日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年2月14日 主日礼拝「優しい説得」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章13~16節

説教題

「優しい説得」

今週の聖句

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

(申命記6章4~5節)

 

訳してみましょう。

1771 Oppotunities to be kind are never hard to find.
(親切をする機会は、決して見つけづらくない。(容易))

1772 You can introduce a person to Christ, but you can’t make him believe.
(あなたは人をキリストに紹介できるけれども、あなたは彼を信じさせることはできない。)

 

説教メモ

イエス様の弟子(イエス様を信じた者)として、ふさわしい歩みとはどんな歩みか。先々週の礼拝で学び、さらに先週の礼拝でも復習をしました。
3つのことを申し上げました。覚えておられるでしょうか。

  1. 神さまを最大限に愛すること。
  2. 自分の十字架を負うこと。
  3. 生涯キリストに従うこと。

神さまを最大限に愛すること。それは今週の聖句である申命記6章4~5節にあるとおりです。私たちが信じる神さまは、私たちが最大限に愛することができる、またそれにふさわしいお方です。そして自分の十字架を負って、さらに、生涯、日々、毎日毎日キリストに従うのです。
さらに加えて、先週は「模範になりなさい」ということをお話しました。今日の聖書箇所にあるおことば、特に16節のおことばをご覧ください。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

世の人々は私たちクリスチャンのことを、私たちの行いを良く見ているものです。その良い行いを見た人々が、私たちを見習うことがあるなら、見習いたいという思いが起こるようなら、それは良い模範となることですから、素晴らしいことではないでしょうか。

本朝は、私たちが人々の模範であるべきこと、しかもその模範は「やさしい模範であるべき」というテーマでメッセージしたいと思います。

教会には様々な人たちが来ます。そして私たちクリスチャンとされている者が、教会を訪れてくれた人に対して厳しく批判をしたり、裁いてしまうようだと、おそらくその人は二度と教会には来ないのではないかと思います。クリスチャンが信じていることなど、信じたくないと思うのではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、先に救われた者として、心優しく人々に接していく必要があります。そのことを、イエス様が人に接しられた方法を見て、そこから学んでまいりましょう。説教題には「優しい説得」とありますが、説得とは少し強い表現かもしれません。私たちは人々に対して優しく接していく。それが私たちの「証し」であります。

先日、デボーションの手引きの中にある証しがありました。
コロンビアでのお話しです。
コロンビアにいる宣教師は、ある雨の日に貧しい3~4歳と見られる少女が、赤信号で停まっている車のヘッドライトを拭き、引き換えに多少のお金を貰うということをしていました。宣教師はそのあり様を見て、「なんとこの世は不公平なのか!」と、神に訴えました。
このエピソードを読んだ時に、私は何年か前に読んだもうひとつのエピソードを思い出しました。それはニューヨークでの出来事でした。ニューヨークには「ラガーディア」という国際空港があります。このラガーディアという名前、実はあるニューヨーク市長の名前からとられています。
さて、ラガーディア氏がニューヨーク市長であった頃、ある裁判が開かれました。それはある貧しい老婆が、空腹の孫になんとかパンを食べさせてあげたい一心で、たった一切れのパンを盗んで捕まってしまったのです。ラガーディア市長は担当の裁判官に代わり、その裁判を執り行いました。そして罰金の判決をくだしました。するとラガーディア市長はすかさず、自分の帽子を手に取り、傍聴をしていた民衆に回し始めました。「ここにあなたがたは罰金を支払いなさい」と。それは、この貧しい老婆が自分の空腹の孫になんとかパンを食べさせたくてパンを盗んでしまった。これは社会が悪いのだ。そういう社会に私たちは住んでいるのだと傍聴の民衆に訴えました。そして集まったお金で老婆の罰金を支払いました。心温まるエピソードではありませんか。なるほど、そのような市長であったからこそ、国際空港に彼の名前がつけられたのも納得がいきます。
さて、コロンビアの宣教師の話しに戻りますが、「この世は不公平ではないか!」と怒りを覚え、そして神さまに訴えた時、神さまは祈りの中でお答えになりました。
「あたなの訴えていることは分かる。しかし、わたしはあなたたちをわたしに似たような者に創造したのだ。」
宣教師は気づきました。この世を不公平としているのは、もともとは神さまに似たものとして創造されたはずの自分たちのせいなのだ。

