日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2015年9月20日 主日礼拝「復活の福音(1)」

    

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章1〜19節

説教題

「復活の福音(1)」

今週の聖句

「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと…」

Ⅰコリント15章3b〜4節

 

訳してみましょう

1729 God cares for you—care for others.
(神さまはあなたを心配してくださるのだから、他の人を心配しなさい。)

1730 No service for Christ goes unnoticed by Him.
(キリストに対する奉仕は、神さまに知られないことはない。)

 

説教メモ

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今日は、新約聖書コリント人への手紙第一15章1節〜19節までをご一緒に学んでまいります。

2週間にわたって「十字架のことば」「十字架の宣教」と題して、Ⅰコリントの1章、2章を学びました。
今日は少しとばして、15章を見てまいります。

コリント13章は、愛の書として知られています。
そして今日の15章は「イエス様の復活」と「私たちの復活」を説いています。
13章、15章はともに私たちにとっては大切な書です。

パウロはここで、私たちに伝えられた福音を「受ける」だけでなく、これによって「立つ」だけでもなく、これを「かたく守らなければならない」と言っています。

私たちは大切にしているものは、とても気をつけて守っていると思います。
泥棒から財産を守るために家の戸締まりに気をつけていたり、大事な作物を害獣から守るために様々な工夫をしたり。
私たちは大切なものを守ります。
もしそうであるのならば、私たちは神のひとり子のイエス様の血潮によって救われたその大切な福音を自分のものとしました。
そしてその大切な福音をかたく守って失わないようにする努力が必要です。

福音とは何でしょうか?

私たち生きている人間にとって最も関係の深いことは「死」です。
「生」に対して「死」があること。
人間のあらゆる悲惨の原因も元を正せばこの死に他なりません。
人間にとって、死ほど平等なものはありません。
死は誰にでもやってきます。富んでいるもの、貧しいもの、教育のあるもの、そうでないもの・・・。
全ての人間に等しくやってきます。
また、どんなに愛している人でもいつかは死別しなければなりません。
生と死は表裏一体です。
人はみな、死を背負って生きているのです。
皆さんは不慮の災害、老後のために備えていますか?
保険に入ったり、貯蓄をしたりです。

しかし皆さん案外、「死のための備え」はしていないのではないでしょうか。
もし保険に入っていたとしても、それは自分の死のための備えではありません。自分の死後の、家族のための備えです。

私たちは死を目前としたとき、おそらく絶望のどん底に落とされることでしょう。
死の備えに対する書籍がたくさん世に出回っています。

あるトラクトに次のようなことが書いてありました。

「この世の財力も、権力も、知識も、人間を墓場の先まで責任を持ってはくれない。」

墓場の入り口には「ここに入る者は希望を捨てよ」という掲示板が掲げてあるとある人は言いました。
それが私たち人間だれにでも訪れる死というものです。

しかし、聖書を信じている私たち、神さまを信じている私たちにとって「死」は「天国への入口」となります。
死を味合わないで天国に行けたなら、なんと素晴らしいことでしょう。
もしイエス様が今、再臨されるなら私たちは死を味合わないで天国に行けるでしょう。
しかしこれまで天国に召された方は死を経験し、その後にイエス様の再臨があります。
これが今現在では、自然の流れなのではないでしょうか。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4章25節)

これは使徒パウロが言っていることです。
イエス様は、ご自分を信じる者がご自分と同じように復活する「初穂」となりました。
このキリストの復活は、キリストを信じる者の復活を確証するものです。

 

ところが、当時コリントの教会の中には、人間の死からの復活を疑う者がいました。
そのためにこの書簡が書かれました。

ここでの復活は「体の復活」であり、「霊魂の復活」のことではありません。
ギリシャ思想や哲学の言う「霊魂を不滅とする」考えとは違います。
ギリシャ人であるコリント人は昔から霊魂の復活を教えられていたので、そのことは疑いませんでした。
しかし「体の復活」のことは彼らにとって耳新しく、疑いを持つものが少なからずいました。
パウロはこの事態を重要視し、Ⅰコリント15章1〜11節のところで力を込めて復活を論じています。

 

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」(Ⅰコリント15章1節)

福音はイエス様の復活が中心となっています。
パウロはかつてコリントで宣べ伝えた福音について、あらためて慎重に語り始めます。

「ところで、キリストは死者の中から復活されたと宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」(Ⅰコリント15章12節)

コリントの教会の人たちは、パウロが宣べ伝えたキリストの復活は信じ受け入れていましたが、「自分たちの復活」を信じられていませんでした。
自分が復活させられるという事が理解できていませんでした。
パウロは、キリストの復活と自分たちの復活を分けて考えてしまうことが間違いだと言っています。
まずキリストの復活について論証します。
キリストの復活は、キリストの再臨の時、それぞれが復活させられるということの基礎になります。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。また、葬られたこと。また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、またケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15章3〜5節)

