日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年4月3日 主日礼拝「イエスに会った弟子達」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章13~35節

説教題

「イエスに会った弟子達」

今週の聖句

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

ルカの福音書24章32節

 

訳してみましょう

1785 Christ came not to satisfy our curiosity but to save our souls.
(キリストは私たちの好奇心を満たすために来たのではなく、私たちの魂を救うために来た。)

1786 The great physician is always on call.
(偉大な医者<キリスト>は常に待機している。)マルコ12章17節

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説教メモ

本朝拝読ししました聖書箇所は、「エマオへの途上」です。会堂の前方にはその場面が描かれた絵画が飾られています。

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。(ルカ24:13)

「ちょうどこの日」とあります。ちょうどこの日とは、主の復活の日です。そして「ふたりの弟子」が登場しています。

クレオパというほうが答えて言った。(ルカ24:18)

ふたりの弟子のうち、ひとりは「クレオパ」です。

兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。(ヨハネ19:25)

ここにクロパという人が登場していますが、このクロパとクレオパは同一人物であると、多くの聖書学者が同意しています。ですから先ほどの「ふたりの弟子」のうち、ひとりは「クレオパ」、もうひとりは私が思うにその妻であったのだと思います。その二人がエマオへ向かっています。なぜエマオに行ったのでしょうか。
「エマオ」とは「温かい井戸」という意味になります。聖書学者が言うには、エマオと名のつく町は4つあるそうです。どの町であるのかは断定できません。聖書には「エルサレムから11キロメートル余り離れた村」と記されています。歩いて約2時間ほどでしょう。長野からですと、戸倉あたりになるのだと思います。

そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(ルカ24:14〜15)

ここから24節まで、イエス様がそこに合流されて、彼らと話をする場面が出てきます。

しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(ルカ24:16)

「目がさえぎられていた」とは、別の言葉で言うとどのように言えるのでしょうか。信仰の目がさえぎられていたのでしょうか。信仰の目があったら、それがイエス様だと分かったと思います。復活の主は肉体を持っておられましたが、肉眼ではそれと分かりませんでした。
西に向かっています。つまり、夕日に向かって歩いています。そこにイエス様が合流し、話し合いに混じってこられました。

イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:17〜23)

クレオパは、誰でも知っているはずの出来事をあなたは知らないのですか、と呆れたように答えました。イエス様が「何のことですか?」と聞かれると、二人は答え、十字架と空っぽの墓について話しました。
ルカは挿入する形で12節で

しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。(ルカ24:12)

ペテロが走って墓に行ったことを伝えています。
クレオパとその奥さんはこれらのことをイエス様に向かって話し、そんなことも知らないのですか、と呆れていました。

ここで、十二弟子ではなかったのですが、弟子であったことは確かなクレオパと奥さんは、

しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。(ルカ24:21)

望みをかけていたのですが、その望みがかなわなかったと言っています。
ここで彼らが、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ。」と言っているのはどういうことでしょうか? この時点で彼らは、心から「罪からの救い」「霊的な贖い」を求めていなかったのです。彼らが待ち望んでいたのは、ローマの圧政からの救い、イスラエルのローマからの力の支配からの脱出、独立といったイスラエルの政治的な贖いを望んでいました。ですから、イエス様が十字架に架けられ死んでしまった時、皆は思っていたことが成就しなかったために、弟子たちは自分たちも十字架に架けられてしまうのではないかと恐れ、逃げてしまいました。

弟子たちは、こんなはずではなかったと思った。女たちが知らせに来た、そしてペテロも走って見に行った空っぽの墓は事実だけれど、それはどうしたことなのだろうか? これでイスラエルは本当に贖われるのだろうか。そこまで二人の者はイエス様に話しました。

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈊い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24:25〜27)

ここでイエス様は、聖書のどの部分を引用されて解き明かされたのでしょうか。はっきりと書かれていませんので私たちの推測になってしまうのですが、みなさんはどの箇所を想像しますか? エマオまでの時間は歩いて2時間ほどです。イエス様が二人に追いついて一緒に話をした時間は、おそらく1時間以上はあったのではないでしょうか。ですから、イエス様がご自身のことを聖書全体の中から解き明かされた時間は、結構長かったのでしょう。その長い時間の中でイエス様が引用された聖書の箇所、みなさんはどのように考えられるでしょうか?

