日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年5月15日 ペンテコステ礼拝「約束の聖霊」

    

本日の聖書箇所

使徒の働き2章1〜41節

説教題

「約束の聖霊」

本日の聖書箇所

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

使徒の働き1章8a節

 

訳してみましょう

1797 Ask God to free you from your fears.
(神にあなたをあなたの恐れから解放するよう求めなさい。)

1798 When we walk with God, the best is yet to come.
(我々が神と歩くとき、やがて最善がやってくる。)

 

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説教メモ

今日はペンテコステです。

ユダヤには古から「三大祭り」というものがあります。

  1. 過越の祭り(今のカレンダーで、3月中旬〜の一週間)
  2. ペンテコステ・五旬節(イエス様の十字架から50日後)今年は今日です。
  3. 仮庵の祭り(9月〜10月頃、小屋のような所で一週間生活する)

ユダヤの男子は、必ずこの3つの祭りに参加しなければなりません。
今日は第二の祭り、ペンテコステを見てまいりたいと思います。

時間が限られておりますので、使徒の働きの1章と2章を大急ぎで見てまいります。

使徒の働きの著者は誰でしょうか。「ルカ」です。ここでルカの福音書の書き出しをご覧ください。

私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(ルカ1:1〜3)

おそらく「テオピロ」とは、ローマの高官だったようです。
ここでは「尊敬するテオピロ殿」となっているのに対し、使徒の働き1章の書き出しをご覧ください。

テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。(使徒1:1〜2)

いきなり「テオピロよ」と言っています。おそらくルカの福音書が書かれた時から使徒の働きが書かれた時までの間に、このテオピロは救われたのでしょう。

十二弟子を覚えておられるでしょうか? この十二弟子たちはすべて「ユダヤ人」ですが、使徒の働きの著者であるルカは「ローマ人」です。ユダヤ教から見たら「異邦人」です。新約聖書を記している中で唯一の異邦人クリスりゃんです。ルカがどのようにしてクリスチャンになったのか、聖書は記しておりませんから分かりません。しかし使徒パウロがルカを同行して伝道旅行に出かけており、パウロに「同労者」と呼ばれているわけですから、ルカはいつからかクリスチャンになったことは明らかです。また、パウロから信頼されていた人物だったことも分かります。

 

1.祈っていた人々

1章のところでは教会の誕生が記されています。その辺を見てみましょう。使徒の働き1章です。

お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。(使徒1:2)
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(1:3)
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(1:4)

神さまが約束してくださった「聖霊」を待ちなさいと言っています。
ところで、聖書は「旧約」「新約」と書かれ、まさに「約束」の書です。先週も学びました出エジプト記は、神さまがアブラハムと結ばれた「アブラハム契約」が、どのように成就されていったかという流れの中の一つです。新約の時代になって、イエス様は3年と少しの間の公生涯を歩まれ、ご自身がこの地上を離れ天に帰って行くこと、そして父なる神さまがかわりに助けぬ士を与えてくださるという約束をされました。使徒の働きのここでも神さまの約束が語られています。その約束とは「聖霊」です。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)

聖霊のバプテスマとは、さきほどご一緒に使徒の働き2章を読みました、そのことです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8a)

聖霊が与えられて私たちに力が与えられます。あのペテロも聖霊が与えられて、今日これから見るとおり見事に変えられています。ペテロだけではなく、私たちの上にも聖霊が与えられることによって、私たちも力を受けます。ペンテコステに私たちは力を受けるのです。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8b)

力を受けて、私たちは福音を宣べ伝える証人となります。イエス様を証ししていくための力が与えられるのです。そのために私たちは力を受けるのです。

 

2.イエスを信じる人々

そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。(使徒1:15)

当時、120名くらいの人々が集まって、イエス様が約束された聖霊を待っていました。ユダヤ人には朝の祈りの時というものがありました。聖書に記されている朝の9時とはその時でした。その時にペンテコステが起こりました。約束の聖霊が2章に入って与えられます。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。(使徒2:1)
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。(2:2)
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。(2:3)

ような」という表現が2箇所に出てきます。激しい風、炎のような分かれた舌。私たちはそのままを連想しますが、「それだ」とは断定できません。このようなことがペンテコステに一つの現象として起こりました。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:4)

これがペンテコステにおいて一番大きな出来事です。それぞれが聖霊に満たされ、無学な漁師であった彼らが他国の言葉で話し出しました。なぜ多国語で話したのでしょうか。語学を学んだことなんてない弟子たちにとっては大きな奇跡でした。男子には絶対参加の義務があったこの祭りに、多くの国々から、多くの外国に住み外国語を話す人々が訪れていました。集まっていた各国の人たちは弟子たちが語ることばを聞いて理解できました。
言葉とはとても苦労するものです。他国の言葉を自由自在に語ること、しかもそれを人々に正しく伝えることとは本当に大変なことです。宣教師は遣わされた先々の国の話し言葉をまずマスターしなければなりません。もしある奥地の部族に遣わされたならば、それは単語作り、辞書作りから始まるのです。しかし、このペンテコステではそんな苦労もせずに、各国の人たちが分かる言葉を語りました。大宣教命令の全世界に宣べ伝えられていく予兆がここにあります。全世界の全ての人間に、それぞれの言葉でみことばが宣べ伝えられ福音を聞くことになり、それから世の終わりがあります。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24:14)

すでにもうすぐそれは実現することになります。ちなみに使徒の働き2章9〜10節にはカタカナの名前が出てきます。これは当時のローマ社会における世界観でした。全世界ということです。

さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、(使徒2:5)
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。(2:6)
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。(2:7)
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。(2:8)
私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、(2:9)
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、(2:10)
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(2:11)
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。(2:12)
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。(2:13)

それを目撃した人々の中に、弟子たちをあざける者たちもいました。

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。(使徒2:14)
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。(2:15)
これは、預言者ヨエルによって語られた事です。(2:16)

ここから、ペテロによる最初の説教が始まります。
ペテロは漁師でした。それほど教養はなかったと思うのが当然でしょう。しかし、聖霊に満たされた彼は、大胆に旧約聖書を正しく引用し、大説教をはじめました。ここでヨエル書の預言がペテロに与えられたということは、やはり聖霊の働きだったと言えるでしょう。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2:17)
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(2:18)
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。(2:19)
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(2:20)
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(2:21)
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。(2:22)
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(2:23)
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(2:24)
ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。(2:25)
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。(2:26)
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。(2:27)
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』(2:28)
兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。(2:29)
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。(2:30)
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。(2:31)
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(2:32)
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(2:33)
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。(2:34)
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』(2:35)
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(2:36)
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。(2:37)

それを聞いた人々の心が刺されました。自分たちはどうしたら良いのか、と尋ねました。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(2:38)
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(2:39)
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。(2:40)
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(2:41)

結果、なんと三千人の人々が弟子に加えられたのです。教会の誕生日です。
続く2章の最後の方は、初代教会のクリスチャンの交わりを垣間見ることができます。

 

ペテロについて

ペテロは福音書を見る限り、実に素晴らしい人間ではありませんでした。事をあまり考えずに行動する人。失敗も多い人でした。その彼がペンテコステで変えられたのです。ここには大きな聖霊の働きがあったことは明らかです。
ペテロの一番の失敗は何でしょうか。それは十字架を前に、イエス様を三度否定したことでしょう。

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。(ルカ22:31)
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(22:33)
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(22:34)

イエス様はペテロの失敗も全てお見通しでした。それでもなお、イエス様はペテロに使徒たちを託されました。
そんなペテロが大説教をしました。その説教の最中、ペテロは自分の失敗を思い起こしていたことでしょう。

神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)

このことを語っている最中、自分に向けても語っていたのではないでしょうか。自分はあなたがたを責めることはできません。私も50日前にはこのイエス様を否定してしまった人間なのだから・・・。しかし今、私は神さまの御霊によってこのように変えられました! そのような思いがペテロの心の中にあったのではないでしょうか。

それよりも素晴らしいのは、やはりイエス様でしょう。
イエス様とペテロが最初に出会ったところを思い起こしてください。ヨハネの福音書にあります。

ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。(ヨハネ1:40)
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。(1:41)
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(1:42)

イエス様は、ペテロと最初に会った時に、すでに彼の全てを、これからの行動すべて見通しておられました。ペテロは有用な人物であることをイエス様は見抜いておられました。ですから「あなたをケパと呼ぶ。」とおっしゃいました。「ケパ」とは、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言われた岩です。
イエス様は初対面のペテロにそのようなことを言われたのです。兄弟のアンデレについては、ペテロをイエス様のところに連れてきたことしか紹介されていません。イエス様はペテロに目を留められました。
そのペテロは何度も何度も失敗しました。そしてあの最大の失敗を犯しました。その出来事によって、彼は肉の性格が徹底的に砕かれ、主だけを愛する器として造りかえられました。聖霊によるのでなければ起こりえないことが起こったのです。福音書に記されていた同じ人物とは思えないほどのペテロの変貌ぶりをここで見るのです。使徒として、神さまのおことばをよどみなく話し、迫害を恐れることなく立ち向かい、病人を癒し、死人を生き返らせ、異邦人にも福音を宣べ伝え、割礼問題で分裂しかねない教会を回復させた。これらは聖霊によって変えられたゆえのペテロの姿です。聖霊なる神さまが人を造りかえられる。主だけを愛し、主だけに心を向かわせ、たとえ行き先に困難が待ち構えていようとも主の命令に喜んで従う献身の心を与えて下さい。これが聖霊です。
ペテロは主への献身のあらわれとして、ローマで処刑されてしまいます。同僚からローマを去るように勧めらペテロはローマを脱出しました。その途上、ペテロは復活のイエス様に会いました。ペテロは「主よ、いずこへ。」とうかがうと、イエス様は「わたしはローマに行く。ローマで苦しんでいる人のところへ行く。」とおっしゃいました。それを聞いたペテロも、ローマに引き返し、そこで逆さ十字架によって殉教しました。これは聖書が記していることではありませんが、そのように言われていることです。

ヨハネの福音書21章を見ますと、イエス様に「あなたはわたしを愛しますか。」と三度たずねられているところが記されています。三回迫られています。それに対しペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。恐らく涙を流しながら主に答えたのではないでしょうか。
使徒の働きの前半部分はペテロの説教中心に書かれています。

このように素晴らしいペンテコステの働きから始まり、御国の福音が宣べ伝えられて行きます。使徒の働きを「聖霊の働き」と位置づける人もいます。「聖霊行伝」です。そのこともひとつ、みなさんにおぼえていただきたいと思います。

聖霊が私たちの上に臨まれるとき、私たちは力を受けます。(使徒1:8)

そのことがペテロ個人においても成就しました。これはペテロ一人ではなく、私たちすべての者の上に言われることです。人間的な思いではなく、聖霊の働きによって人が変えられていく姿を、私は何人も何人も見聞きしています。私たちも変えられます。私たちも聖霊により頼むとき、変えられるのです。過去の自分ではなく、新しくされた自分の姿を、皆さんもいつか見ることになるでしょう。