日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年12月4日 主日礼拝「神が人となる」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書2章1~7節

説教題

「神が人となる」

今週の聖句

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

テモテへの手紙第一2章5節

 

訳してみましょう

1848 Jesus takes us as we are and makes us what we should be.
(イエス様は私たちをありのまま受け入れてくださり、あるべき姿に変えてくださる。)

1849 God’s love became incarnate at Bethlehem.
(神さまの愛は、ベツレヘムで受肉された。)

 

説教メモ

1.歴史的な事実

クリスマスは、イエス様の誕生を祝う季節です。聖書には具体的な日付は記されていません。人間のやることは不完全なことばかりです。12月25日がクリスマスと定められたのは、私の記憶によると、ヨーロッパの冬至に関係があったかと思います。聖書的ではありません。

イエス様が誕生した時、それは前代未聞の出来事のはずでした。イエス様は「王の王」として来られました。日本には皇室、ヨーロッパには王室というものがあります。そこに跡継ぎが生まれるとなるとそれはそれは大騒ぎとなることでしょう。専用の車で、専用の病院の、豪華なベッドが用意され、色々な人に誕生を祝う祝会の招待状が送られたり。それに比べ、私たちの救い主の誕生、最初のクリスマスはどうだったでしょうか。王の王、主の主がお生まれになった時、旅先で宿もありませんでした。マリヤは一人孤独に、家畜小屋で赤ちゃんを産みました。

私たちの主は、最も貧しい状況で生まれました。私たち自身の生き方を生々しく体験されたお方です。それだから、いかなる状況にある人でも救い出すことがお出来になります。神がすべての人の魂を救うということは、決して口先だけのことではなく、すべての人が救われることを神さまは願っておられます。貧しい人もです。聖書を見ると、特に貧しい人が先に救われるのです。救い主がお生まれになった知らせは、野で羊の番をしていた羊飼いたちにもたらされました。彼らは人として十分に数えられていない人たちでした。神さまはまずそのような貧しい人たちに喜びの知らせを届けました。神さまはまず貧しい人に心を留めてくださったのです。もちろん金持ちも外れているわけではありません。東方の博士たちの記事はそれを物語っています。

メシヤである救い主は、ダビデの子としてお生まれになりました。

主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
(Ⅰサムエル16:1)

サムエルに向けて神さまが語られたおことばです。
当時イスラエルはサウルという初代の王様がいました。最初は良かったサウルですが、段々と神さまの御心にかなわないことをして、後に神に退かれてしまいました。サムエルは神さまによってベツレヘム人エッサイのところに遣わされました。そこから後の王、あのダビデが登場してきます。

ヨセフは、聖霊によって身ごもったマリヤを連れて、ベツレヘムへの旅をしました。

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
(ルカ2:1)

皇帝アウグスト。そのアウグストからの本籍地での住民登録をするようにとの命令でした。その主な目的は税金集めのためと、戦いが起こった際の兵力を知るためでした。

ところで聖書に登場する皇帝アウグスト、シリアの総督クレディオ。そういった証拠が歴史上の記録に残っております。つまり、神さまのなさることはこの世と非常に深い関わりがあります。私たちの日々の営みのただ中で、神さまは私たちを導いておられる。それがまさに歴史なのです。聖書、そしてクリスマスの出来事は世の中の歴史の中に、私たちの日々にしっかりと根付いたものであります。

 

2.飼葉おけの赤ん坊

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
(ルカ2:6〜7)

ベツレヘムに到着すると、マリヤは産気づきました。しかし安心して赤ちゃんを産める宿屋がありませんでした。そこで家畜小屋で赤ちゃんを産み、そして布にくるんで飼葉おけに寝かせました。救い主、神の御子の誕生にはまったく似つかわしくない何ともみすぼらしい環境、また悲惨な状態でした。家畜小屋はとても臭くて汚いところでしょう。人となられた神のひとり子の生涯は、その家畜小屋から始まったのです。その悲惨と思われる状況は人となられた神の子、救い主が地上で歩まれる姿を映し出していました。イエス様が地上でどのような生涯を歩まれるのか。それを家畜小屋で生まれたことによって表されました。貧しい者、弱い者、抑圧されている者の見方として,彼らに救いと解放を知らせ、主の恵みの年を告げ知らせる救い主。その指し示す究極の光景はあの「十字架」の出来事でした。やがてその十字架に向かって歩まれるのです。

