日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2015年11月29日 主日礼拝「愛の奉仕」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書25章31~46節

説教題

「愛の奉仕」

今週の聖句

「主人から、その家のしもべ任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょう。」

マタイの福音書25章45節

 

訳してみましょう

1749 To master temptation, let Christ master you.
(誘惑を乗り越えるために、キリストにあなたを支配していただきましょう。)

1750 To become like Christ, we must learn from the Master.
キリストのようになるために、私たちはマスター(キリスト)から学ばなければなりません

 

今日からアドベントに入ります

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説教メモ

●遺言

何週間か費やして、マタイの福音書24~25章を学んできました。
そして、今日学ぶところから3日後に、イエス様は十字架に架かられます。
すなわち、今日学ぶことはイエス様の遺言ともいえるところです。
弟子たちに対する最後のことばとなります。

遺言は人間が書く文書の中で、もっとも厳格なものなのではないでしょうか。
イエス様が十字架に掛かられる3日前にお語りになった「遺言」。
私たちは心して聞きたいと思います。

 

25章31~46節から「愛の奉仕」と題しました。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25:31-33)

ある人は、ここは「羊と山羊のたとえ」と位置づけます。
これまで10人の娘のたとえ、タラントのたとえがありました。
それに続くここは、羊と山羊のたとえです。
しかし、羊と山羊のたとえはわずか2節のみです。
34節からの後半は、「最後の審判」の預言的な描写となります。

ここで今週の聖句をもう一度ご覧ください。

「主人から、その家のしもべ任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょう。」(マタイ25:45)

マタイの福音書25章の中で、思慮深さ、賢さを10人の娘のたとえで学びました。
そして、忠実さについては、タラントのたとえで学びました。
25章でもうひとつ描かれていることは「愛の奉仕」についてです。
ですから、本朝の説教題は「愛の奉仕」としました。

 

私たちクリスチャンが、仲間のクリスチャンに対して、どのように愛の奉仕をしていくのか。

イエス様が再臨し、栄光の位にお着きになる時、すべての国々の民が、その御前に集められます(マタイ25:31-32)。
以前にも学びましたが、すべての御使いたちを伴って来られます。
主が再臨される時、神さまは選民である私たちに「御使いたち」をお遣わしになります(2015年11月1日 主日礼拝「人の子の再臨」)。
御使いが私たちを再臨の主に引き合わせてくれます。
このことは、「すべての国々」に対して行われることなのです。
終わりの時は、すべての国々の民、さらに誰も逃れることのできない時です。
この地上のすべての人が御前に集められ、そして裁き受けるのです。
次のみことばを思い起こします。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)

すべての民が福音を聞きます。
それから終わりの日が来るという、神さまのお約束があります。

すべての人が一度はキリストの教え、福音を耳にします。
それに対して、一人ひとりがどういった態度をとるかが迫られます。
そのような中で、主の再臨があります。

そのとき、羊と山羊を分けるように、私たちすべての人は分けられます。
羊と山羊は放牧地で一緒に飼われており、それぞれの区別はありません。
さらにイエス様は、一つの畑に麦と毒麦が蒔かれていることや、一つの網の中に良い魚と悪い魚が混ざっていることを語られました(マタイ13:24〜)。
思慮深い賢い5人の娘は、思慮浅い愚かな5人の娘とともに、花婿が来るのを一緒に待っていました。
忠実なしもべは、不忠実なしもべとともに毎日を同じ環境の中で生活し、主人の帰りを待っていました。

この地上では、クリスチャンである私たちは、クリスチャンでない人たちと暮らしています。
職場において、学校において、家庭においてでさえそうです。
一度も福音を聞いたことのない人、または聞いても信じていない人たちとともに毎日を送っています。
そのような中でイエス様は再臨され、最終的に「羊と山羊を分ける」のです。
皆さんは「羊」になりたいですか、「山羊」になりたいですか?

羊は「右」に。
この「右」には特別な意味があります。
聖書では一般的に「右」は、優位性、尊敬、権威などの立場や働きを意味しています。
そして「左」とは、それと逆の意味があるのではないでしょうか。
ちなみに、イスラムの人たちは、誰かに物を差し出すとき、決して左手を使うことはしません。
それは礼儀に反することなのです。

さて、私たちはこの世で「山羊」とともに生活していますが、私たちは彼らと違うということを自覚して生きていかなければなりません。
イエス様は私たちが入る天の御国を

「『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」(マタイ25:34)

世の初めから私たちに備えられていたものであるとおっしゃっています。
さらに

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2-3)

このように、私たちのために、天の御国に場所が用意されています。
この地上ではクリスチャンも、そうでない人も混在し、何一つ希望も、特権もないように見えますが、しかし神さまは世の初めから私たちのために天の御国を用意してくださっており、「羊」たちは終わりの日には、自分たちが思ってもいなかったような莫大な、消えていくこともない資産を受け継ぐことになるのです。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」(Ⅰペテロ1:3-6)

今、私たちには様々な艱難(かんなん)があります。
しかし、やがて私たちは、私たちのために備えられて天に迎えられ、資産を受け継ぎます。

私たちはそのことについて、ペテロが言うように大いに喜んでいるでしょうか。
国籍が天にある者として、そして、私たちの宝が天に蓄えられつつあることを思って、「山羊」とは違った暮らしをしているでしょうか。
それが私たちの「兄弟愛」のわざの「前提」となります。
私たちには「羊」としてのつとめがあります。