パウロは最も大切なことがらとして教会に伝えたことは、パウロの思いつきなどではなく、実際に自分自身が受けたことがらです。
その内容は次の4つの項目にあげられます。いずれも「聖書が示すとおりに」という断りがあります。

  1. キリストの死
  2. キリストの埋葬
  3. キリストの復活
  4. ケパや十二弟子、500人の弟子たちに、ヤコブや使徒たち全部に、そしてパウロに表れた

①キリストの死

キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれました。
イエス・キリストが十字架上で死んだことは、教科書や歴史書にも書かれている歴史上の事実です。
しかし、その死が私たちの罪の購いのためであったことは教科書や歴史書に書かれていません。
それは信じる者によって初めて認められることです。

②キリストの埋葬

キリストが墓に葬られたことは、キリストの死の確かさを証明しています。
気絶したり、仮死状態であったのではなく、確実に死なれたことを証明しています。
キリストの死からの復活は、私たちの死からの復活の保証となります。

③キリストの復活

キリストの死と同じくらい重要です。4節にはあえて「聖書に従って」と書き添えられています。

「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。」(ホセア6章2節)

「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16篇10節)

「あなたは私のたましいをハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」(使徒2章27節)

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。」(ルカ24章27節)

ペテロとヨハネは、女たちによって墓に葬られたはずのイエス様がそこにおられないことを知らされました。
そして空っぽの墓を見てイエス様の復活を知りました。ところがイエス様が死者の中からよみがえらなければならないという聖書を理解していませんでした(ヨハネ20章9節)。
キリストの復活は、

  • キリストの神性を示すもの
  • 贖罪のみわざが神に受け入れられたことの確証
  • 私たちのために父なる神さま対してとりなしをされる仲介者となられたしるし
  • キリストを信じる者の復活の保証

となります。

 

④復活のキリストが人々の前に現れたこと

人々の前に復活されたご自身の姿を見せられました。
聖書には復活と顕現(人々の前に現れたこと)が区別されています。
人間が目撃したのは、復活ではなく復活されたイエス様の姿でした。
このイエス様の姿によって復活されたことの確かな証明となりました。
イエス様が現れてくださったことによって、「復活は事実」となりました。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」(Ⅰコリント15章6〜8節)

復活の主はケパ、すなわちペテロに対して1回だけ現れたのではありません。
復活のキリストを目撃したのは、一人二人ではなく、多くの者が同時に目撃したのです。
パウロが書簡を書いた当時、目撃した多くの者は生き残っていました。なので疑う者は彼らに聞いてみると良い、といったような口ぶりで語られています。
主の弟であるヤコブは、主の復活を信じていませんでしたが、復活の主が目の前に現れたことにより信じる者となり、教会の指導者となりました。
最後にパウロ自身にイエス様が現れてくださったことを記しています。
パウロは自分自身のことを「月足らずで生まれた者と同様」と言っています。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15章9節)

パウロはかつて、神の教会を迫害した者であったことを顧みています。

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15章10節)

そのような自分が、神さまに赦され、福音を宣べ伝える者に変えられたことを、そして神さまのために多く働けたことを、どう感謝してよいのか分からないほど感謝していると言っています。
しかしパウロは、そのことを少しも誇ろうとはしていません。
一切は神さまの恵みであることを片時も忘れていませんでした。すべての栄光は神さまに帰するものと心得ていました。

 

復活の否定

Ⅰコリント15章11〜19節は、復活の否定について書かれています。
「ところで」と言って、パウロは確信に入っていきます。

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですが。」(Ⅰコリント15章12節)

ここで注意したいことは、パウロは「死人の復活」を信じられないことを問題としていることです。
コリントの教会は、キリストの復活のことは信じ受け入れていました。
それなのに自分たちが死人の中から復活するということが彼らには理解できずにいました。

コリントの教会で問題となっていたのは、キリストの復活の否定ではなくて、死者の復活の否定でした。

 

「死人の復活がなければ、キリストは復活されなかったのだ。」
これがパウロの主張です。
死人の復活の否定は、すなわちキリストの復活の否定となります。
私たちはこれをどのように理解していったらよいのでしょうか。

気をつけて理解をしてください。
パウロは死者の復活という一般論のひとつの例として、キリストの復活を宣べている。
もしそうだとすると、「一般の人の中の一人として」キリストが復活したことになってしまいます。
一般の人間の復活がないのであれば、人間の一人であるイエスの復活はないことになる。
その論理で言うと、人間イエスの復活があったということは、一般の人間の復活の可能性もあるという程度の主張になってしまいます。
なのでパウロは、この解釈は間違っていると言っています。