イエス様は、罪で真っ暗なこの世に、光として来てくださいました。不公平なこの世に、主はご自身をあらわしてくださったのです。そのイエス様を通して私たちはだんだんと変えられていきます。私たちは世界が抱える多くの問題を解決することはできません。しかし、世の光として、私たちは良い証しをしていくことができます。そのような私たちの生き方、姿を通して、他の人々が信仰を持つに至るならば、それは大変素晴らしいことです。

本日の聖書箇所であるマタイの福音書5章13~16節の中で、二つのことが言われています。

  • あなたがたは、地の塩です。(13節)
  • あなたがたは世界の光です。(14節)

このことは何度も何度も読まれており、また記憶されていることだと思います。

もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)

さて、皆さんは「塩気をなくした塩」というものを想像できますか? それはいったいどんな物質なのでしょうか。私はそんなもの、見たこともないし想像もできません。イエス様はなぜそのようなことを仰ったのでしょうか。
イエス様は私たちひとりひとりは、「地の塩なのだ」と仰いました。私たちが地の塩としての役割を果たさなくなったなら、塩が塩気をなくしまるで役に立たない物質になってしまうように、そのような役に立たない人間になってしまうのだということは、私たちクリスチャンとして想像できるのではないでしょうか。
同じように「世界の光」であることについて、

山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:14~16)

今日は賛美しませんでしたが、讃美歌312番「いつくしみふかき」の歌詞の中に、次のような箇所があります。

「世の友われらを 捨て去るときも 祈りにこたえて 労(いたわ)りたまわん」

友に捨てられるとは、何と辛いことでしょうか。今まで親しかった友に捨てられる。それは本当に悲しいことではないでしょうか。しかも、クリスチャンとして生きるということは、親しい友から迫害されることをも覚悟しなければなりません。今まで親友だと思っていた友から敬遠されるようになったり、悪いことを言われるようになることもあります。しかしイエス様は仰います。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:11~12)

神さまは私たちのすべてを見て、ご存知です。私たちの人生の出来事は、すべていのちの書に記録されています。クリスチャンは世の人々に迫害されたとしても、その世の中で生きていかなければなりません。その世に生かされているからです。さらに私たちには役割を担わされます。それは「地の塩、世界の光」としての存在となることです。

この世は罪が満ちており、暗黒です。腐敗しています。なぜなら神に背を向けた人々がその民であるからです。その支配している者が「悪魔」だからです。

「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:6)

これはサタンが言っていることです。このことから、サタンがこの世界のいっさいのものを支配していることが分かります。この世の本質は、神さまに逆らうようになっているのです。そのような中で、御国の民、すなわち私たちクリスチャンが迫害されるのは当然のことです。

塩には腐敗を防止する働きがあります。つまり、私たちクリスチャンは地の塩として、この世の腐敗を止める役割を担っているのです。イエス様が言う「地の塩である」とは、「神さまの支配の中にある」ということを意味します。ですから、神さまの支配を失ってしまうなら、この世は他の何ものによっても腐敗を防ぐことはできません。塩気をなくした塩には存在価値がないこと。そのことを心にとめておく必要があります。
さらにイエス様は私たちを「世界の光である」と位置づけています。これから世界の光になろうとしているのではありません。すでに私たちは世界の光とされているのです。気をつけなければならないのは、光を隠してしまってはならないということです。私たちは我が身を隠してはならないということです。私たちクリスチャンは、救われた者として、御国の民として、世の人々にその存在を知らせていかなければなりません。その中で、たとい迫害が起ころうとも、私たちが世界の光としての存在を隠さずにいるならば、迫害を加える人々の心が次第に変えられていくのではないでしょうか。

