日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年6月19日 主日礼拝「イスラエルのつぶやき」

    

本日の聖書箇所

出エジプト記16章1節〜17章7節

説教題

「イスラエルのつぶやき」

今週の聖句

あなたがたはわたしが、あなたがたの神、主であることを知るようになる。

出エジプト記16章12b節

 

訳してみましょう

1803 For the Christian, heaven is spelled H-O-M-E.
(クリスチャンにとって、天国はH-O-M-Eと綴られます。)

1804 A heart in tune with God sings melodies of praise.
(神と波長が合っている心は、賛美のメロディーを歌う。)

 

説教メモ

1.イスラエルのつぶやき

15章22節をご覧ください。

モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

(出エジプト15:22〜24)

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イスラエルの民は40年間、荒野をさまよいました。真っ直ぐに進めばおよそ2週間の行程でした。神さまはあえて遠回りをさせました。それはひとえに、イスラエルの民をご自分の民として整えるためでした。整えられるのに40年も必要だったのです。

葦の海を渡り、荒野に入って³日経ったとき、水を探していました。蜜の欠乏に直面し、恐れも感じていました。そのような中、マラでようやく水を見つけたのですが、それはとても苦くて飲めないものでした。試練はいつも未体験の時に起こるものです。そのつぶやきはモーセに向けられました。そのつぶやきは神さまに向かってつぶやいているのだ、とモーセは言っています。

ところで、出エジプトをした民は男子だけで60万人です。総勢ともなると4倍にはなるのでしょうか。長野市の人口は200万人ほどです。長野市の全ての人が出エジプトしていたのです。しかも彼らは家畜も連れていました。私たちが想像もできないほどの壮大な光景だったことでしょう。
そんな大勢の民がモーセに対してつぶやいたのです。モーセもやりきれなかったでしょう。しかし、モーセの正しいところは、常に神さまに尋ねているところです。そして神さまはその都度助けてくださいました。今回も神さまに尋ねたところ、一本の木を示して下さいました。

モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

(出エジプト15:25)

神さまは一本の木を示されました。その木を見ずに投げ入れると、苦い水は甘い水へと変わりました。このようにしてその場はしのげました。
そして、これはまた、モーセを試みるためでもありました。試練の中で主の声に従うかどうかを問われたのです。

次にエリムに行きます。15章の終わりです。

こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

(出エジプト15:27)

エリムとは砂漠の中のオアシスのようなところなのでしょうか。エリムはとても豊かな緑がありました。マラの水とは違って甘い水でした。エリムはとても良いところだったので、民は旅の疲れを癒すことができました。

16章に入ります。

ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。

(出エジプト16:1)

いよいよ荒野に入りました。砂漠地帯です。

そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

(出エジプト16:2)

またつぶやきが出てきました。ある聖書学者は、モーセ五書の中でつぶやきが52回出て来ると計算しています。イスラエルの民は、何かあると指導者に向かってつぶやきました。指導者が気に入らないと石で打ち殺そうとする姿がこの後にも出て来るのですが、そのような民のつぶやきです。この16章の最初のつぶやきは、食べ物に関してでした。民のつぶやきがエジプトから持参した食物は食べ尽くしてしまいました。家畜の乳や乳で作った乳製品も限られていたでしょう。なにせ何百万人の人がいたのですから。

主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。

(出エジプト16:4)

「民を試みるためである。」こういう表現が何度も出てきます。
イスラエルの民は日々、神さまに試みられていました。私たちに対しても同じことが言えます。神さまは私たちに対しても毎日試みられています。

主はここのところでは、毎日「一日分」のマナを集めなければなりませんでした。

モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」

(出エジプト16:8)

まず民のつぶやきはモーセとアロンに向かっています。しかしモーセとアロンは、民のつぶやきは神さまへのつぶやきであることを知っていました。しかし神さまは快くそのつぶやきを聞いて下さいました。

モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』と言いなさい。」
アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。

(出エジプト16:9〜10)

