日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

ヘッダー

2015年12月13日 主日礼拝「イエス・キリストの誕生」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書1章18〜25節

説教題

「イエス・キリストの誕生」

今週の聖句

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

イザヤ書7章14節

 

訳してみましょう

1753 Faith never knows where it is being led, but it loves and knows the One who is leading.—Chambers
(信仰は、どこへ導かれるかを知らないが、しかし信仰は、導いてくださる方を愛し、知っている。)

1754 The kev word of Christmas is ”Immanuel”—God with us.
(クリスマスのキーワードは「インマヌエル」である。—神われらとともにおられる。)

 

DIZIANI

 

説教メモ

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)

エデンの園において、アダムとエバが罪をおかしたすぐあとに語られた神さまのおことばです。
この箇所は「原福音」と呼ばれているところです。
福音の元となったっものです。
神さまが人間を救うご計画を、聖書の中で初めて語られているところです。

「女の子孫」と単数形で語られており、ひとりの女性ということです。
「彼」とは「女」の子孫であり、後に私たちは「彼」が「イエス・キリスト」であることがわかります。

その「彼(イエス・キリスト)」が「おまえ(サタン)」の頭を踏み砕くということは、徹底的にサタンを滅ぼすということです。
なぜなら、頭を踏み砕かれて生きているものはないからです。
するとサタンは、イエス・キリストのかかとに噛みつきます。
それは多少のダメージを与えることはできますが、致命傷とはなりません。
これが、神さまがお定めになった原福音(福音の元)です。

「ひとりの女の子孫から、救い主をこの世にもたらす。」
これが神さまのお約束でした。

それからイザヤの時代となり、さらに具体的に語られています。

「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」(イザヤ7:1)

北イスラエルと南ユダに分裂してからしばらくたった頃。
南ユダは「アハズ」という王が立っていました。
この時代に、預言者である「イザヤ」が立てられたのです。
イザヤはアハズ王や当時の主だった指導者たちに「神さまはこう言われる」と神さまのメッセージを伝えていました。

北イスラエルはすでにアッシリヤによって滅ぼされていました。
すでに無くなっていた北イスラエルのわずかに残った者と、隣国にいた異教徒であるアラブ人が結託をして南ユダを攻めようとしていました。
そんな時、イザヤはアハズに告げられた神さまのメッセージを伝えています。

「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。『あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。』」(イザヤ7:10-11)

このような困難な時にこそ、主から助けをいただくべきだ。
そして主に願いなさい。主は必ずかなえてくださるから、と助言をしたのです。
『あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。』

 

みなさんは、聖書の中で「主を試みてみなさい」と勧められている箇所があることをご存知ですか。

マラキ書3章には「試みなさい」とあります。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

私たちの献げものについて、神さまはどう扱ってくださるか主を試してみなさいというところがあります。
神さまはどのように扱ってくださるのだろうか。
それは「しるし」となります。
私たちにとってはチャレンジです。

聖書の他の箇所ではあまり語られていない「主を試す」こと。
主を試みることはアハズが言うとおりやはり良いことではありません。
ですから私たちは普通しないことです。
しかし、ある時神さまは「主を試す」ようにおっしゃいます。
神さまはある時には、神さまを信仰をもって試みるようにと、私たち人間にチャレンジを与えられます。

先程のイザヤ書でも、神さまはアハズにしるしを求めよとおっしゃいました。
北イスラエルとアラムが結託し、自分たちの南ユダに攻めてくる、そんな絶対に勝ち目のない絶体絶命の時、神さまは「主を試みてみよ。主に頼ってみなさい。」と語られました。

それに対してアハズは、

「私は求めません。主を試みません。」(イザヤ7:12)

と答えました。
優等生的な答えのように聞こえます。
しかし実は、アハズはすっかり怖じ気づき、神さまからの信仰のチャレンジを「主を試みることは罪となる」と都合の良い言い訳をし、それに応えられなかったのです。

「そこでイザヤは言った。『さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を<インマヌエル>と名づける』」(イザヤ7:13)

神さまはイザヤを通してこのように語られました。

神さまは憐れみのゆえにアハズを励ますために預言者イザヤを遣わし、絶体絶命の時にも神さまに頼ることを勧め、さらにしるしを求めるようにアハズに信仰のチャレンジを与えられましたが、アハズはそのチャレンジを受けませんでした。

