日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年7月24日 主日礼拝「聖書の伝えること」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章1〜12節

説教題

「聖書の伝えること」

今週の聖句

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません、よみがえられたのです。」

ルカの福音書24章5b〜6a節

 

訳してみましょう

1813 The Bible : read it, believe it, obey it!
(バイブル:それを読み、それを信じ、それに従いなさい!)

1814 Our greatest freedom is freedom from sin.
(私たちの最大の自由は、罪から自由である。)

 

説教メモ

1.モーセのその後

先週は「宿題」を出しておきました。モーセはその後、どうなったでしょうか?
モーセは約束の地、カナンに入れませんでした。あれほどの功績があるモーセが、何故、約束の地に入れなかったでしょうか?

さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(出エジプト17:6)

これが1回目の水の危機の出来事でした。水の危機は2回目もありました。

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
(民数記20:8〜13)

この2回の出来事の、何が違うでしょうか。
2回目の時、神さまはモーセに「岩に命じれば、岩は水を出す。」とおっしゃいました。それに対しモーセは、彼の杖で岩を二度打ちました。神さまは怒られました。神さまの命じたとおりに行わなかったからです。
これは私たちに大きな教訓を残しています。聖書を慣れっこで読んでしまってはいけません。以前はこう仰ったから、今回もそうだろうと読んではいけません。聖書は毎日毎日、良く字を見て読まなければなりません。
モーセは神さまが仰ったことに忠実に従わなかったために、彼の素晴らしい功績にかかわらず、約束の地に入れませんでした。モーセの心境は記されておりません。しかし、非常な後悔があったのではないかと想像します。もっと気をつけて神さまの仰ることに耳を傾けるべきだったと。しかし後の祭りでした。私たちもそのようなことのないように、気をつけて聖書を読み、神さまのみこころに正しく気づかせていただきましょう。人間である私たちそれぞれの経験に頼ってはいけません。

 

2.聖書とは

聖書とはどのようなものなのでしょうか。

先日は「十戒」を見ました。

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
(出エジプト31:18)

十戒は神さまご自身の指で書かれたとあります。しかし、そのことを記しているのはモーセです。
モーセ五書はモーセが記したと言われています。また他にも著者がいます。聖書66巻というものは、神さまが私たちにくださった指針です。聖書は約40人もの人を用いられて神さまが記したものです。期間としては1500年もの時間をかけて書かれています。しかし、真の著者は神さまです。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(Ⅱテモテ3:16)

聖書は、本当の著者である神さまの霊感を受けた記者が、神さまによって用いられて書かれました。秘書が社長の手紙を書き送るようなものです。秘書は社長の代わりに手紙を書きますが、それは秘書からの手紙ではなく、社長からの手紙として相手に届けられます。

たとえば、申命記の一番最後ですが、

モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
(申命記34:7)

創世記から申命記まではモーセが書いたものですが、この箇所は明らかにモーセ以外の人によるものです。なぜならモーセは死んでいるからです。側近のものが書いたのでしょうか。しかし私たちは、モーセが記したものであると認識しています。

パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。
(Ⅱテサロニケ3:17)

テサロニケ人への手紙もパウロが書いたと言われています。しかしこの箇所をみますと、最後だけパウロが自分の手であいさつを書いたことが分かります。それがパウロの手紙の書き方でした。つまり、他の所は別の人が書いたのです。でもパウロが書いたと私たちは認識しています。しかし、本当の著者は「神さま」なのです。聖書とはそのようなものなのです。

聖書が伝えるメッセージは何でしょうか?

旧約聖書は、天地創造から始まって、神さま がアブラハムを選び出し、ご自分に従う民はどのようであるべきかをお示しになりました。それが「アブラハム契約」となり、ユダヤ民族がそこから起こってき ました。しかし神さまは、決してユダヤ人だけを特別に見られたわけではありません。全世界の人々を視野に入れておられました。そしてまずアブラハム契約を 結び、アブラハムによってすべての国民が祝福されると神さまは仰いました。そして旧約の時代が始まりました。出エジプトを垣間見ました。430年間にもわ たるエジプトでの奴隷生活をしていたユダヤの民は、神さまが最初にアブラハム契約によってなされた約束の地をユダヤ人たちに見せようとされました。そのた めにモーセは用いられました。やがてヨシュアに引き継がれ、カナンの地へと入りました。そしてヨシュアの話を少ししましたが、関心のある方はヨシュア記か ら続く聖書をお読み下さい。

「聖書名目づくし」という歌を、アカペラで歌ってみましょう。

そうしゅつれびみんしんめいき よしゅあししるつさむれつおう れきだいえずねへえすてるしょ よぶししんげんでんどうがか
いざやえれあいえぜだにる ほせあよえあもおばよなみ なほむはばくくぜぱはがい ぜかりやまるきさんじゅうく
またいまこるかよはねでん しとろまこりんとがらてやしょ えぺそぴりころてさろにけ てもてとぴれもんへぶるしょ
やこぶぺてろよはねゆだ よはねのもくしにじゅうしち きゅうしんりょうやくあわせれば せいしょのかずはろくじゅうろく