さらに続きます。

主はモーセに告げて仰せられた。
「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」

(出エジプト16:11〜12)

エジプトを出てきたイスラエルの民は、神さまの導きによってシナイ半島を南下していきました。彼らが目ざす約束の地「パレスチナ」とは反対方向です。
ここから荒野での40年間にわたる流浪の旅が始まりました。それは同時に、目に見えない神さまと共に進み、神さまがなんであるかを知るための旅でした。イスラエルの民はこの40年を通して神に従うならば、必要なものはすべて満たされることを学んでいくことになりました。イエス様も次のように言っています。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

(マタイ6:33)

イスラエルの民はエジプトを出て、紅海の乾いたところを渡りました。神さまの大いなる奇跡によりました。そこでイスラエルの民は、神さまの偉大さと力とを知らされたはずでした。しかし実際には、この民は何も分かっていませんでした。神さまの大いなる奇跡を体験したにもかかわらず、彼らの信仰の目は開かれていませんでした。マナにしても、水にしても、うずらにしても・・・。すべては奇跡的な神さまのわざでした。それほど神さまのみわざに触れていながら、神を知ることができない人間の愚かさ、人間の頑固さが分かります。それは私たちにも言えることです。

私たちはそのような過程を通して神さまを「知るようになる」のです。今はまだ知らないのです。これから知るようになるのです。イスラエルの民は430年間エジプトにいたせいで、ユダヤの民は「エジプト化」してしまっていました。その民たちを、神さまはもう一度エジプトの中から取り出してご自分の民として整えようとされました。それが荒野の40年の旅でした。
私たちの人生も「出エジプトをする」と言う表現を使うことがたまにあります。それは罪からの脱出、解放、救われることです。でも私たちは、そうだからといって一人前のクリスチャンになったとは言えません。まだ本当の神さまの姿を知らないのです。私たちは多くの奇跡、多くのみわざを体験するのですが、出エジプトに例えられることがあります。神さまの奇跡を体験するのですが、それによって神さまを本当に知る者とはされていません。今から2000年前の十字架が私たちの罪のためであった、私たちの罪の解決のためにイエス様は十字架で血を流されてくださいました。それは私たちにとって奇跡です。私たちのような者が救われているというのは、神さまの奇跡です。あわれみによるのです。しかしそれを本当に理解しているかどうかは別問題なのです。ですから、神さまは聖書を通して、主を知って欲しいと願われています。私たちは個人的に、また教会として、民族として、様々な出来事や体験を通して主を知るように変えられていきます。これが神さまの大きな目的です。出エジプトは今から6000年前に起こったただの出来事だと理解するのではなく、現に自分たちに当てはめて考えていかなければなりません。

 

2.飢えの試練

神さまは天からうずらを降らせてくださいました。イスラエルの民は荒野で毎日うずらを食べることができました。すべての民の腹を満たすには相当な数のうずらが必要でした。神さまは「毎日」うずらを降らせました。

それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。

(出エジプト16:13〜15)

イエス様はご自身のことを「天から降ってきたパンである」と仰っていますが、このことをおっしゃっています。神さまは毎日、天からパンを降らせてくださいました。

主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」

(出エジプト16:16)

1オメルとは、2.3リットルです。1升枡山盛り一杯と言えば分かりやすいでしょうか。一人の必要な分がそれでした。家族が5人だったら5倍を集めるのです。

そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

(出エジプト16:17〜18)

ただ、神さまが言われることは気をつけて聞かなければなりません。

モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

(出エジプト16:19〜21)

六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」

(出エジプト16:22〜26)

7日目にはマナは降りませんでした。

それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
それで、民は七日目に休んだ。

(出エジプト16:27〜30)

ここで注意していただきたいのは、ここに十戒で定められていることがあります。十戒の4番目には何が書かれているでしょうか。それは「安息日を守る」ことです。しかしこの時点で、イスラエルの民には十戒がまだ与えられていませんでした。イスラエルの民はこの時点でまだ十戒を知らないのです。神さまはイスラエルの民を少しずつ整えてくださっている過程をここで見ることができるのではないでしょうか。今週の聖句にもありましたとおり、

