2015年7月19日 主日礼拝「祈りを学ぶ」

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章1節〜13節

説教題

「祈りを学ぶ」

今週の聖句

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

(テサロニケ人への手紙第一 5章16〜18節)
 

Jean-François_Millet_(II)_001御霊によって祈る

ある方を訪問しました。
ひとつ気づかされたことがあります。
祈りとはなんでしょうか?
祈りがひとりよがりになることがあります。そしてその祈りが聞かれないという思いに苛まれるときがあります。
私が訪問したその彼は、まさにそのような状態でした。
私たちは数週間、祈りについて学びたいと思います。
マタイ6章1~4節 施しについて
マタイ6章5節~ 祈りについて
このふたつに共通して勧められていることは、「隠れていること」です。
施し、祈りは、隠れた天の父にささげるものです。
人に知られないように祈りなさいと求められています。
 
施しについて
ここでの「施し」は「」意味です。
施しは知られないように、わざとらしくしないように、と言われます。
施しの中に優越感があってはならない、受ける側は劣等感があってはならないのです。
イエス様は自分の正しさを押し付けないようにと言われます。相手の身になって施しを行うようにと。
人前でラッパを吹き鳴らす。当時7月は収穫が終わる時で、いろいろな礼拝と施しがありました。
7年に一度、また、50年に一度の「ヨベルの年」の7月1日には、貧しい人たちには喜びとなるラッパが吹き鳴らされました。
ヨベルの年は、大きく分けて、三つのことがあげられます。まず「安息年」と「土地の返却」と「奴隷解放」です。このようにして、7年目ごとに安息年が来て 土地を休ませ、さらに50年ごとにヨベルの年が来て財産や奴隷が解放されることにより、社会の格差を是正し、人間同士の搾取や貧富の差を解消して、人は同 じ神の民であり、かつては皆奴隷に過ぎなかったことを思い返して、神を礼拝することを命じたのです。
申命記15章7-8節
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちでも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働き手のわざを祝福してくださる。」
私たちは隠れたところですべてを見ておられる神さまがおられることをいつも覚えておかなければなりません。
箴言19章17節「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」
ローマ2章6節「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」
同16節「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」
神さまは私たちが貧しくて乏しいときに、イエス様を与えてくださいました。
私たちが「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫んでいた私たちに、大切なひとり子をお与えになりました。
私たちの施しが、誰にも知られなかったとしても、隠れた神さまはすべて見ておられます。
ヘブル6章10節「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」
ミレー「晩鐘」 祈りの絵です。
私たちの祈りは神さまに向けての祈り。人を意識すると本当に祈れなくなってしまいます。
また、人に聞かれるための祈りは、神さまに聞かれません。
奥まった部屋(密室)での祈り。神さまにすべての思いを向けて祈るその場所が、私たちの密室となります。
心から神さまに向かって祈りましょう。神さまと1対1で祈りましょう。
思いを祈りを聞いてくださる神さまにのみ集中し祈りましょう。
詩篇63篇5~7節「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

主の祈りを手本として

信じて祈りましょう。
イエス様は「偽善者たちのようであってはいけません」と言いました。(マタイ6章5節)
マルコ11章22~24節「…祈って求めるものは何でも、すでに受けたと人事なさい。そうすれば、そのとおりになります。」
神さまの御こころを求めて祈りましょう。
祈りは自分の願いを押し付けるものであってはいけません。
Ⅰヨハネ5章14~15節「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ…」
祈りは教えられるもの、訓練が必要なものです。
「だから、こう祈りなさい」とイエス様が教えてくださった「主の祈り」に教えられ、訓練されましょう。

神の御心を求めて

 

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