日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年12月11日 主日礼拝「羊飼いの礼拝」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書2章8〜20節

説教題

「羊飼いの礼拝」

今週の聖句

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 

訳してみましょう

1850 Heaven’s choir came down to sing when heaven’s King came down to save.
(天の王が救いのために降りて来られた時、天の聖歌隊は賛美するために降りて来た。)

1851 Christ’s birth brought the infinite God to finite man.
(キリストの誕生は、限度のある人に無限の神をもたらした。)

 

説教メモ

1.み使いの出現と告知

イエス・キリストがこの世に来られた。そのニュースは割合細かに記されています。
マタイの福音書とルカの福音書がその辺を良く記しています。
マタイには東方の博士たちのことを、ルカは本朝見てまいりますが、羊飼いたちのところに天の軍勢が現れるという出来事が記されています。

この二つの出来事は、私は大体同じ時期に起こったのではないかと思っています。
東方の博士たちは、エリサレムにユダヤの新しい王が生まれたということを知って訪れました。東方で星を見てからエルサレムに到着するまでに2年くらいかかっているわけです。羊飼いたちのところに天の軍勢が現れてから2年ほど後になって東方の博士たちはエルサレムに到着したのですが、しかし天の御使いが彼らに伝えたのはほとんど同じ時期だったのではないかと思われます。

さて、羊飼いたちですが、ユダヤの社会から差別されていました。彼らは寝ずに羊の番をしなければなりませんでした。律法を守り切れない、礼拝を守れないなどということから、ユダヤの社会からは一人前の人間として認められていませんでした。
しかし、イエス様の誕生が最初に羊飼いに知らされたということは、なんと素晴らしい神さまのみこころがあったのだろうかと思います。世間は自分たちに対しては冷たい。しかし、神さまはそうではなかったのだと、身に染みて感じたのではないでしょうか。

救い主がユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった。

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカ2:7)

馬小屋とは書かれていませんが、とにかく家畜小屋の飼い葉桶に寝かせました。
そのニュースが最初に知らされたのは、近くで野宿をしながら寝ずに羊の番をしていた羊飼いでした。この名も無い、社会的に疎外されていた人たちが、誕生したばかりの救い主を礼拝する最初の人々となりました。ルカはその辺のことを記しています。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」
(ルカ4:18〜19〈イザヤ61:1〉)

貧しい人々に福音を伝える。そのために救い主は地上の生涯を歩まれました。また、山上の垂訓では

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
(ルカ6:20)

このように仰っています。また、

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカ19:19)

このようにルカが記している通り、貧しい人々、また社会に一人前として扱われていない人に福音が伝えられる。これはルカの福音書の一つの特性でもあります。

さて8〜12節です。御使いの出現と告知ということで見てまいります。

ベツレヘムの近くの羊飼いのところに主の使いが現れて、

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
(ルカ2:9〜12)

羊飼いたちを指して「あなたがたのため」にと言われていることに注目したいと思います。彼らのように社会的に疎外されていた貧しい人たちのために救い主がお生まれになった。その証拠として、あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけますと言われます。
まず御使いが羊飼いたちのところに現れて素晴らしいニュースを伝えてくださいました。ただ「あなたがたのために」と書いてありますが、「この民全体のため」ともあり、その代表として最初に羊飼いたちがその素晴らしいニュースを聞きました。

 

2.天の軍勢の大合唱

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
(ルカ2:13〜14)

天の軍勢の大合唱が起こりました。この喜びの賛美。それは紛れもなくキリストの復活に対する賛美があります。そのことを私たちは是非とも見抜いていかなければなりません。「今日ダビデの町で救い主がお生まれになった」という御使いの言われることは、ルカの福音書の続編とも言われるパウロの説教の中にそれが表れています。それによると、神がイスラエルに送られた約束の救い主イエスとは、復活において神が生んだ子に他ならない。

神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。
(使徒13:33)

「きょう、わたしがあなたを生んだ」神さまが仰ったことが書かれています。
イエス様がベツレヘムでお生まれになった。それは、イエス様の行き着くところは「十字架」、その十字架でご自身をささげ、私たちをお救いになるその大きな目標のためにこの地上に来てくださいました。「きょう、わたしがあなたを生んだ。」イエス様がこの世に生まれ、この世に来てくださった。そのイエス様がやがて十字架に歩んでくださった。復活の勝利が私たちにこだまして響いてこないといけないと思います。

 

3.羊飼いによる最初の礼拝

「礼拝」という言葉を使って良いのか分かりません。聖書には「礼拝」とは一言も書かれていません。

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
(ルカ2:15〜18)

羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカ2:20)

