日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年5月8日 主日礼拝「パロの前に立つモーセ」

    

本日の聖書箇所

出エジプト記5章〜10章

説教題

「パロの前に立つモーセ」

今週の聖句

「わたしは主である」

出エジプト記6章2節

 

訳してみましょう

1795 To defeat Satan, surrender to Christ.
(サタンを降参させるためには、キリストに降参しなさい。)

1796 Now is the time to choose the Lord — later may never come.
(今は主を選ぶ時です ― 後では決して来ないかもしれない。)

 

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説教メモ

今週の聖句「わたしは主である。」
「主」とは何者でしょうか?
全能の神さまとして、アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神とご自分を言われる、そのお方です。イスラエルの父祖であるアブラハムと契約をされました。その契約を思い起こされるお方です。どのようにその契約を思い起こさせたのでしょうか。それは、イスラエル人をエジプトから連れ出し、苦役から救い出し贖う。さらに与えると誓ったその地に連れて行き、それを所有の地として与える。主は契約を忘れることはない。行動し、私たちのために最善を尽くされる。ですからこの主に信頼することができるのです。
そして主は言われます。「わたしは主である。」

1.最初の謁見

モーセとアロンは民の信任を得て、王パロに会いに行きます。そして「イスラエルの神はこう仰せられる」と言いました。

「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」(出エジプト5:1)

モーセのこの大胆な発言を聞いて、パロはこれは何事かと思い、次のように答えました。

パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」(出エジプト5:2)

この時点で、イスラエルの民たちがどれほどアブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神をどのくらい知っていたのか疑問に思います。ヨセフはエジプト下りをして、神がともにおられて多くの素晴らしいわざをしました。ですからヨセフは全面的に神さまを信頼していたヘブル人だったと思います。それから430年間の中で、イスラエル自身がまことの神さまをどの程度知っており、どの程度時間を割いて礼拝をしていたのか、はなはだ疑問です。出エジプト記の記述を通して、まずイスラエル自信が私たちの神、主が契約の神である、アブラハムとの約束を果たされる神であることを、とことん彼らは体験していかなければなりませんでした。

エジプトには偶像が満ちていました。その偶像の神々の頂点に立っているのがパロでした。ですから、他の神、主がいるなどとは、またパロ以外に神と呼ばれる者があるなどとは、彼にとってはとんでもないことだったのです。「私(パロ)の他に神と呼ばれるものがいるのか」と考えました。
今日は9つの災いを見ていくのですが、9つの災いはそれぞれエジプトの偶像に係わることでした。まず、ナイル川は信仰の対象でした。カエルにしても多産の象徴とされて崇められていました。9つの災いを通して、「私たちの神、主」はエジプトの神々よりも偉大なお方である」、偶像とは全く別の「唯一の神さま」である、決して偶像の頂点に立つようなお方ではないこと、主はおひとりで絶対的なお方であり、人間が勝手に作り出した偶像ではないのだということを災いを通して示されました。

モーセが「イスラエルの神がこう仰せられる。」とパロに告げたとき、パロはこれはとんでもないことだと思いました。
そこで、パロはイスラエル人に対してさらなる苦役を与えました。
イスラエル人にはれんが作りが課せられていました。通常、れんがの中にわらを混ぜるのですが、そのわらを与えないようにしました。以前はわらはエジプトから支給されていました。しかしそのわらを供給しないと言うのです。さらにわらを供給されなくなってからも、同じ量のれんがを作ることを命じられました。れんがにわらを混ぜることによりれんがの強度が増し、その役割をしっかり果たすようになります。チェーン式バイブルの欄外には、このわらの働きについて説明しています。

わら自体には泥を接着させる働きはないが、れんがの中に入れられたわらはその中で腐敗し、化学変化を起こして酸を生じる。その酸が泥に粘着力を与える役割を果たした。

そのわらが供給されなくなり、自分たちにさらなる苦役が与えられたことを知った時、イスラエル人は文句を言います。
誰に文句を言ったのでしょうか。モーセに対してです。
モーセは民から不平不満を言われました。

