日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年1月10日 主日礼拝「霊的飢餓」

    

本日の聖書箇所

ペテロの手紙第一 2章1〜10節

説教題

「霊的飢餓(きが)」

今週の聖句

「…見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。…」

(アモス書7章8節)

 

訳してみましょう

1761 Without a heart for God, we cannot hear His Word.
(神への心がなければ、私たちは神の言葉を聞くことはできません。)

1762 The more bitter the desert experience, the sweeter the water of the oasis.
(砂漠での経験が苦ければ苦いほど、オアシスの神の水は甘い。)

 

説教メモ

「霊的飢餓」

今朝はクリスチャン・トゥデイより、シリアの状況について、難民として国外に出て行った人々の他に、シリア国内に残っている人々のひどい飢餓についてお知らせしました。
彼らはパンの味を忘れ、草や落ちているもの、犬や猫まで食してしまうほどのひどい状況です。
物質的な飢餓状態です。
シリアのことをおぼえて、祈ってまいりましょう。

さて、先程、Ⅰペテロ2章1~10節をご一緒に読んでまいりました。
ここで言われていることは、「神さまの新しい民となった者として自覚をもって御前に歩みなさい」というお奨めです。
3つのことが言われています。

1.純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。(2節)

生まれたばかりの子どもには、母親の乳が必要です。
私たちはイエス様の十字架のゆえに、霊的に新しい命を与えられたいわば乳飲み子です。
その新しい命を養い育てるために、純粋なみことばという乳が必要です。
それによって成長するためです。まったき救いを勝ち得るためです。
私たちはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっています。
新しく生まれたからといって、私たちは完全にされているわけではありません。
悪意、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口・・・。
それら神さまには喜ばれないあり方、行動から、全く自由にはなっていません。
最も重要なことは、自分が生まれたばかりの乳飲み子であることを認め、神さまのみことばをひたすらに飲み続けることです。
私たちの手元には神さまからの愛のメッセージ「聖書」があります。
私たちの霊的に必要なものは、そこにあります。
日々聖書を読み、霊的に必要な栄養を得て、成長させていただきましょう。
私たちはいつでも、どこででも聖書を開くことができます。
また、テレビやラジオ、インターネットでも福音を聞くことができるでしょう。
しかし、それは永続するものではないと、聖書は警告しています。
いつか、みことばが読めなくなる、福音を聞きたくても聞けなくなる「飢饉」の時が来ます。
今の私たちには想像もできないことかもしれません。
しかし、「霊的飢餓」は来るのです。

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。(アモス8:11)

私たちは今、危機感なく過ごしていますが、聖書はそのように記しています。
ですから、「みことばを聞くことの飢饉」が来る前に、しっかりと神さまのみことばをいただき、養われていなければなりません。
みことばを「心に覚える」のです。
たとえ、私たちに対する反対勢力が及んできても、私たちの心にあるものは誰にも奪えません。
ですから、聖書のみことばを心に蓄えていきましょう。それはとても大切なことです。

主は私に仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が「重りなわです。」と言うと、主は仰せられた。「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。(アモス7:8)

このみことばは、何を意味しているのでしょうか。
神さまはイスラエルの真ん中に重り縄を垂れ下げました。

下げ振りした重り縄とは、家を建てる時などに垂直をきちんと測るための道具です。
例えば、家にとって重要な柱が、まっすぐに、そしてずれていないかをチェックするためのものです。

 

 

 

同じように、神さまは私たちの真ん中に重り縄を垂れ下げておられます。
私たちは神さまのおことばを中心に生活しています。
私たちの中に、おことばからずれてしまっている何かがあるでしょうか?

