日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2015年11月1日 主日礼拝「人の子の再臨」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書24章29〜31節

説教題

「人の子の再臨」

今週の聖句

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

マタイの福音書24章31節

 

訳してみましょう

1741 Christ’s second coming is as certain as His first.
(キリストの再臨は、彼の最初(初臨・降誕)のように確かです。)

1742 One bite of sin leaves a bitter aftertaste.
(罪の一口は、苦い後味を残します。)

 

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説教メモ

今日は「人の子の再臨」と題してお話しを進めてまいります。

 

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。」(マタイ24:29-30)

みなさんはこれを本当に信じますか?
こんなことが本当に起こるのだろうかと、疑っておられますか?

イエス様がおっしゃったおことばですから、私たちは信じます。
しかし、それはどうなんだろうかと思う方がおられても不思議ではありません。

私たちには、これから起ころうとしている再臨が、ぼんやりとしており、はっきりと見えていません。
再臨はこれから起ころうとしていることですから、それは仕方のないことかもしれません。
しかし聖書には、そのことが記されています。

今日のメッセージで、納得して終わることができれば幸いだと思います。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)

そして、それから、その時、最後の日が来ると預言されています。
終末の日は福音宣教のただ中において、超自然的にやってくるのです。
私たちが福音を証ししている、宣べ伝えているそのただ中で、超自然的にやってくるのです。

イエス様はマタイの福音書24章29節以下で、そのことを語っておられます。
その時におこる艱難(かんなん)の後、ただちに、たちまち破局的な最後が来るとおっしゃています。

「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)

パウロ、バルナバ、ルステラがアンテオケの諸教会で言っていることです。
私たちが神の国に入るためには、多くの艱難(かんなん)を経なければなりません。
しかしイエス様は私たちのために、その期間を短くしてくださいました。
そして、たちまち救いの時がもたらされます。

「 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

あふれんばかりの恵みの神は、しばらくの間の苦しみの後、私たちを癒し、強め、力づけ、不動の者としてくださいます。

このように、正しく終末を知ることは、私たちクリスチャンにとってとても大切なことです。

 

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24:29)

宇宙的な異変があります。

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3:21)

宇宙的な異変とは、万物の改まる時、つまり「万物がすべて更新される時」だと言っています。

「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」(マタイ24:6)

「戦争と戦争のうわさを聞く」という前兆が語られたとき、イエス様は「それは必ず起こることだが、終わりの時ではない。」とおっしゃいました。
また、続いて方々に飢饉(ききん)と地震が起こるという前兆を語られた後も、「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」とおっしゃいました。

産みの苦しみ、つまり陣痛の「始め」があるのですから、陣痛の「終わり」もあるはずです。
人々はみな、陣痛の「終わり」がいつ来るのかと、心待ちにします。
それがいよいよ、次に語られます。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24:29)

天体、特に日(太陽)、月、星の異変が語られています。
創世記の始めを思い起こしてください。

「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。」(創世記1:16)

つかさどらせるとは、支配させるということです。
聖書が支配するもの、権力の最初の実例として語られています。
つまり、日・月・星は、世のあらゆる権力、権勢の始めとも言うべき存在なのです。
それらは、宇宙空間に漂う単なる物体ではなく、権力、支配力を担ったなにものかであるとされています。
そのことについて、次の聖書箇所を見てまいりましょう。

ヨセフ物語において、ヨセフが見た夢の中では

「ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、『また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。』と言った。」(創世記37:9)

太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」ヨセフはこのように言いました。

「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。」(ルカ23:44)

イエス様が十字架に架かられ死なれた時、天を支配していた権力ある太陽が暗くなりました。

預言者イザヤは

「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。 」(イザヤ24:21)

このように言っています。

旧約の預言者たちは、王や王国が滅びると預言する時、「日や月や星が光を失う」とか、「天から落ちる」などと表現しました。
それは文学的な誇張や比喩ではなく、実際に起こることなのです。

戦争、戦争のうわさ、政治的な権力の混乱、崩壊などが、「陣痛の始め」であるなら、世のあらゆる権力、権勢の始めとも言うべき日・月・星などの権威が失墜するといった、「陣痛の終わり、クライマックス」も必ず訪れるのです。

その日、日(太陽)、月、星の支配権は覆されます。
日、月、星などの天体に、想像を絶する文字どおりの異変が起こります。

まず、昼の支配者の日が暗くなります。
日が暗くなると、必然的に月が光を放たなくなります。
昼夜をそれぞれ支配する日、月の存在理由がなくなります

 

「星が天から落ちる」という表現があります。
星が落ちる=絶える という言葉が使われています。
星が星として役立たなくなります。絶えてしまうのです。
日は日としての機能が絶えてしまい、月は月としての機能が絶えてしまうのです。

皆さんは信じられますか?
「天体が揺り動かされるであろう」というのは、天体がただ移動しているなどというのどかなショーではありません。
天体が取り除かれてしまうということです。

そのような天体の異変時には、当然、天体の一部である地球にも異変が起こります。
地球の異変も含まれているのです。

「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために上安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」(ルカ21:25-26)

地球自体も、人々が恐ろしさのあまり気絶するほどの大きな変動を迎えます。
そのように、罪にけがれた天地は滅び、救われた人が神とともに住むのにふさわしい、新しい天地に衣替えさせられます。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10-13)