 

15章全体の文脈から見てパウロが言いたいことはこういうことではないでしょうか。
1節〜11節で、まずキリストの復活という特別な出来事を集中的に強く証言しています。
また、パウロから見たキリストとはどういうものか。それは、まったく神であられながら人間の体をとった方というものでした。
人間はまったくの罪人である。それがパウロの人間観でした。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6章23節)という信仰に基づいた考えです。
その死ぬべき人間が何の条件もなく、自然に復活するということはパウロには到底考えられないことでした。
ですから、人間そのものの復活から人間イエスの復活という推論は正しくないと言っています。

パウロが言いたいことは、人間の復活がないなら、キリストの復活もないというのは、
すなわちキリストの復活は人間の復活を目指して起こった出来事だったということ。
もし、その人間の復活を否定するなら、キリストの復活は事実起こったにもかかわらず、それを否定することになる。
そしてキリストの復活は起こらなかったも同然の無意味なものになってしまう、ということです。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえられてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10章9節)

キリストの復活が事実であっても、人間の復活を信じなければせっかくのキリストの復活を否定するのと同じことになってしまいます。
キリストの復活を否定することは、キリストを信じないことと同様であり、その人には救いがないことになってしまいます。

 

ところで、パウロは「イエスの復活」と書いていません。「キリストの復活」と書いています。
これは、神のキリストの復活という事実に基づいたことを保証する言い方となります。
人間イエスの復活ではなく、神の御子、すなわち購い主であるキリストの復活をパウロは説いています。
イエスの復活、キリストの復活、同じようなことを言っていると思いがちですが、まったく違います。
人間を強調するのであれば「イエスの復活」となります。

私たちは「イエス・キリスト」、「キリスト・イエス」と二通りの言い方をする場合があります。
これには微妙な違いがあることをご存じでしょうか。

  • 「イエス・キリスト」=人間性を優先する
  • 「キリスト・イエス」=神の子、救い主、購い主であることを優先する

キリストの復活というかたちをとる時、キリストは救い主を意味するのでキリストの復活はキリストによって救われるものと何らかの関係を持つはずです。

「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(Ⅰコリント15章13節)

人間の復活を信じないことは、キリストの復活も信じないことと同様です。
キリストの復活はキリスト者の復活を信じない者にとっては無意味なこと。
ですので、キリストの復活とキリストを信じる者の復活とは信仰上、表裏一体の真理であり、事実であることになります。
パウロはⅠコリント15章20節から、もし死者の復活がないのならどういうことになるのかということを、いくつかの例をあげて説いています。
これは来週学びたいと思います。

キリストが復活されたので、私たちもやがてよみがえらされるのです。

 

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただの恵みによるのです。— キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」(エペソ2章4〜7節)

ここで私が強調したいのは、私たちの天の神さまは私たちがイエス・キリストを救い主と信じたその瞬間から、私たちをご自分の子として扱ってくださっているということです。
ということは、神のひとり子であられるイエス様が十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださった。
そしてやがて、キリストを救い主と信じる者私たちをも、神さまは同じようによみがえらせてくださるということです。
神さまはイエス様を通して私たちをご覧になってくださっています。
キリストが復活された。やがて私たちも復活させられる。そのことを私たちはずっと先のことと思いがちですが、すでに神さまは私たちがキリスト・イエスとともによみがえらされたものと見ていてくださっているのです。
気をつけて聖書を読んでください。

  • 罪過の中に死んでいた=過去形
  • キリストとともに生かし=現在完了形
  • キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ=過去形
  • ともに天の所にすわらせてくださいました=過去形

過去形で書かれています。
私たちにとって復活はまだまだ先の事のように思っています。そして私たちは未だこの地上で色々な困難にあえいでいるようですが、神さまの目には私たちはすでにそのような状態になっているのです。

今週の聖句をもう一度見て下さい。

「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと…」

日本語ではわかりにくいのですが、ギリシャ語の本文でみると、

  • 死なれたこと、葬られたこと=過去形
  • 三日目によみがえられたこと=完了形

で書かれています。
つまり、そのとき一回だけの出来事ではなく、よみがえられたキリスト・イエスが今もなお、そういう状態にあるということになります。
そのことを皆さんの記憶の中に覚えておいてください。

 

人生で必ず成すべき3つのこと

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12章3節)

  1. 心の扉を開き、救い主としてのイエス様を受け入れ、認めていく
  2. 聖霊によりたのんで生きていく
  3. 伝道する

私たちはイエス様を救い主として受け入れました。
それは聖霊の助けによるものです。
さらに私たちは、その素晴らしい救いの証を多くの人たちに宣べ伝えていくのです。