日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年5月22日 主日礼拝「エジプト脱出」

    

本日の聖書箇所

出エジプト記11章〜12章

説教題

「エジプト脱出」

今週の聖句

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

ヨハネの手紙第一1章7節

 

訳してみましょう

1799 Fervent prayer dispels anxious care.
(熱心な祈りは、気がかりな心配を払いのけます。)

1780 The memory of a faithful life speaks more eloquently than words.
(誠実な人生の記憶は、言葉より雄弁にものをいいます。)

 

説教メモ

先週はペンテコステ礼拝でしたので、出エジプト記から離れましたが、今週はまた出エジプト記から学んでいきたいと思います。

今までに神さまはパロの心をかたくなにされ、9つの災いが起こりました。

  1. 水を血に変える(7:14-25)
  2. 蛙を放つ(8:1-15)
  3. ぶよを放つ(8:16-19)
  4. 虻を放つ(8:20-32)
  5. 疫病を流行らせる(9:1-7)
  6. 腫れ物を生じさせる(9:8-12)
  7. 雹を降らせる(9:13-35)
  8. いなごを放つ(10:1-20)
  9. 暗闇でエジプトを覆う(10:21-29)

本朝は10番目の災いを取り上げます。

9つの災いはどのように行われたでしょうか。
3つはアロンの杖が用いられ、3つは杖が関係なく行われ、残りの3つはモーセの杖が用いられました。そして9つの災いは、エジプトの神々(偶像)とされている対象ものです。エジプトでは水が信仰の対象であり、残りの8つもすべて偶像の形であったり、信仰の対象であったりでした。つまり、真の主はエジプトの神々よりも勝るお方であることを、9つの災いを通して明らかにしました。
ついに10番目の災いが起こります。それはエジプト中の初子が殺されるということでした。当然パロの初子も含まれます。パロの初子とは王子です。やがてエジプトの王位を継ぐ者です。パロはエジプトの神々の頂点に位置するとされていました。それが殺されるということは、パロのみならず、エジプトの偶像の神々よりも勝る真の神さまのお姿を明らかにされました。

ところで、10の災いは、同時にイスラエルに対しても信仰的な決断を求めるものでした。彼らがしなければならないことがありました。

イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(出エジプト12:3)
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。(12:4)
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。(12:5)
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、(12:6)
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。(12:7)

血を門柱とかもいに付けると、主はそれを見て、その家を通り過ぎてくださる。イスラエルはそれをしなければなりませんでした。
しかし、こんなことをしなくても、神さまはイスラエルの家とエジプトの家を区別できたでしょう。しかしあえてイスラエルにそのことを課しました。そしてそのことにおいて、神さまはイスラエルの民たちに従順を求められました。これは、イエス様が流された十字架の血が、私たちの救いのためであると受入、救われることの象徴です。

この時イスラエルを守ってくださった神さまが、現在の私たちを守ってくださっていることを見ます。今週の聖句をご覧ください。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)

イエス様の十字架の血が成し遂げるわざ、生き生きとした力強い経験なくして、私たちは神さまに近づく、親しく交わることはできません。私たちが神さまに近づくことができるのは、イエス様が流された血潮ゆえです。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:13)

イエス様の血潮は私たちの祈り、証しの信仰、日々の歩みに力を与えるものです。それは何よりも私たちの罪をきよめ、神さまと和解をさせ結び合わせるものだからです。

 

1.最後の災い

エジプトでの神さまの不思議は増し加えられていきました。しかしパロはイスラエルの民がエジプトを出て行くことを許しませんでした。一度は許しても、すぐに心をかたくなにされその許可を翻しました。結局、神さまのみわざに悟るところがない、パロはそのような神の力強いわざを見ても、なおも心をかたくなにして悔い改めて主の御旨に従うことができませんでした。そしてついに10番目の災いの通達がされます。