神さまはご自身を「主」として現されています。新改約聖書では「主」という文字は太字になっています。これは、モーセの前に現れた時に、モーセが神さまに対して「あなたのお名前はなんですか?」と問うたときにお答えになった「わたしは、あってある者だ」と仰ったそのヘブル語「ヤハウェ」にあてられています。これから新しい業をされる主が、父祖アブラハムの時代の神さまと同じ神さまであることを現されました。イスラエルはこの時点で、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われても私たちには関係の無いことだと思っていました。しかし、この父祖の神との契約(創世記15章)は繰り返される、それはエジプトの苦役から救うだけでなく、ご自分の所有でありながら、エジプトの奴隷となっているごイスラエルの民を贖い、ご自身との正しい関係に立ち返らせるためでした。

「贖う」という言葉が出てきます。「贖う」とはどういう意味でしょうか。それは「代価を払って買い取る」ということです。奴隷生活をしていましたから、神さまは奴隷の代価を支払ってイスラエルの民を買い戻し、もう一度イスラエルをご自身の民とされようとしました。

これが最初の謁見になります。
神さまがイスラエルを贖うということは、アブラハム契約に基づいて契約を執行されるためのひとつの過程でした。

6章に入り、さらに8章にも「わたしは主である。」と出てきます。

モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。主はモーセに告げて仰せられた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」(出エジプト6:9〜12)

ここでモーセの信仰が垣間見れます。この時点におけるモーセは、全く神さまに信頼していないモーセの姿があります。そして自分の弱さを言い訳にし、神さまに文句を言っています。そこで神さまはアロンの存在を示しました。6章の後半にはモーセとアロンの系図が出てきます。モーセの母は「ヨケベテ」です。

アムラムは父の妹ヨケベデを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は百三十七年であった。(出エジプト6:20)

ここにモーセとアロンが出てきました。アロンの子孫のことも続いて出てきますが、系図の続きはみなさんそれぞれでご覧いただければと思います。

主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」(出エジプト6:29〜30)

ここでまたモーセは尻込みしてしまいます。それに対して神さまは、7章においてこう仰いました。

主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。」(出エジプト7:1〜2)

神さまがモーセに語り、モーセはあたかも神さまとなり、アロンはモーセの預言者として立てられました。パロに対してのメッセンジャーとされました。モーセとアロンの役割を明確に示されました。
しかし3節において、神さまは

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。」(出エジプト7:3)

出エジプトされるまでにどのくらいの時間がかかったのかは聖書には記されていないので分かりません。それでも何日か、何ヶ月かは必要だったと思われます。
ここで学んで思ったことがあります。
それまで9つの災いがありました。先ほども申しましたが、9つの災いはエジプトの神々に対する裁きでした。神さまはいきなり10番目の災いをもってイスラエルの民をエジプトからすんなりと去らせることはなさいませんでした。9つの災いは、パロに対して、さらにモーセやアロン、イスラエルの民たちにとっても大切で必要な災いでした。ことあるごとにパロは許そうとしますが、すぐに心をかたくなにし、イスラエルを去らせることはしませんでした。

 

2.災いの始まり

彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。(出エジプト7:7)

パロも呪術師を集め、同じ秘術を行わせました。

「パロがあなたがたに、『おまえたちの上思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。(出エジプト7:9〜12)

ここで神さまは、アロンの杖が彼らの杖をのみこんだことを通し、ご自身が神々に勝る神であることを示されました。
それなのに、パロの心はさらにかたくなにされました。

それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」(出エジプト7:13〜18)

これらの出来事を通し、神さまはパロの心をますますかたくなにされました。同時にパロも「わたしが主である」とイスラエルの神さまが言われることを、さらにイスラエルの神がまことの神であることを知らなければならない、そのためにこれらの過程が必要でした。その過程の一つ一つが大切でした。
一つ目の災いは、水が血に変わることでした。

主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。(出エジプト7:19〜20)

エジプト中の水が血に変わりました。8章に入りますと、エジプト中にかえるが満ちました。次にエジプト中にぶよが蔓延しました。次にあぶの群れがエジプトの地に満ちました。9章に入りますと、

見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」(出エジプト9:3〜4)

このようにエジプト中に疫病がもたらされました。しかしその疫病はイスラエルの家畜に対してはもたらされませんでした。そして9節に入りますと、エジプト中の人と家畜に腫物ができました。そして18節では雹が降りました。10章に入りますと、いなごの大群がエジプトを襲いました。そして9番目の災いがくだされます。

