日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年1月17日 主日礼拝「善を行いましょう」

    

本日の聖書箇所

ガラテヤ人への手紙6章1〜10節

説教題

「善を行いましょう」

今週の聖句

「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

(ガラテヤ6章9節)

訳してみましょう

1763 A little kindness can make a big difference.
(小さな親切は、大きな違いを生むことができる。)

1764 Commit random acts of kindness and senseless acts of beauty.
(深く考えずに、無作為に親切な行為をしなさい。)

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説教メモ

先日、「小6女児、遮断機くぐり踏切内の62歳男性を救助、奈良県消防本部が感謝状」というニュースがありました。
その小6の女児「北川さん」は、昨年12月16日午後4時半ごろ、自転車で買い物に行く途中、踏切内で座り込んでいる62歳の男性を発見しました。北川さんは座り込んでいる老人に駆け寄り「大丈夫ですか」と声をかけましたが返事がなく、警報器も鳴り始めたため、遮断機をくぐって男性を線路の外へ連れ出しました。そうして老人は無事に保護されました。北川さんは「助けているときは無我夢中で、何も考えられなかった」と振り返り、「とにかく『助け出さないと』と思った。男の人が無事で良かったです」と語ったそうです。
このような微笑ましいと言いますか、感心させられる勇気ある行動、また親切など心温まるニュースがテレビやラジオ、新聞やインターネットのニュースを占めてくれると良いと思います。

この親切なニュースは、本朝のメッセージにも関係があります。

ガラテヤ人への手紙6章1節〜10節までを拝読しました。
ここでは2つの問題について、使徒パウロは書簡を送っています。

ひとつは教会の中にある過ち、またその過ちに陥ってしまった兄弟への対応の仕方。
それは、やさしい心で間違いを正すことです。
さらに自分自身も間違いを犯してしまう存在であることを十分に知り、自己吟味を怠らないようにすること。互いが迷いやすく弱い存在であることを理解するとき、互いの重荷を担い合うことができる、ということです。

もうひとつは、当時のガラテヤの諸教会は、みことばを教える教師の生活を支える義務を怠っていました。それが出来る状況にあったのにしてこなかったのです。

みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。(ガラテヤ6:6)

負うべき当然の義務を果たすようにとのお奨(すす)めです。
神さまは教会を愛しておられます。教会が善を行うことに飽きてしまわないように、止めてしまうようなことを悲しまれるお方です。
神さまは神さまが望まれる種を蒔き続ければ、必ず刈り取るという喜びを私たちに経験させてくださいます。ですから失望せずに、善を行い続けましょう。もしかしたら自分が刈り取ることがないかもしれません。自分が良い種を蒔いて、それが芽を出し成長し、いざ刈り取るのは別の人かもしれません。しかし、愛の行為(種蒔き)を続けていればそれは素晴らしい結果を必ず刈り取ることになるのではないでしょうか。

先ほどの「訳してみましょう」の英文をご覧ください。
この英文は、クリスチャンの車に貼ってあったステッカーの文言を書き写したものだそうです。
Commit random acts of kindness and senseless acts of beauty.(深く考えずに、無作為に親切な行為をしなさい。)

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)

イエス様はこのようにおっしゃいました。
私たちに「小さな親切」を促しておられます。ですから私たちは「小さな親切」を続けて行くのです。
私たちが「神さまを愛する」というのであれば、その愛は具体的にどのようにあらわされていくのでしょうか。
神さまが私を愛し、私も神さまを愛している。それは分かるのですが、その愛はどのような方法で表現されているか。神さまはどのような愛の行為を喜んでくださるのか。
私たちは「目に見えない神さま」を愛しています。私たちは教会の中にいる様々な人たちに対して、自分が出来ることは何か、自分にどのような助けが求められているのかを祈り求めていくべきでしょう。
なぜなら、イエス様が「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」とおっしゃるからです。
皆さんにはイエス様のこの声が聞こえてきませんか?
「イエス様のために」それは私たちの隣人に対する愛の行為で示されるものです。
私たちの良い行いは、主にすべて認められています。また、良い行いには神さまが報いてくださるとコリントの手紙に記されています。
私たちが天の御国に入る時、私たちがこの地上でしたこと、どのような歩みをしてきたかを神さまはすべてご存知です。
ですから私たちは、小さな善を飽くことなく続けていきましょう。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ6:9-10)

このことを心に覚えてまいりましょう。

 

テトスへの手紙2章を開いてください。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトス2:14)

すべての不法とは、罪と訳しても良いでしょう。律法に違反すること=罪であると、チェーン式バイブルには記されています。
クリスチャンは良いわざを行うことに熱心です。なぜなら、私たちが良い行いをして神さまを喜ばせることができるようにと、神さまは私たちを導いておられます。良いわざとは、神さまに喜ばれる行いです。

あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。(テトス3:1)

「すべての良いわざを進んでする者となるように」このようなお奨めがされています。
私たちは良いわざをするために召し出されていると言っても過言ではありません。
一日の終わりに、自分は今日、良いわざを行ったかどうか。また、あの時ああすれば良かったなどといった反省点はないか。大きなことではなくても、自分にできる小さな良いわざがあったのではないか。そういったことを顧みてみましょう。

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」(Ⅰペテロ3:8~12)

10節からは詩篇からの引用です。

いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。(詩篇34:12~16)

悪から、罪から遠ざかって善を行う。罪を犯しているという自分に気づいたなら、すぐにそのことを悔い改める。心から悔い改めて善を行う。そのことが記されています。

善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ6:9-10)

小さな良いわざを行っていくこと。
特にガラテヤ書にあるように教会の中で助けを必要としている人がいたなら、それを大胆に行っていくこと。私たちが祈りの中で示されたなら、大胆に、飽くことなく良い行いをして行くことが求められています。
私たちは、一人ひとり神さまに示されたことを行って行きましょう。
まずは祈ってまいりましょう。
私たちの小さな愛の行為を神さまは引き上げてくださいます。たとえその行為が誰にも知られることがなくても、それはすべて神さまに知られており、いのちの書に記してくださっている。自分の行いを報告しなくとも、神さまはすべてご存知です。喜んでくださいます。そのような神さまがおられることを私たちはおぼえましょう。
そして「あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方」(Ⅰペテロ3:2)という表現があります。
私たちの言葉において、また行いにおいて、神を恐れて生きる。神に義とされた者として、神さまに喜ばれ、神さまに受け入れられるような生き方を求めてまいりましょう。