律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。(マルコ12:28~34)

律法学者やパリサイ人は、聖書の中ではイエス様に敵対する者として書かれていることが多いのですが、ここでは律法学者がイエス様に褒められています。それは今週の聖句「申命記6:4~5」の命令をイエス様が彼らに示された時、賢い返事をしたからです。さらに「あなたは神の国から遠くない。」とまで仰いました。その律法学者はその場でイエス様を救い主と信じたのかは分かりませんが、それからはだれもイエス様に反論する者はいませんでした。

訳してみましょうの英語の文章をご覧ください。

You can introduce a person to Christ, but you can’t make him believe.
(あなたは人をキリストに紹介できるけれども、あなたは彼を信じさせることはできない。)

私たち人がイエス様を信じる、「イエスは主です。」と告白できるのは、聖霊によるものです。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

私たちはある人を教会に招きます。イエス様に紹介します。しかし、信じさせることはできません。ですから私たちは、その人が是非とも救われてほしいという思いから、その人に優しく接することが求められます。その必要があるのです。

5161
聖書の中に「99匹の羊のたとえ」があります。

 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(ルカ15:4~6)

100匹の羊を飼っていた人が放牧から帰ってみると、99匹の羊しかいませんでした。1匹足りないのです。その羊飼いはどうしたでしょうか。99匹の羊をそこに置いておき、足りない1匹を心から心配し、来た道を引き返して一生懸命捜しました。迷った1匹の羊が見つかったとき、その羊飼いはとても喜びました。嬉しくてうれしくて、その羊を肩に載せて家に帰りました。その話しをイエス様がされました
そこに私は、イエス様の優しさを見るのです。
神さまは、99匹の羊を無視したわけではありません。99匹の羊は安全に家に帰れました。しかしイエス様は、迷った1匹の羊を探し求められました。そこにイエス様の優しさが見えないでしょうか。そのような優しい主がおられます。

みなさんは「Foot Print(フット・プリント)」という有名な詩をご存知でしょうか。

主と私で歩いてきたこの道
あしあとは二人分
でもいつの間にか一人分だけ 消えて無くなっていた
主よ あなたはどこへ行ってしまったのですか
わたしはここにいる あなたをおぶって歩いて来たのだ
あなたは何も恐れなくて良い
わたしが共にいるから

イエス様の優しさがとても良く表現できている詩だと思います。
主を証ししていくとき、私たちはこのような主の優しさを模範とすべきです。
決して自分の信仰の基準を押し付けてはいけません。私たちはすでに救われた者として、ある程度高い信仰の基準を持っています。教会にも何年も通っています。聖書のお話しもたくさん聞いています。しかし、初めてイエス様を紹介され、初めて教会を訪れる人はどうでしょうか。あるいは、教会に来はじめて間もない人はどうでしょうか。もし、その人に対して頭ごなしに断罪をしたならどうなるでしょうか。そこには優しさもなにもありません。
私たちは主の行動から、優しさを学ぶべきでしょう。
そして、実際に私たちの証しに、様々な働きにその主の優しさを取り入れていくべきでしょう。

讃美歌391番「ナルドの壷」

  1. ナルドの壷ならねど、
    ささげまつる、わが愛
    みわざのため 主よ潔めて
    うけませ。
  2. よわき民に ちからを
    おぐらき世に  ひかりを
    あたえて主の たかき御旨
    なさばや。
  3. 怖(お)ずるものに 平和を
    なげくものに のぞみを
    わかちて主の ふかき恵み
    あらわさん。
  4. この世のわざ おわりて
    あまつ国に かえらば
    主よ、みまえに 仕えまつらん
    ときわに。