このように、礼拝と言う言葉は一言もないのです。しかも、羊飼いたちは礼拝に出席したこともないわけですから、礼拝がどのようなものかさえも知らなかったはずです。御使いが知らせたそのことが本当かどうかということ、それだけが見たかったのです。そして捜し当てるとマリヤとヨセフと布にくるまれた幼子がそこにいたのです。
東方の博士たちは贈り物を携えてきましたが、羊飼いたちは携えていく贈り物を持っていませんでした。持っていけるものが何もなかった、そんな貧しい人たちでした。ただ、御使いに告げられたことが本当かどうかを確認したかったのです。そして全部御使いの話した通りでした。羊飼いたちは大変驚きました。神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。これが礼拝と言っても良いのではないでしょうか。

キリスト教に何の関係もない人が、ふらっと教会の礼拝に出席した時、その人はどんな思いを持つでしょうか。クリスチャンたちの礼拝を見て、これが礼拝か、と思うものでしょう。羊飼いたちも礼拝がどのようなものかは知らなかったと思います。ただ御使いが言ったことが本当かどうかを確かめたくて、見に行ったのです。

羊飼いたちは心のへりくだった貧しい人たちでした。私たちも心をへりくだらせ、貧しい者として十字架と復活の救い主である、飼い葉桶で寝ておられるみどりごを礼拝するのです。

先週のNaECのクリスマスパーティーで大嶋先生がちょうどここのところ、ルカの福音書2章1〜20節からお話しをしてくださいました。今でも私の耳に残っているのは、

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカ2:7)

「いる場所がなかった」、そのことを何度も仰っていました。マリヤもヨセフも宿屋にいる場所がなかった。羊飼いたちもまたユダヤの社会でいる場所がありませんでした。つまり、蚊帳の外の人たち、疎外されている人たちのことです。今の時代にもそのように感じている人がおられるのではないでしょうか。7月には相模原の障害者施設での恐ろしい事件が起こりました。その犯人は障害者施設で働いていた元職員でした。NHKの特集では、同じ職員の方々の証言が紹介されていましたが、みなさん犯人がした残虐な行為を、自分は100%否定できない、自分にもそのような思いが少なからずある、あるいはあった。障がい者施設の元職員、そして障がい者の子どもを持つ親がそのように言っているのです。今の社会には障がい者が多いです。先日はリオでパラリンピックがありました。パラリンピックでは障がい者の方々の華やかな活躍が目立ちました。でも、そのような人たちはごくわずかな、ごくごく一握りの人たちです。他の多くの障がい者たちは、私たちが思っているよりも複雑な思いでそれを見ていたことと思います。私たちは忘れられている、疎外感を感じていたかもしれません。そのような自分のいる場所がないと思っている人々にも福音が伝えられるべきです。私たちクリスチャンはどうすべきでしょうか。責任があるのではないでしょうか。

神さまはなぜ、ご自分の素晴らしい愛のメッセージを伝える対象に、最初に羊飼いを選ばれたのか。
言い換えれば私たちも神さまに選ばれた者たちです。羊飼いたちの一人です。私たちよりももっと社会に疎外されている人たちに対して、神さまの福音を伝える責任があります。神さまに選ばれることはとても素晴らしいことです。誇らしいことです。私たちはこの世で社会的に選ばれることの誇らしさを良く知っているはずです。であるならば、神さまに選ばれたその光栄をもっと自覚しようではありませんか。しかし現実はそうではありません。神さまからの栄誉よりも、人からの栄誉が優先されてしまっているのが今のこの世です。そこにおいては救われること、赦されることへの感謝と悔い改めの奥深さが理解されていません。赦されたことへの思いが深い人は、一生感謝し続けることができます。自分の罪がイエス様の十字架によって赦されたという思いがある人は、私は霊的にその人は素晴らしいと思います。しかし、神さまの赦しが当然のように、また神さまが私たちの罪をすっかり忘れてしまっているのだからと考える人は危険です。そのような人にとって、やがて信仰が邪魔になる。必要ないと思うようになります。そして信仰を捨ててしまうことが多いのではないだろうかと思います。

羊飼いたちのその後について、聖書は何も記されていません。
同じ羊飼いという仕事を続けていく中で、神さまに選ばれたこと、神さまに任せられたこと、神さまがいつも自分たちに目を留められてきた、これからもそうなのだということに対する喜びと光栄を持って生きていったことだろうと私は思います。

神さまに選ばれていること、神さまに期待されていることを、今日の私たちはどう受け止めていくのでしょうか。今日、礼拝に集えたことも神さまの恵みとお導きによるものです。私たちは自分が勝手に礼拝に来ているのだという錯覚をしてしまいがちですが、決してそうではありません。礼拝に来るにはそれぞれ戦いがあるかと思います。私たちもこの世との関わりの中で生きています。どうぞ皆さん。神さまに選ばれたこと、神さまに任せられたことに対する喜びと光栄をもって、それぞれの戦いに勝利してまいりましょう。そうすると、やがて天に行った時に、神さまからの栄冠が授けられるでしょう。