神は霊である。(ヨハネ4:24)

神さまは私たちの目には見えません。しかし、神さまはモーセを通して十戒をお与えになりました。そして律法を守り行えば、あなたがたは義とされるのだという契約を結ばれました。しかし人は誰一人として律法を100%守ることができませんでした。神さまはそんな人間に、ひとり子をこの世にお与えになったのです。本来ならば目に見えない神さまが、目に見えるかたちでこの世に来られたのです。特別な、特別な啓示です。ユダヤ人たちはそれが信じられず、受け入れられませんでした。しかし、受け入れた者には永遠のいのちが与えられました。神は霊であり、私たちの目には見えないお方ですが、一時、私たちに見えるかたちで神さまは私たちの目の前にご自身を表してくださいました。それがクリスマスです。

イエス様は地上でわずか33年の生涯でした。その中で多くの試練に遭い、また神の子として多くの奇跡を行いました。しかし人々はイエス様を神の子として受け入れませんでした。弟子たちを召し出しました。イエス様の後を継ぐべき弟子たちもそれぞれ失敗し、主を見放しました。そのような中でイエス様は寂しく、弟子たちにも見守られることなく、ご自身を十字架でささげてくださいました。それが神の子としての地上の姿だったのです。なんと哀れなことでしょう。誕生は家畜小屋。何一つ特別な取扱いを受けなかったイエス様が、十字架に歩まれ、人々にののしられ、つばきをかけられ、それが地上の生涯の最後でした。この世に現れてくださった神さまの生涯はそんな姿でした。悲しいことばかりでした。しかし、その中でイエス様を救い主と信じた人を、神さまは救おうとされました。そして弟子たちに言いました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(ルカ9:23)

そして

あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)

と、私たちに新しい戒めを与えられました。これを完全に実践できる人は誰もいないでしょう。簡単なことではないからです。「わたしがあなたがたを愛したように」。これは十字架の死を意味するからです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:10)

日々自己否定をして、自分の十字架を負うことは、死刑場に向かうこと。その行き先はゴルゴタの丘。刑場です。刑場に向かって歩む私たちの姿がそこにあります。そのことをイエス様は私たちに託されたのです。さらに、

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御吊によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:19〜20)

これが弟子である私たちに託された道です。

 

3.人となられた神

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
(Ⅰテモテ2:5~6)

これを記したのはパウロですが、イエス様を唯一の仲保者、仲介者としてここで傷害しています。

私たちは、神さまの前に進み出ることができません。皆さんは時代劇を見ますか? 時代劇では殿様に直接訴えることができません。仲介者となる側近を通して訴えています。それと同じで、私たち罪人である人間は、神さまの前に進み出るために仲介者が必要なのです。私たちは罪を犯しました。なので神さまからの栄誉を受けることができないと聖書に書かれています。だから私たちには神さまとの仲立ちをしてくださる方が必要なのです。その仲介者はキリストのみです。キリスト・イエスが唯一の仲介者です。

救い主が人となられて神の子として誕生したのは、神と人との間の仲介者となるためでした。神さまは唯一です。その仲介者も唯一です。その唯一の仲介者は、人となられて神の子キリストです。神と人との仲介者のつとめは、すべての人を罪から救う働きをすることです。そのために仲介者は、すべての罪人のための贖いの代価として自分のいのちをささげなければなりません。その仲介者としての大事な資格は、罪を知らないことでした。罪を知らない者は人間の世界に誰一人いませんでした。そこで神さまはご自身のひとり子であられるイエス様をこの地上に送られました。イエス様と私たちとの唯一の違いは、私たちは罪を犯した罪人であり、イエス様は罪を知らないお方だということです。だからイエス様が、私たちにとっての唯一の贖いとなられました。贖いとは買い取ることです。私たちの罪を買い取り、帳消しとしてくださる方が必要です。それはイエス・キリストです。そのイエス・キリストが十字架において私たちの罪の身代わりとなり死を遂げてくださった。イエス様は私たちの贖い主、唯一の仲介者です。ですから私たちは仲介者であるイエス様のお名前によって祈るのです。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ3:23〜24)