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ15:16)

私たちの基準は「聖書」です。
この世の人々は、何を基準にして生活しているでしょうか。
この世の道徳、ならわしなどです。
しかしそれらは、その時代ごとに変化していきます。
私たちクリスチャンの基準はそうではありません。
「聖書が何を言っているか。」それが基準です。その基準をもとに、修正すべきことは修正していくのです。
世の人々がしているからといって、私たちにそれは適用されません。
私たちの重り縄の先端は、きちんと聖書を指しているでしょうか。
私たちの歩みが、聖書に基づいたものになっているか問われています。

3~8節までのところには、人には捨てられたけれども、実は選ばれた石、尊い礎石があるのだということが記されています。

家を建てる時には、基礎の石を築き、その上に家を建て上げて行きます。
同じように、霊的な家を建てる時にも、基礎の石を置き、その上に教会を建て上げていくのです。
その基礎の石とは、十字架刑によって人に捨てられた石であり、復活して今も生きておられるイエス様です。
イエス様が、生ける石、尊い礎石として基礎を築いてくださいました。
そのイエス様を信じる私たち一人ひとりも、それぞれが教会を築きあげるための生ける石なのです。
私たちひとりひとりが、この「長野聖書教会」というものを建て上げていくのです。
そのために私たちにはぞれぞれにすべき奉仕が与えられています。
聖書は私たちを「祭司」とまで言っています。
私たちのすべてを、霊のいけにえとして主におささげし、教会の働きが成長するよう、主に信頼し続けながら歩ませていただかなければなりません。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(Ⅰペテロ2:9-10)

本来は滅ぶべき私たちは、イエス様の十字架によって神さまに生かされているのです。
私たちは、神さまの教会のためにどのように用いられていくべきなのか。
それを問うべきでしょう。
神さまは私たちをどのようなかたちで用いてくださるのか、それを考えてください。

私たちは神さまの素晴らしいみことば、御業を宣べ伝えましょう。
主は私たちを闇の中からお選びになったのです。
イエス様を信じた私たちは、神の民、神の所有の者として生かされています。
そのような光栄のある立場に置かれていることを、以前は想像もしませんでした。
しかし事実、私たちは今、そのような立場にあるのです。
ただ主のあわれみによって、闇の中から招きだされ、驚くべき光の中に生きる者とされました。
それは何のためなのでしょうか。
なぜ、主は私たちを特別にお選びになったのでしょうか。
それは、驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えるためです。

冒頭にも言いましたとおり、みことばの飢饉が訪れます。
私たちは宣べ伝えるべきみことばを蓄えておかねばなりません。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ15:16)

クリスチャンという名がつけられている私たちは、神さまのみことばを見つけ出し、そしてそれを食べるのです。
みことばを食べるとはどういうことでしょうか。
それは、みことばを自分のものにする、また暗唱することでしょう。
私たちはみことばを自分のものとし、暗唱して心に蓄えておけば、それはいつでも引き出すことができます。
やがて訪れる「みことばの飢饉」の時にも、みことばを知らない人々に対して、必要な時に、必要なみことばをその人々に伝えることができます。
みことばはすべての人に必要としているものです。
ですから私たちはそれに備えて、みことばの乳を慕い求めることができるうちに、慕い求めて行きましょう。
みことばを心に蓄えることができるうちに、蓄えて行きましょう。

 

2.私たちは霊的ないけにえをささげて行くのです。

私たちクリスチャンは、霊的な生き物とされています。
キリストの血潮によって建て上げられている、建て上げて行くすべての教会に、私たちは実際に携わっていくのです。
ある人が導かれて教会の奉仕にあたることは素晴らしいことですが、私たちはそれを見ているだけの者ではありません。
私たちに出来る奉仕をしていくのです。
一番大切な奉仕は「祈ること」です。
そして、礼拝に出席したり、祈り会に出席したり、教会の催し物に協力して作業をしていくことなどがあります。
また、イエス様が建て上げてくださった「見える教会」には、それを維持していくためには経済的な必要もどうしても出てきます。
皆が皆、同じ奉仕ではありません。それぞれ違う奉仕があります。
せっかくイエス様が建て上げてくださった教会を、私たちは自分が出来ることを霊のいけにえとして主におささげし、教会の働きがなお成長してくように祈って行きましょう。

 

3.神さまの素晴らしい御業を宣べ伝える。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(Ⅰペテロ2:9)

ペテロは私たちクリスチャンのことを、色々な表現を使ってあらわしています。

  • 選ばれた種族
  • 王である祭司
  • 聖なる国民
  • 神の所有とされた民

私たちがこのようにされているのは、神さまの素晴らしい御業を宣べ伝えるためなのです。

みことばを聞いたことのない人々のために、また、みことばの飢饉に備えて行きましょう。