10番目の奇跡、神さまの介入の前に、もう一つの奇跡の介入があったと言っても良いかもしれません。それは、「エジプトの民がイスラエルの民に好意を寄せるようにされた」ということです。これは本当に奇跡です。これから出て行くというイスラエルの民に好意を寄せたのです。そう神さまがそうされたのです。イスラエルは自分たちから搾取したエジプトから、金銀を奪い取りました。先ほども申しましたように、神として崇められてきたパロの子ども、神の子として生まれてきたはずのパロの初子を殺すという10番目の災いにより、人はパロが依り頼むすべてのエジプトの神々の決定的な敗北を認めざるを得ませんでした。

エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。(出エジプト11:5)

ひき臼のうしろにいる女奴隷という表現は、もっとも卑しい存在を表していると言われています。つまり、頂点に立つパロから、もっとも卑しい者まですべて、エジプト中のすべてという意味でしょう。これは大変なことです。

そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。(出エジプト11:6)

この光景が思い浮かべられるのではないでしょうか。逃れられる家はひとつもありませんでした。これが10番目の災いでした。

冒頭に申しました通り、9つの災いはアロンの杖を用いて、モーセの杖を用いて、そのどちらの杖も用いずに行われました。10番目の災いは、主、自らがご介入された災いでした。

あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。』こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。(出エジプト11:8)

「私」とはモーセのことです。家臣たちがみな自分(モーセ)おところに来て伏し拝むと言っています。モーセはヘブル人の女から生まれましたが、エジプトの王宮で育てられました。それゆえ、モーセは家臣からの信頼があつかったのでしょう。その家臣たちが自分のところに来て「出て行ってください」と伏し拝むだろうと言っています。

このようにして10番目の災いが起こりました。

 

2.過ぎ越し

「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」(出エジプト12:2)

ここでカレンダーが改まります。

イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(出エジプト12:3)
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。(12:4)

羊一頭の肉は結構な量だったのでしょう。一家がよほど大勢でなければ食べきれなかったのでしょう。もしそのようならどうすれば良いのか、すぐとなりの人と分けなさいと具体的な指示が出ています。

あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、(出エジプト12:6)
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。(12:7)
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。(12:8)
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。(12:9)
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。(12:10)
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。(12:11)

このように、過越の食事がなされました。これはイスラエルの民がどうしても行わなければならないと神さまから命じられたものでした。
「アビブの月」「ニサンの月」、現在では3月かあるいは1月です。過ぎ越しの準備は10日から始められ、14日の夕暮れから日没までの間に、選ばれた傷のない一歳の雄の子羊あるいは子ヤギの血を、ヒソプをもって二本の門柱とかもいにつけるように、肉は必ず火で焼いて、種なしのパンと苦菜と一緒に食べるように。そして食べるときにはこのようにしなさいと具体的に命じられました。

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。(出エジプト12:12)
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。(12:13)

門柱とかもいに塗られた血によって、すべての初子を打ち、エジプトのすべての神々を打たれる神さまがイスラエルの民とエジプトの民とを区別されました。血は通り過ごすしるしとされました。つまり当初この「血」は、「区別」とか、「保護」を目的としていました。レビ記などを見ると、後に「贖罪」の意味が加えられており、新約聖書においては過ぎ越しの子羊と種を入れないパンはイエス・キリストの予表として記されています。余った肉が火で焼かれるのは、救い主が堪え忍ばれた神さまの怒りの火を象徴するものとされています。
パン種を入れないのは悪意と不正を除き純潔を保つこと。苦菜はエジプトにおける苦難と悔い改めを象徴するもの。神の民を選り分けたこの血のしるしは、私たちを神の怒りから救うキリストの血の象徴です。

ここで「区別」についてですが、ひとつの例話をもってご説明したいと思います。
アメリカのある監獄で、死刑を前にした死刑囚が新聞を手にして激しく泣いていました。その新聞には第22代アメリカ大統領にクリーブランドが就任したことが書かれていました。なぜそれを見て泣くのか不思議に思った看守はその死刑囚に聞いたそうです。彼は「クリーブランドは大学の友人だった。ある日授業が終わるって校門をくぐると、彼は一緒に教会に行かないかと私を誘いました。けれど私は煩わしく思いその手を払いのけました。私は彼が教会に向かうのを見ていました。一方私は、学校周辺のバーへと向かいました。大学を卒業するまでそのようなことを繰り返していました。あの時の選択が、私たちの運命をこれほどまでに分けるものだとは思いませんでした。彼は大統領になり、私は殺人犯になりました。」そしてその死刑囚は激しく泣きました。しかし時すでに遅しでした。