そんなユダを、神さまはなおも憐れんでくださり、神さまご自身がひとつの「良きしるし」を与えてくださると語られました。
それはやがて、「処女がみごもり、男の子を産む」という、不思議な預言でした。
お分かりの通り、やがて処女マリヤから主イエスがお生まれになることを意味していました。

 

これはイエス様が生まれる700年も前の時代です。
その時代に、具体的に、そして正確に救い主の誕生が語られていることに驚きます。

  • 主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
  • 見よ。処女がみごもっている。
  • そして男の子を産み、
  • その名を<インマヌエル>と名づける。

このように、具体的に語られているのです。

 

マタイの福音書に戻りましょう。

ここで私が皆さんに知ってほしいことが2つあります。

  1. 処女降誕とはどういう意味か。その必要性とは
  2. インマヌエルの神が私たちと共におられるということ

 

私たちの救い主「イエス・キリスト」の誕生のストーリーは、なんと聖書に詳しく記されていることでしょう。
先程見ましたとおり、イエス様がお生まれになる700年も前に、イザヤを通して預言されており、さらに遡ること、アダムとエバが罪を犯した瞬間に、神さまは私たちのためにひとりの男の子を与えよう、ひとりの女から生まれさせよう、とご計画を立ててくださっていたのです。

 

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」(マタイ1:18)

ヨセフとマリヤは婚約関係にありました。
ユダヤの婚約とは、法律的に婚姻状態となります。
しかし、婚約時代の一年間は一緒に住んではいけませんでした。
その期間中に、女性が妊娠してしまうことは、非常に不謹慎な、あってはならない問題でした。
道徳的に乱れ、同棲や婚前旅行、さらには子どもを授かってからの結婚が普通となってしまった今の時代とはまるで違います。

ところで、私たちはクリスチャンです。
「世の道徳」とは違うのです。
聖書が私たちの基準です。
一人の男と一人の女が結婚すると言ったら、当人はじめ周囲の人たちも、結婚式が行われるまで聖い生活を保てるように努力をするべきです。

話は戻り、ヨセフとマリヤは法的には結婚していましたが、一年間の婚約時代は聖い関係でいなければならないという、そんな中で、マリヤが身ごもったことが知らされたのです。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:30-33)

マリヤは非常に驚きました。
なぜなら、マリヤはまだ男の人を知らない、聖い処女だったからです。

「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」(ルカ1:35)

マリヤの妊娠は、聖霊によるものでした。
マリヤはそのことをすべて理解できたのでしょうか。
しかしマリヤには信仰がありました。
その信仰の現れが次の祈りとなります。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

 

このように、マリヤの妊娠は聖霊によるものでしたが、夫のヨセフにはまだそのことが神さまから知らされていませんでした。
ヨセフもマリヤが身ごもったことが分かりました。
マリヤのお腹は日ごとに大きくなってきます。
誰にでも分かるようになってきます。
そこで正しい人であったヨセフは、マリヤを離縁し、内密に去らせようとしました。(マタイ1:19)
当時の法律では、ふしだらな者は石打ちの刑(死刑)となることになっていました。(申命記22:13-24)
ヨセフはマリヤをそのような目にあわせたくなかったのです。
マリヤは決してふしだらなことは行っていないだろう、それなのに何故。
そのようなことをヨセフが思いめぐらしていたとき、

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」(マタイ1:20)

ここで初めて、ヨセフに主の使いのことばがありました。
そのことばは非常に具体的でした。

夫のヨセフは神さまの目から見ても正しい人でした。
つまり、信仰の人だったのです。
ですから、マリヤのことも神さまがおっしゃるとおりにしようと決めました。
ヨセフは聖霊に導かれ、そのことが分かったのです。

「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ21:22-23)

冒頭に拝読しました、イザヤ書のみことばが引用されています。

 

「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1:24)

「知る」ということは、夫婦の関係を表す意味です。
イエス様がお生まれになるまで、二人は聖い関係でした。
それほどヨセフは神さまの御目にかなった人でした。

 