あなたがたはわたしが、あなたがたの神、主であることを知るようになる。

(出エジプト記16章12b節)

知るようになることの過程がここにあります。
例えば、主の日に関することであっても、モーセの律法がそう言っているから、あなたがたは安息日を休まなければならない、ということではなく、モーセを通して十戒を与えられる前に、神さまはイスラエルの民に安息のことをイスラエルの民に教えられました。創世記では7日目に神さまが安息に入られたと記されています。そのことすら、イスラエルの民は400年というエジプトでの生活ですっかり忘れ去られてしまっていました。神さまはモーセを通してご自分に従う民にはこうあって欲しいという願いを示されました。まず安息のことでした。

私たちはどうでしょうか。私たちはすでに十戒を知っていますから、私たちは守らなければならないことは分かります。しかし分かると言っても、頭の中で分かっているだけで実際分かっていない部分が多いのではないでしょうか。「安息日をおぼえて、これを聖とせよ。」という命令があるのに、平気で安息日を破る。つまり礼拝を平気で休む人が結構いるのです。立派なクリスチャンをやっていても、安息日のことが徹底的に頭に入っていないクリスチャンが多いのです。今日は安息日、日曜日、主を礼拝する日だと分かっていながら他のことを優先させてしまう、そのような人が非常に多いのです。イエス・キリストに従うということは、神さまを絶対に愛するということ。それは優先順位以前の問題です。どんなことがあっても全身全霊をもって神さまを愛する、安息日を守るということはそういうことです。まず主を礼拝する、それが何よりも優先されるべきなのです。
それを神さまは七日目の安息ということを、モーセを通して「食べること」を通してイスラエルの民に教えられました

イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

(出エジプト16:35)

40年間、毎日マナを食べました。40年間、7日目を除いて毎日マナを降らせてくださいました。

 

³.渇きの試練

イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。
民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

(出エジプト17:1〜7)

水がないということは大変なことです。皆さんは災害用に水を準備されていますか? 人間は一人一日2リットルの水が必要だと言われています。
水がなくなった民は、またもやモーセにつぶやきました。モーセは主に叫びました。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」すると「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」とおっしゃいました。するとその通りになりました。
それなのに民は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みました。神さまは多くの奇跡を民に見せられたにもかかわらず、民は主が思われたほどには整われませんでした。

私たちもつぶやきます。クリスチャンのつぶやきは祈りと言っても良いのかもしれません。私たちは祈りによって神さまにつぶやきます。神さまはそれを聞いてくださいます。

みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

(Ⅰコリント10:4)

パウロはこのように解説しています。

実は、これだけでは終わりません。
神さまは荒野で降ったマナを記念としてとっておくように命じられました。

イスラエルの家は、それをマナと吊づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。
モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」
モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」
主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。
イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

(出エジプト16:31〜35)

後に「契約の箱」に入れるためです。契約の箱には、十戒の石板、アロンの杖、そしてマナが入れられました。40年間荒野で与えられてマナを子孫に見せるためです。荒野で民を養われた主をおぼえるためでした。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

(ヨハネ6:35)

私たちにいのちを与えるマナ以上の、永遠のいのちを与えるパンとして、イエス様はご自身をあらわされました。
荒野でエジプトから持ってきた食物が尽きてしまいました。民はどうなるか不安でした。しかし神さまは天からのマナで養ってくださいました。神さまに従う者に、ご自身の御手を知らせて養ってくださる主がここにおられます。
私たちも日々の信仰生活において、本当の神さまの姿を次第に分からせていただくのです。「私は神さまをすでに知っている」このようには誰も言えないでしょう。神さまがどういうお方なのかということを、日々の出来事を通して、私たちを導いておられる神さまがここにおられることを、出エジプトの出来事を通して、同時に私たちのものとして心にとどめておいていただきたいと思います。