3.よみがえられたイエス

さきほどお読みしましたルカ24章は復活の朝の出来事のひとつです。
イエス様が十字架で死なれてから約50日あまりたったとき、イエスが捕らえられたとき散り散りに逃げていった弟子たちが突然「イエスはよみがえられた。私たちはその証人である。」と力強く語り始めました。それは、それが事実かどうかの検証ができないほどの遠い地で起こったことではなく、エルサレムの町のただ中で起こりました。イエス様を十字架につけた当事者たちの記憶が生々しく残っている時と場所において、弟子たちはいきなりそのように語り出しました。主イエスの復活メッセージは表面的にはそのように開示されました。その生々しさを想像してみたいと思います。嘘をついているのなら、たちどころにすべてを否定されるような状況でした。しかし実際は、その証言は否定されるどころか多くの人々によって受け入れられて行きました。なぜでしょうか。主イエスの復活に関して、最も基本的な歴史的な事実は、弟子たちがわずか50日後に、主イエスは復活した、私たちは主イエスに出会ったと証言し始めたことです。このことは誰も否定することができませんでした。そして確かな事実は、イエスを納めた墓が空っぽになっていたということです。そこに遺体があるままなら、当局者たちはその遺体を持ち出して、復活騒動をたちどころに終わらせることができたでしょう。その後のキリスト教会の歴史は全くなかったでしょう。
聖書を読んでいくと、週のはじめの朝、女性の弟子たちが不十分であった埋葬の仕上げをしようと墓に向かいました。墓の入口は大きな石でふさがれてしまったのを、女たちは見ていました。ですから女たちは墓に入れる見通しもないまま、墓に向かいました。そこには主イエスの復活への期待など微塵もありませんでした。しかし墓の入口は大きく開いており、御使いがイエスの復活の事実を女たちに告げました。そのことを知らされた男の弟子たちもとても信じられなかったけれども、自分たちも墓へ行ってみました。弟子たちもイエスの復活などまったく期待していませんでした。それなのに逆に、彼らはイエスの復活の事実の第一の明白な証拠となりました。そこから私たちが知ることは、イエスは十字架で死んだ。そして三日目によみがえられた。これが私たちに伝える聖書のメッセージです。神さまがどれほど私たちを愛してくださったか。神さまのひとり子を栄光の座からこの地に、しかも私たちと同じような人間のかたちをとってこの地上に送ってくださった。イエス様は32〜3歳のころ公生涯に入られました。御国のわざを宣べ伝え、弟子たちを養成されました。その弟子たちに、少なくとも3回は、ご自身がエルサレムに行って悪者どもの手にかかって6日目に死ぬのだと話されています。それでも弟子たちは信じられませんでした。ですからイエスが十字架につけられるために捕らえられたとき、弟子たちは逃げてしまいました。しかし二人の「隠れ弟子」、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体の下げ渡しを願い、聞き届けられ、自分のために用意しておいた新しい墓にイエスの遺体を納めました。隠れ弟子がそのようなことをしたのです。だけども、神さまはイエス様を三日目によみがえらせてくださいました。これが聖書のメッセージです。

イエス様は何のために十字架につけられたのでしょうか。私たちの罪のためです。私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ死んで下さいました。私たちの罪も、イエス様とともに十字架につけ葬り去ったのです。そしてイエス様は三日目によみがえられました。私たちも新しいいのちによってよみがえらされました。今までは罪と罪過の中に死んでいた私たちでしたが、これからは神さまに向かって、罪から解放されたものとして神さまに仕えていく。これが「新生」です。新しく生まれることです。ところがクリスチャンとなっても罪を犯してしまいます。牧師とて同じです。なぜでしょうか。救われているはずの自分がなぜまた罪を犯してしまうのか。それは信じ切れていない、古い自分に死にきれていない、罪から完全に解放されていないからです。100%死にきれるならば、私は本当に素晴らしいと思います。自分の罪の過去はすべて葬り去ってしまった。しかし死にきれていない部分があるなら、そのために戦っていかなければなりません。そのことをぜひ覚えて下さい。私たちが罪に死んで、新しいいのちに生きること。それが聖書66巻が伝えるメッセージです。

あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。
(出エジプト16:12)

私たちの今の過程は、そのような主を知るようになるための過程であります。私たちは未だ完全に主を知ってはいません。クリスチャンとして完成はまだまだ先のことです。私たちは己の罪に死にきれていません。そのことを覚えて下さい。そうすると、どうすれば死にきれるのか。その課題が見えてきます。