信仰とは岐路に立ったとき、どちらを選んで行くかです。正しい選択には祝福が、間違った選択にはのろいが伴います。

 

3.エジプト脱出

「区別」に該当するヘブル語の本来の意味は「贖い・救い」という意味があります。イスラエルの民に神さまの災いが下されなかったのは、イスラエルの救いのため、イスラエルがエジプトに属さず区別されたということです。つまり、イスラエルが神の民となるためのしるしでした。神さまはきちんと正しい人、悪人とを区別されます。どんな状況でも神の民をおぼえて介入されます。

あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。(出エジプト12:13)
この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。(12:14)

これが過ぎ越しの祭の制定です。
このあと実際にイスラエルの民たちは荒野に出て行き、過ぎ越しを守ります。

あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。(出エジプト12:15)
また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。(12:16)
あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。(12:17)
最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。(12:18)

種なしパンのことが書いてあります。種を入れないパンです。それを七日間食べなければならないと命じられています。違反すると厳しい処罰があることが明言されています。また第一日と第七日に会合を開くことも命じられています。

七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。(12:19)
あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。(12:20)

ここで在留異国人のことも書かれています。そしてこれらの命令は永遠に続くものであるとあります。

あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、(12:26)
あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』《すると民はひざまずいて、礼拝した。(12:27)
こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。(12:28)
真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。(12:29)
それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。(12:30)
パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。(12:31)
おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」(12:32)
エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう。」と言ったからである。(12:33)
それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。(12:34)
イスラエル人はモーセのことばどおりに行ない、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。(12:35)
主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。(12:36)

ついにパロは降参し、イスラエルの民たちがエジプトを出て行くことを許しました。430年間の奴隷生活に対する報酬とも考えられます。エジプト人は好意的にそれらを差し出しました。

スラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。(12:37)

おそらく全体では60万人の4〜5倍はいたのではないかと思います。それだけの者たちがエジプトを出て行きました。壮大な光景です。

らに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。(12:38)

イスラエルの民の間には、外国人も住んでいたことが分かります。さらに進むと次のように書かれています。

主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。(12:43)
しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。(12:44)
居留者と雇い人は、これを食べてはならない。(12:45)

イスラエル人以外で過越の食事ができたのは、割礼を受けた人たちだけでした。

イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。(12:50)
ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。(12:51)

イスラエルの民は、主が命じられたとおりに行いました。主はおことばどおり、エジプトのすべての初子には主の災いが下されました。それはエジプトでもっとも暗い暗黒の時でした。パロの高ぶりはここで打ちのめされました。モーセに出て行くようにせきたてました。
主はその日、寝ずの番をされイスラエルの民を守られました。

見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121:4)

パロは9つの災いのたびに、許可を覆しました。10番目の災いは主が直接エジプトに下された災いで、パロにはどうすることもできませんでした。自分の子どもも殺されてしまいました。

私たちのまわりには、様々な危機があります。津波や地震などの天災もあります。そのような中で神さまは、人々がクリスチャンに好意を持つようにしてくださっています。熊本の地震のこれからがどうなるのかは今の時点では分かりません。しかし、東北の地震では、それまで教会と縁もゆかりもなかった人々が教会に来るようになったという報告を聞いています。教会は用いられます。さらに、次のようなことが言われています。

これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。(出エジプト12:46)

イエス様が十字架で亡くなった時、死期を早めるために受刑者のすねの骨を折ることをしていましたが、イエス様はすでに亡くなっておられ、すねの骨は折られませんでした。過ぎ越しの子羊となられたイエス様はおことばのとおり成就しました。つまり、この過ぎ越しの出来事はイエス様の十字架を表していることが分かります。そのことを心におぼえていただければと思います。