日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年1月31日 主日礼拝「神をほめたたえる」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書17章11〜19節

奨励題

「神をほめたたえる」

今週の聖句

「医者を必要とするのは丈夫な者でなく、病人です。・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです。」

マタイの福音書9章12〜13節

訳してみましょう

1767 God can weave the throns of life into a crown of glory.
(神は栄光の冠の中に、人生のとげ(人生の様々な問題・困難)を編むことができます。)

1768 Thankfulness depends on what is in your heart, not what is in your hand.
(感謝は、あなたの手の中にあるものによるのではなく、あなたの心にあるものによるのです。)

本日は、竹下政彦兄が奨励をしてくださいます。

ルカの福音書17章の前に、先週の礼拝で語られたみことば、そして北村師のメッセージを覚えているでしょうか?

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9章23節)

今日のメッセージに入る前に、文字通り、私は先週、十字架を背負って歩きました。それは、自宅の隣にある結婚式場が閉鎖され、解体されるというので、教会に付いていた「鐘」を譲り受けることになりました。その際、十字架もいただいたのです。その鉄の十字架をかついで、結婚式場から200mほど歩きました。その十字架は肩に食い込むほどに重く、また、国道脇の歩道を人々の目にさらされながら歩きました。それは私にとって、イエス様を偲ぶ時となり、感謝なできごとでした。

本日の聖書箇所をもう一度ご覧ください。
短い箇所ですので、全文お読みします。

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
ある村にはいると、十人のツァラアトにおかされた人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ9:11~17)

11節から見てまいりましょう。
「そのころ」とあります。それはイエス様がエルサレムに上られる途中のことです。

イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。(ルカ13:22)

このようにその時の様子が記されています。さらに少しさかのぼってみますが、以下の箇所には次のように記されています。

その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。(ルカ10:1)

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、・・・(ルカ9:51)

さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。(ルカ9:10)

いくつか地名が出てきます。
そして、

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。(ルカ18:35)

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。(ルカ19:1)

都に上っていかれる道程が分かり、イエス様はベツサイダを出てエリコに入られたことが分かります。イエス様は来るべき十字架に備えて、だんだんと都に上られている様子が分かります。

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ガリラヤ湖から真南に100kmのところにエリコの町があります。さらに、エリコの町から西に30kmほどのところにエルサレムがあります。

17:12には、そこに10人のツァラアトを病んだ人がいました。ツァラアトについての記述はレビ記にあります。

彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている』と避けなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。(レビ13:44~46)

この時代は、祭司がこの病気を発症しているか、または癒されたのかを宣言していました。そして、病人たちは家族ほか、すべての人々から距離をおいて生活しなければなりませんでした。そこにはたくさんの病人たちが一緒に暮らしていました。そこにイエス様が、弟子たち、律法学者やパリサイ人、それ以外の群衆とともに通りかかられたのです。彼らはその大きな集団、主の一行が自分たちの町に近づいてきているのが分かりました。誰がイエス様なのだろうか、それは分からなかったのではないかと思います。10人の病人たちは声を張り上げて「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください!」とただ名前を、また先生と叫び、そして自分たちの願いを叫び求めました。それは自分たちが再び病が癒され、さらに人として認められたいという必死の思いからでした。主は彼らの叫びに応え言われました。

「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」(ルカ17:14)

するとどうでしょう。彼らは行く途中でいやされました。10人全員が癒されたのです。
ところが、

そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:15~16)

10人全員が癒されたはずなのに、ただ一人だけがイエス様のもとに引き返してきました。それも、道中を大声で神をほめたたえながらです。
その彼はサマリヤ人、つまり外国人でした。故郷の祭司に見せるためには10日ほどの道のりです。しかし彼は、その途中でわざわざ引き返しました。そしてイエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。するとイエス様はおっしゃいます。

「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(ルカ17:17~18)

18節であえて「外国人」と記されています。つまり他の9人はユダヤ人だったのでしょう。他の9人はユダヤ人ですから、自分たちを見せに行くべき祭司はエルサレムにいるのです。彼らはエルサレムの祭司のところに見せに行く途中で癒されました。つまり、エルサレムを目指して上られていたイエス様の一行を追い越す形で、先を歩いて行きました。しかし、戻ってきませんでした。エルサレムにいる祭司に癒しの宣言をされて、それで終わりとしてしまいました。

それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)

癒された一人の外国人は、信仰があったために癒されました。つまり、戻って来なかった他の9人にも信仰があったのです。病気が癒されたのですから。神さまの恵みは、信仰のある者たちすべてに及んでいることが分かります。

この短い箇所から何を学ぶべきでしょうか。
まずは素直に、苦しい時には恥も外聞もなく、主に向かって叫び求めることが必要だということです。主はそれを受け止め、完全にいやしてくださるのです。私たちには単純な信仰が必要なのではないでしょうか。創造主なる神さまになにもかも心のうちのすべてのことを叫び、助けを求めるのです。
次に、私たちには様々な願いがありますが、私たちの願いが聞かれたならば、私たちは神さまの元に立ち返り、感謝をしなければなりません。

私たちが持つ多くの願いは、私たちの信仰生活において大きなウエイトを占めているのではないかと思います。
私は21年前に受洗した当時、準備の勉強会で祈りには順番があることを学びました。

  1. 主をあがめる
  2. 感謝
  3. 悔い改め
  4. とりなし
  5. 願い

神さまに向き合うには、このような順番があることを学びました。
本日の聖書箇所に戻りますと、癒された10人の中のひとりは、「大声で神さまをほめたたえ」引き返してきました。そして足もとにひれ伏して感謝をしたのです。
イエス様はおっしゃっています。「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
私たちは何よりも、神さまをあがめる、神さまの栄光をあらわすことが、信仰から滲み出てくるまず初めのことであるべきなのではないでしょうか。
私たち主を信じている者の存在理由。それは「主に栄光を」ということです。先週は神さまは何よりも優先されるべきお方、何かと優先度を比べる以前のお方であることを学びました。私たちの「土台」がイエス様です。

神さまをあがめる、神さまに感謝する。それは「目的」ではなく、イエス様を土台として生きる「信仰の結果」なのではないでしょうか。主からどれほどの恵みをいただいているか。私たちは新しいいのちを与えられたのです。私も新しいいのちを与えられた者です。そして私たちのうちには聖霊様が与えられています。それにより、私たちの土台がイエス・キリストである。そのことが可能となりました。
本朝の奨励を準備しているとき、題名をつけるにあたり、「神をほめたたえる」と「イエス・キリストを土台とする」とで悩みました。
私たちはイエス・キリストを土台とし、神さまをほめたたえる歩みをしてまいりましょう。
そして、私たちの祈り、願いには順番があります。

  1. 主をあがめる
  2. 感謝
  3. 悔い改め
  4. とりなし
  5. 素直な願いをささげる

もう一度以上をお分かちして、お奨めとさせていただきます。

 

 

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