無主義へと陥れてしまう遍在=ユビキタスを追求するのではなく、私たちはまことの平安を与えてくださる神さまの遍在=ユビキタスを追求し、開拓し、経験していくべきでしょう。

終末の時代に生かされている私たちは、イエス様の再臨が思ってもみなかった時、一瞬にして来られることを覚えましょう。

誰にでも分かる形で来られます。
私たちは誰にも惑わされることなくいられます。
教会も安全なところではありません。なぜならそこでもイエス様の再臨がいつであるとか、今であるとか語られる可能性があるからです。

イエス様の再臨はすぐに分かります。
そして、聖書の警告どおりに行動することを、いま一度しっかりとおぼえましょう。

冒頭にも言いましたとおり、「主の教えをはっきりと、正確に覚えておくことは私たちにとって大切なこと」です。