聖霊によって処女が身ごもった事実、「処女降誕」には二つの意味があります。

  • マリアが妊娠した原因が、聖霊(神さま)によるものであること
  • 救い主が人間によって生まれること

「神によるもの」、そして「人間によるもの」。
この2つの事実は非常に重要となります。
イエス様は神の御子として罪のない存在であると同時に、人間として他の人の身代わりとなることができる存在であったということです。
半分神、半分人間ということでは決してありません。
完全な神であると同時に、完全な人間であるということです。

処女のマリアが男の子を産んだということはとても重要な事実です。
それはいにしえの預言が成就しただけでなく、その幼子は神さまによるものであり、同時に人間マリヤから生まれたという、完全な神であると同時に、完全な人間であるという事実となります。

イエス様は、一つの人格の中に、神の性質、人間の性質を併せ持っておられました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

 

この世の多くの人は、処女降誕など信じようとはしません。
これは奇跡ですから、通常の認識では考えられないことなので仕方ないことかもしれません。
しかし、神さまは人間の罪を救おうとして計画を立てられました。
私たちを救うためには、私たちを救うことができる罪を知らない人が必要でした。
どんなに立派な正しい人間がいたとしても、完全に聖い神さまの前では等しく罪人なのです。
罪人が罪人を救うことなど、まるで不可能なことなのです。
ですから神さまは、私たちを罪から救うために、罪のないお方を罪とされたのです。
それは、神さまご自身のひとり子でした。
ここに神さまの愛があるのです。
ここに、イエス様の完全な神であられる姿があるのです。
私たち罪人を救うためには、罪を知らないお方が必要だからです。

同時に、イエス様は、完全な神さまでありながら、私たち人間の弱さをご存知でないお方ではありません。
私たち人間の弱さを知るためには、完全に人間とならなければなりませんでした。
それゆえに、処女マリヤが用いられたのです。

「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

人間としてお生まれになり、完全に人間となられたからこそ、私たちの弱さをご自身も体験し、それがどういったものなのかを良くご存知なのです。
それが私たちの救い主、イエス・キリストなのです。

以上のことから、処女より人としてお生まれになることは、どうしても必要なことだった理由が分かります。

 

もうひとつは「インマヌエル(神ともにおられる)」ということです。

私たちの救い主イエス・キリストは処女マリヤから生まれ、その後の生涯は聖書にある通りです。
様々な試練にあわれました。
奇跡を行なわれました。
祭司や律法学者からも命を狙われるほど攻撃されました。
一番身近にいたはずの十二弟子たちは、イエス様が十字架に架けられることが分かると、イエス様の元を去ってしまいました。
弟子の一人はわずか銀貨30枚でイエス様を売ってしまいました。
それが救い主であるイエス・キリストのこの世での姿でした。

しかし、神さまは約束されていました。
この方は、イエスという名の他に「インマヌエル」と呼ばれる、と。
私たちの救い主であるイエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪をすべて負ってくださいました。
私たちのために、救い主としての使命を完全に果たしてくださいました。
しかし、それで終わったのではないのです。

「インマヌエル(神ともにおられる)」

イエス様は、私たちの生涯を通してずっと一緒にいてくださるお方です。

マタイの福音書の一番最後をご覧ください。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」(マタイ28:18-20)

ここは「大宣教命令」と呼ばれています。
マタイの福音書は「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」で終わっています。

「いつもともにおられる。」
インマヌエルの神さまは、今日も、私たちとともにいてくださいます。
今、私たちがどのような状況にあっても、共にいてくださるのです。
苦しみの中を歩いている時、悲しみで立ちすくんでいる時、どんな時でも共にいてくださる神さまなのです。

私たちには親にも、親しい人にも理解されないであろう悩みや悲しみがあります。
誰にも頼ることができない、どうしようもない状況の中にあるかもしれません。
そんな方々は、イエス様のもとに来てください。
この方は頼れるお方です。
絶体絶命の中で、「わたしにしるしを求めよ」とおっしゃるお方です。
いと高き方の子であり、大能の御力によって私たちを罪から救う実力をお持ちの方です。
悪魔の頭を打ち砕く実力のある方です。
そして、私たちの弱さを本当に理解し、共にいてくださる方です。
この方こそ、私たちの救い主。
この方こそ、皆さんが信じることができる唯一のお方です。