 

では、最後の審判において、羊と山羊に分けられる決定的な理由はなんでしょうか。
それはさきほど拝読しました聖書箇所から読み取れます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」(マタイ25:35-36)

この時、正しい者は次のように答えました。

「『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』」(マタイ25:37-39)

するとイエス様は言われます。

「『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)

最後の審判において、羊と山羊に分けられる決定的な理由
それは「兄弟愛のわざ」です。

ここでは最後の審判の法廷でのやりとりが描かれています。

法定での裁判において、最も重要とされるものは「証拠」です。
私たちが正しかったか、そうでなかったかは「証拠」によります。
私たちが「羊」であったことの証拠、「山羊」であったことの証拠が求められます。

私たちが羊となるその証拠とは、「兄弟愛のわざ」です。
先ほども見ましたとおり、空腹の者に食べ物を与え、渇いている者に飲ませ、旅人には宿を貸し、裸の者には衣服を与え、病気の者を見舞い、牢にいる人を訪ねる。
そのような証拠によって、神さまは正しい裁きをなさいます。
そのような人は羊として右に分けられるのです。
神さまは、私たちの「良いわざ」を見ていてくださっています。
イエス様は、私たちのクリスチャンに対する奉仕を「わたしに対しての奉仕」とおっしゃってくださいます。

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

 

私たちはイエス様の再臨の前に、この世を去ってしまうかもしれません。
すでにそのような魂は多いのです。
しかし、終わりの日には、その時生きている者も、死んだ者もともに神さまの御座の前に立たされます。
その時、愛のわざという「証拠」が見られる人は幸いです。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』」(ヤコブ2:15-18)

信仰があるなら、その人は行いが伴うはずです。
ここでは行いが伴わない、口先だけで実質のない信仰の問題が記されています。
しかし、行いが私たちを救うのではありません。
信仰が救うのです。
私たちはまことの信仰によって救われます。

イエス様が列挙された愛のわざは、私たちが救われたゆえに自然と、自発的にできるわざです。

 

「山羊」に対するおことばを通して、愛のわざについて考えてみましょう。

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ25:41-46)

イエス様はいくつかおっしゃっているわざは、誰にでもできるわざであり、決して大きな、出来そうもないわざを要求しておられるわけではありません。

「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』」(マタイ7:22)

このような大きな派手な奉仕は日記やメモに記しておくほど記憶に残るものです。

ささいな小さなことは馬鹿らしくやる気も起こらず、したとしてもどこにも記すこともなく、記憶にも残らないものかもしれません。
または、病気の人を見舞ったとしても、その人が癒されるわけでもなく、そういった私たちの奉仕は何の役にも立つことがないかもしれません。
しかし、病気が癒されることがなくても、見舞わずにはいられないといったような、「愛の心から出るわざ」とは、そのようなものなのです。

 

キリストは最後の約3年間、各地を巡る伝道旅行に出られました。

その結果、明らかになったことがあります。
天の父なる神さまの御もとから人の子の姿となり、旅人となられたイエス様を喜んで迎えたのは、神を熱心に求めていた祭司やパリサイ人、律法学者たちではなく、かえって彼らに蔑まれていた遊女や取税人やガリラヤの名もない漁師たちだった、ということです。
彼らはキリストを心から愛しました。
さらに、キリストの弟子たちをも愛し、受け入れました。

祭司やパリサイ人、律法学者たちはキリストを憎み、敵対し、同様に弟子たちをも顧みませんでした。

主を受け入れた者、受け入れなかった者の違いがあります。

「山羊」ですら奉仕する相手がキリストであったなら、喜んで奉仕したでしょう。
主が求めておられるのは、そのような奉仕ではなく、「最も小さい者たちのひとり(クリスチャン)にする奉仕」です。
それは決して大きな奉仕ではありません。

「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。『ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。』彼らは答えた。『あなたの言ったとおりにしてください。』そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。『早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。』そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。」(創世記18:1-8)

アブラハムは3人の旅人をもてなしました。
しかしその時、アブラハムはその3人の旅人が天の御使いであることは知りませんでした。
アブラハムの「愛の奉仕」です。

相手がキリストである、またはとても偉い人であるならば、「山羊」も喜んで奉仕をするでしょう。
しかし、相手が名も無いクリスチャンであったなら、たとえ小さな愛の奉仕であったとしても、それをすることはなかなか出来ることではないかもしれません。
私たちはそのような愛の奉仕をしていくのです。
それが、キリストを担う者たちのすることです。

 

最後に、ご一緒に声に出して読みましょう。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

イエス様は私たちのために、そして、私たちの兄弟たちのためにも十字架に架かられ死んでくださいました。
そのことにより、私たちは生かされています。
感謝と喜び、そして尊敬を、どうして愛の奉仕として形にできないことがありえるでしょうか。
小さな愛の奉仕を忘れずにいましょう。
相手が誰であるかではありません。
誰に対する奉仕でも、それは主に対する奉仕となるのです。
そのことをわきまえていれば、どんな奉仕でも出来るのです。

「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
そのようにイエス様は、十字架に架けられる3日前に、最後の「遺言」として語ってくださいました。
そのことを是非おぼえてください。