第一に考えるには、出エジプトの過ぎ越しの祭りのことを話されたと思います。イエス様が十字架に架けられたのは、その過越しの祭りの最中だったからです。あの過越しの子羊になったのは、あのイエスという者だったのだ、とイエス様ご自身が語られたと思います。

「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。(レビ23:27~28)

イエス様は贖罪のことも話されたのではないでしょうか。さらに、詩篇における十字架の苦しみついても話されたかもしれません。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。(詩篇22:1)

さらにイエス様は、詩篇16篇も引用されたのではないでしょうか。その可能性はあります。

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(詩篇16:8~11)

ルカは使徒の働きで、ペンテコステの時にペテロが立って説教をした記録を記しました。そのペテロがダビデの言葉を引用して説教した箇所を次のように記しました。

それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。(使徒2:31)

これは先ほど拝読しました、詩篇16篇10節の成就です。イエス様の復活についての証言です。
また、イエス様ご自身がまだこの世におられた時、ヨナの物語を取り上げられました。ご自分の三日目の復活のことを表すものであることを認めて居られます。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:39~40)

十字架と復活は、旧約聖書全体を貫く中心的なテーマです。そのことをイエス様は道々解き明かされたのではないでしょうか。この二人に、イスラエルがただ政治的に救われるのではなく、イスラエルの一人ひとりの罪が贖われること、罪が聖められて救われることを神さまが願っておられたのだということを話されました。

彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。(ルカ24:28〜29)

二人の弟子たちは素晴らしいことをしたと思います。一緒に泊まってくださるよう無理に願いました。もし、このように願わずそこで別れてしまったなら、二人の目は開かなかったでしょう。
イエス様は泊まるために中に入られました。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24:30〜31)

おそらく、弟子たちと行動を共にされたとき、イエス様はこのようにされたのでしょう。食事の時、自らがパンを割き弟子たちに渡されていたのでしょう。最後の晩餐の時の聖餐の時もそうでした。しかし、クレオパとその妻は最後の晩餐にはいませんでしたが、食事の時のイエス様のやり方は良く知っていました。そしてそのやり方を見て、すぐにイエス様だと分かりました。彼らは霊の目が開かれました。その瞬間イエス様は見えなくなってしまいました。復活の主は、肉体は持っておられましたが、何ものも妨げになることは出来なかったからです。

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

すぐにエルサレムへの11キロの道のりを戻りました。

すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。(ルカ24:33〜36)

彼らの信仰の目が開かれました。

皆さんは今週の聖句にあるような体験をしたことがあるのではないでしょうか。

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

心が燃える、何かあたたかなものが心にこみ上げる。聖書を読んでいて、あるいはメッセージを聞いていて、あるいはコンサートや伝道集会において、何か自分の心にあたたかなものを感じる。神さまに向かって自分の心が開いているのを感じたことはないでしょうか。おそらくあると思います。
礼拝前にジョン・ウェスレーが提唱した3つのことを思い出してください

クリスチャンは

  • できるだけ儲けなさい。
  • できるだけ与えなさい。
  • できるだけ節約しなさい。

ジョン・ウェスレーが体験したことを本で読んだことがあります。彼がまだ高校生か大学生だった若い頃、ある教会の礼拝に出席していました。そこで司会者がローマ人への手紙の序文(1章)を読んでいました。そこで彼の心が燃えた体験をしました。後に彼はメソジスト運動というものをおこすのですが、その原点がそこにあったことを記しています。

私の個人的な証しをしますと、私がなぜクリスチャンになったかと言いますと、聖書には処女降誕など、色々な奇跡が書いてあるのですが、一番の奇跡だと思ったのは「イエス様のよみがえり」でした。聖書を読んでいて、最初は信じられない思いでいました。完全に死んだ者が生き返るなど普通ではあり得ないことです。そのことをイエス様はなさった。それを信じられるようになった、心が燃えるような思いを、私はローマ書5章で体験しました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

ここには復活のことは書かれていませんが、イエス様が十字架で死んだということは、私たちの罪のためであった。そこに神さまの愛が十字架に現されているのだということをパウロは説明しています。私はこのみことばを読んだ時、私の心はうちに燃えたのです。

イエス様は私の罪のために死に、三日目によみがえられたのだ。復活など信じない多くの人がおり、復活に対する反論もあるけれど、それでキリストがよみがえらなかったという証明はされていません。先週もお話ししましたが、復活などあり得ないと頭から否定していた「デングリオン」という人が、自らの私財を全て投じて、キリストは復活などしなかったのだという証拠を求め徹底的に調べ上げました。しかしその結末は、彼はキリストの復活を完全に認める、信じる者へと変えられたのです。その作業のあいだに、彼の心はうちに燃えたのです。
もしこの中に、復活のことが信じられない人がおられるなら、私はむしろ喜ばしいと思っています。是非そのことを徹底的に調べ上げて下さい。キリストは絶対に復活しなかったのだ、そのことを証明してみせるといったような意気込みで、みことばにあたっていただきたいと思っています。そして変えられていただきたい。最後にはキリストはよみがえったに相違ない

おひとりおひとりが聖書を読み、メッセージを聞くなどして、色々な場面で心があたたまる、心がうちに燃える思いをされていると思います。それは貴重な体験です。そのようなことを通しても、私たちの信仰は進んで行くのだと思います。