主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真暗やみとなった。(出エジプト10:21〜22)

エジプト中が闇に包まれました。
このように9つの災いがくだされました。パロはその災いのごとにイスラエル人を去らせることを許すのですが、すぐに翻し、去らせることを許しませんでした。

モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです。」しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。(出エジプト10:25〜27)

それは神さまが預言されたとおり、パロの心をかたくなにされたからです。
チェーン式バイブルの欄外には、すべての災いがまとめられています。
3つのサイクルに分けられています。

  1. 地、かえる、ぶよ
  2. アブ、疫病、腫物
  3. 雹、いなご、暗闇

1サイクルではアロンの杖が使われました。
2サイクルでは杖は使われませんでした。
3サイクルではモーセの杖が使われました。ただし闇だけはモーセの手が使われました。

これらの災いは、まずイスラエルの民自身が、神さまが万物の主であること、アブラハムと契約をされた自分たちの本当の神さまであることを知ることを目的としていました。ナイルの災いはエジプトが拝んでいた神々の敗北を意味しました。同じようにかえるの災いは、かえるの頭をした誕生の神「ヘクト」の敗北、暗闇の災いは太陽の神「ラー」、そして神々の子供として生まれてきたはずのパロが、やがて起こる0番目の災いによって、パロが依り頼む神々すべての決定的な敗北を現しています。1番目の災いから3番目の災いはエジプト中に起こった災いですから、イスラエル人にも降りかかりました。4番目からの災いは、明らかにイスラエル人とエジプト人を区別して下された災いであることが分かります。ここにイスラエル人に救いをもたらそうとされる神さまの意図が現されています。
疫病といなごの災いによってエジプト人の財産が奪われることは、強制労働によってエジプトがイスラエル人から搾取したことに対する裁きと言って良いでしょう。

これら一連の災いに対しても、パロの心は動きませんでした。これを聖書は、主はパロの心をかたくなにされたということを現しています。しかし神さまは、パロの心のかたくなさに振り回されるような方ではない主権者であることをも示されました。

このようにして、モーセ自身の神さまに対する信頼度も高められていったことが見て取れます。モーセの偉いところは、イスラエルの民がモーセに対して不平不満を言ったとしても、モーセはまず神さまにそのことを申し上げたところです。祈りの中で神さまにお伺いを立てたことです。これは私たちにも学ぶべきところがあると思います。世の人々が私たちに対して不平不満、文句を言うとき、私たちはそのことに対して自らの力によって仕返しをするのではなく、まず神さまの元に持って行き、祈りの中で神さまにお伺いを立てることが必要だと思います。

80歳のモーセと83歳のアロンが、二人三脚で働いています。協力体制が必要でした。ここでも学ぶべきことがあります。それは、私たちは決して単独ではなく、神さまは必ず祈りの支え、同労者を与えてくださるということです。

もう一つは、モーセとアロンが秘術を行うと、エジプトの呪術師たちも同じ秘術を行いました。それは、同じ業に見えても、その背後におられるのが神さまなのか、その背後にいるのがサタンなのかを見極めることが求められます。
今日の英語の文章をご覧ください。
To defeat Satan, surrender to Christ.(サタンを降参させるためには、キリストに降参しなさい。)
サタンの働きを打ち壊して、主に仕えていくのです。

モーセとアロンを通して9つの災いがもたらされました。その災いを通してパロの心に備えが与えられ、モーセ自身にも神さまに対する信仰も培われたこと、イスラエル人に対しては400年間、神さまのことを教えられずに生活していた人々に、アブラハムに約束したことを必ず守られ、エジプトの苦役から解放し救い出し導き出し、約束の地カナンに導き入れるのだという約束を思い起こされることの、3つの目的があったことを学びました。

「わたしは主である。」なんともない表現ではありますが、神さまがそのように私たちに語ってくださり、今の私たちがどのようにそのことを受け止めていくべきなのか。「わたしは主である。」という短いおことばの中に本当に私たちが信じている神さまは主なる神さまである、アブラハムの契約を必ず実行される神さまであることを、歴史の中から見てまいりました。