ここでも天体が崩れ落ちる様子が描かれています。
同時に、私たちは神の約束に従って新しい天と新しい地を熱心に待ち望んでいるのだから、極力聖く、信心深く敬虔な行いをしていかなければならないと語られています。。

万物が揺り動かされ、万物が変わっていく様子は、私たちにとっておとぎ話のように思えるかもしれません。
しかし、聖書は実際に起こることとしてそのように記されています。

 

そして「キリストの再臨」が次に語られます。

「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(マタイ24:30)

イエス様はご自分のことを「人の子」とおっしゃっています。
つまり、救い主であるキリストということです。

光り輝く天体が「絶えて」しまうとき、あたりは真っ暗闇になります。
その中で、人の子だけが輝いて来るのです。
想像してみてください。
周りが何も見えない真っ暗な闇の中で、イエス様だけが光り輝いて来るのです。
誰にでも分かるでしょう。

ダニエル書において、イエス様が何度もご自分を人の子とおっしゃった意味が分かります。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)

このように、神さまが人の子と呼ばれるイエス様に、すべての権威をお与えになることが分かります。

雲は神さまのご臨在のしるしです。
会見の天幕やソロモンの神殿の献堂式にたちこめた主の栄光を表す神的なものです。

「人の子のような方」は、どこから来るのでしょうか。
ここでは「天の雲に乗って来る」とあります。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

ラッパが鳴り響くとき、私たち信じる者にとっては素晴らしい響き、栄光に満ちた日となるでしょう。

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)

この今週の聖句を、良く味わって理解してください。

私たちはどのようにして栄光の主にお会いするのか。
具体的に分かってくると思いませんか?

クリスチャンもノンクリスチャンも、同じ一日、一週間、一ヶ月、一年と、同じ歴史の中で同じ時を生きています。
しかし、キリストの再臨、終末の時には、全人類に「二つの終局」が与えられます。
つまり、キリストを信じる者と、そうでない者とで、違う結末が訪れます。

もういちど次の箇所を見てください。

「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」(マタイ24:30)

地の全ての民族が再臨のキリストを見上げる時、「嘆きをもって見上げる」のです。
「悲しみながら見上げる」のです。

「わざわいなるかな、主の日を望む者よ、あなたがたは何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光がない。」口語訳
「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。」新改訳(アモス5:18)

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」(黙示録1:7)

これらは、「彼を突き刺した者たち」つまり、福音を拒んできた人たちの状態です。

この「嘆く」とは、「胸を打って死人のために哀悼の意をあらわす」ともとれる表現です。

世のすべてのキリストを反対する者たちの嘆きは、ゼカリヤが言ったとおりに厳しく、深い悲しみ、嘆きです。
それは、懺悔(ざんげ)の嘆きではなく、すでにどうしようもない「ただただ後悔のみ」の嘆きとなります。
聖書は、どんな罪でも悔い改めれば赦されると記されています。
しかしその時(キリストの再臨・終末)ばかりは、悔い改めても遅いのです。
彼らはただ、再臨のキリストによって、永遠の暗闇に投げ込まれてしまいます。

「そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:51)

福音を信じなかった人、受け入れなかった人には、このような哀れな嘆きが訪れてしまいます。

それに対して、選民にとっては、究極的な救いの実現となる再臨は待ちに待った出来事となります。
聖書の歴史の中で、ラッパが鳴るということは、神さまとの関係において様々な合図となりました。
イエス様の再臨のとき鳴り響くラッパは、ついにはイエス様が「王の王」となられる時を告げるものとなります。

 

もうひとつ見てまいりましょう。
再臨の時、神さまは選民である私たちに「御使いたち」をお遣わしになります。

「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14)

御使いの役割が、この時もっとも果たされることになります。
その役割とは、御使いが私たちを助け、私たちは一人一人を再臨のイエス様のもとに導く、連れて行くということです。

 

最後に、四方から選民を集めてくださることについて見てまいりましょう。

稲妻が西から東までひらめくように、再臨は世界中どこにいても分かります。
どこにいてもイエス様の再臨に立ち会うのです。

天に鳴り響くラッパは、福音を信じない人々、受け入れない人々にとっては逃れられない嘆きとなりますが、反対に、福音を信じ受け入れた人々にとっては、世界中から神さまが「選民」を集めてくださるという、うれしい知らせ、合図となります。
地上のどこにいても、何をしていても、御使いが現れ私たちを主のもとに連れて行ってくださいます。
私たちのあるがままの姿で、あるがままのその場で救いあげられます。

さきほど賛美しました讃美歌をご覧ください。

みゆるしあらずば ほろぶべきこの身
わが主よあわれみ 救いたまえ
イエスきみよ このままに
我をこのままに 救いたまえ

文字通り、この讃美歌が成就する日がやってきます。

 

「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:28)

そのように勧められています。

天の万象が揺り動かされる。
これは文字通り起こることだと受け止めて良いと思います。
そして、私たちがどこにいようとも、どんな状態であろうとも、たとえ信仰が弱くても、イエス様が救い主であること以外なにも分からないといった人にも、この世では虐げられている人にも、頭を垂れうなだれている人にも、主は信じる者一人一人に御使いを送ってくださり、私たち一人一人を主のもとに導いてくださいます。
そのことを心に留め、励まされつつ毎日を過ごしてまいりましょう。

主の日はいつ訪れるかわかりません。
ですからなおのこと、怠惰な毎日を過ごすのではなく、いつ再臨が起こっても良いように過ごしましょう。

 

来週の讃美歌