日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年7月31日 主日礼拝「罪に死ぬ」

    

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙6章1〜14節

説教題

「罪に死ぬ」

今週の聖句

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

ローマ人への手紙6章7節

 

訳してみましょう

1815 Jesus died in our place to give us His peace.
(イエスは私たちに彼の平安を与えるために、私たちの代わりに死んでくださった。)

1816 True freedom is found in submission to Christ.
(本当の自由は、キリストに服従する中に見いだされる。)

 

説教メモ

昨今、不可解な事件、事故が起こっております。その中で、防犯カメラが活躍しています。誰も見ていないようでも防犯カメラが記録しており、防犯カメラの映像の記録によって事件や事故が解決する場合が多々あります。
そして、この世の中には「法律」というものがあります。また、文字として書かれていない「倫理」や「道徳」というものがあります。それは国によって違いますし、時代によっても常に変化しています。しかし、聖書が語るメッセージ、そして「聖書の真理」は永遠に変わることがありません。さらにそれは、私たちの「基準」となっています。

アモス書をご覧ください。

主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた。
主は私に仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が「重りなわです。」と言うと、主は仰せられた。「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
(アモス7:7〜8)

当時のイスラエルは、周囲の諸外国の習慣に染まってしまっていました。そこで主は、聖書の基準に戻るようにおっしゃっています。イスラエルの民が神さまの基準から外れ、この世の基準に傾いてしまっていた時、神さまはご自身の基準、聖書に戻るようにとおっしゃっています。

これは今の私たちにも言われていることではないでしょうか。私たちの倫理観というものは、時におかしいものです。また、その時代を生きる人々の考えによってでさえ変化してしまうものです。外国人から見たら、その国の倫理はおかしい、と思われるものもあります。
そのようなものではなく、聖書の基準に私たちは戻らなければなりません。聖書は心の鏡であると言われます。聖書を読むことによって照らし合わされ、自分がいかに罪人であるか、汚れた者であるかということが分かります。そして、その罪、汚れに対して私たちはどうしたらよいのか、ということが、私たちに与えられた「福音」です。神さまが私たちに救いをもたらしてくださいました。それは、イエス・キリストによる福音によります。

私たちクリスチャンにとって、聖書が基準となります。
「聖書は何を言っているのか?」 総理大臣でも、裁判官でもなく、聖書が何を言っているのか。それが私たちの基準となっていなければいけません。いつでも聖書に戻るべきです。防犯カメラよりも強力な聖書があります。聖書によって軌道修正へと導かれなければなりません。

 

1.知る

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
(ローマ5:20)

このようにパウロが言っています。
また、パウロは律法によって罪が分かった、と言っています。私たちクリスチャンは、罪を犯しても神さまに赦しを求めれば赦されます。それを良いことにして、同じ事を何回も繰り返していてはとんでもないことです。

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
(ローマ6:1〜2)

罪に対して死んだはずではないか。それなのに、なぜ、なおも罪の中にとどまることができるのか? パウロはそう問うています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
(ローマ6:3)

来週は上野さんの洗礼式があります。来週はそれをよく見ていただきたいと思います。
私たちが洗礼を受けることは、キリストの死にあずかることです。
私たちの教会では洗礼は「浸礼」にて行います。一度水の中に完全に沈められます。それは一度死んで葬られたことを意味します。罪に対して死んだことのシンボライズです。そして水の中から引き上げられますが、それはイエス様が三日目によみがえられたように、私たちも新しいいのちによみがえらされるのだ、という意味があります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
(ローマ6:4〜5)

キリストとともに死に、新しいいのちによみがえらされている。イエス様が復活されたので、私たちも復活するのです。私たちは死んで終わりません。やがてよみがえらされます。キリストの再臨を待たずして死んでしまった場合、キリストの再臨の時には、私たちはよみがえらされます。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
(ローマ6:6)

ご自分の聖書に、次の3つのことばにマーカーで印をしてください。

  1. 知っています(ローマ6:8、9)
  2. 思いなさい(ローマ6:11)
  3. ささげなさい(ローマ6:13)

知る、思う、ささげる。この3つの動詞は非常に大切です。さらにこの順序も重要です。

まず私たちは、十字架の事実を知ります。
十字架に架けられる前、イエス様はおっしゃいました。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(マタイ16:24)

イエス様はご自分の十字架を肩に負い、処刑場へ向かう悲しみの道を上って行かれました。それは死への道でした。死に行く道でした。私たちにとって、自分の十字架を負い、イエス様についていくということは、死に行くためであります。
イエス様は私たちの「身代わり」となって死んでくださいました。私たち、いや「私」の罪の身代わりとなって死んでくださいました。私たちはあの時、イエス様とともに自分を十字架に架けて死んだのです。その事実を知ってください。それが大切です。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
(ローマ6:6)

イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架に架けられ死なれた時、私たちの罪がそこで滅ぼされました。葬り去られました。罪に対して死ぬということは、そういうことです。
私たちが罪に対して死んでしまったとき、私たちは罪の奴隷から解放されました。罪に対して死んだのだから、罪は私たちに何の権限も持っていません。

他の人ではありません。「私」の罪のために、イエス様は十字架に架けられ死んでくださいました。そして私たちは、罪に対する死によって、罪の奴隷状態から解放されているのです。その事実を知りなさい、ということです。それが第一の動詞「知る」ことです。

2.思う

二番目の動詞、「思う」です。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
(ローマ6:7〜8)

イエス様が死んで復活されたように、私たちも洗礼を受け一度死に、水から引き上げられることによって、新しいいのちに生きるのです。

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6:9〜11)

「思いなさい。」
この命令はとても重要です。
十字架の事実を知りました。次に「思いなさい。」毎日毎日、自分に思い聞かせなければいけません。
何を思い聞かせるのでしょうか。それは、私はキリストとともに十字架につけられたのだ。もはや私は罪から解放されている。だから私はもう罪を犯さなくても良いのだ。むしろ、神さまに向かって、神さまのおっしゃる歩みをしていくのだ、ということです。それがきわめて大切なことです。

今週の聖句にもあります、

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(ローマ6:7)

この文章を言い換えてみましょう。

死んでしまっていない者は、罪から解放されていないのです。

死んでしまえば、解放されるのです。

私はたびたび申しますが、私たちはこの地上でキリスト者として歩んで行きます。そして、たまたま罪を犯してしまいます。そしてその都度、神さまに赦しを請います。何度も何度もそれを繰り返してしまいます。ですから私たちには、日々「私はキリストとともに十字架につけられたのだ。もはや私は罪から解放されている。だから私はもう罪を犯さなくても良いのだ。むしろ、神さまに向かって、神さまのおっしゃる歩みをしていくのだ」と自分に言い聞かせていかなければなりません。それを一日たりとも怠ってしまうと、その人はまた罪を犯してしまうことになるでしょう。
「私は大丈夫だ。」などと思うべきではありません。聖書のみことばは、そんな人に向かってこうおっしゃいます。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
(Ⅰコリント10:12)

自分は大丈夫だ、などと言える人は一人もいません。ですから、毎日毎日、自分に言い聞かせるのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

4月10日の礼拝メッセージを覚えておられますか?
長芋の種芋を皆さんにお見せしました。死んだ種芋の姿をお見せしました。みすぼらしくなった死んだ種芋は、もはや何の役にも立ちません。私たちの一度罪に対して死んだ姿を重ねてください。罪はもはや何の役にも立たないのです。古い自分は死んでしまって、何の役にも立ちません。このことを絶えず自分に思い起こさせていなければなりません。

しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
(ローマ5:20)

罪を犯してしまい、その都度神さまに赦しを請い、そして赦されるという恵みに何度もあずかります。

恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
(ローマ6:1〜2)

パウロはさらに、ガラテヤ書で次のように言っています。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

私たちは罪に対しては死んだ者だと言い聞かせ、キリストとともに生きている者だと、神さまに向かって新しいいのちを持って生きている者なのだと、毎日毎日、思い聞かせていかなければなりません。そうでなければ、どこかでまた元の状態に戻ってしまいます。

私が洗礼を受けたアメリカのサンノゼの説教で何度も語られたことがあります。
あるクリスチャンの青年が、麦畑の真ん中で少女に暴行をしようとしました。まさにその行為に及ぼうとした時、彼の脳裏に「神さまがみておられる!」という思いが浮かんだそうです。広い麦畑の真ん中ですから、誰も見ていません。しかし、神さまが見ておられるのだという思いが脳裏をかすめました。それで罪を犯すことから守られました。

私たちの基準は聖書にあります。聖書の基準はいつも私たちを照らし、見ています。防犯カメラのようにです。
この世の基準ではありません。あの人がこうしているのだから、私もそうして良いのだ。これは通用しないことです。
罪を犯しそうになったとき、十字架の事実を思い起こしてください。イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりとなるため。そして私たちは罪に対して死んだ者であり、罪の奴隷から解放され、神さまに向かって生きている者だと思い聞かせているなら、何か罪を犯しそうになった時それは食い止められるでしょう。罪を犯さずに済むのです。逆に言えば、思い聞かせていなければ、私たちは罪を犯してしまうのです。

ですから、「思いなさい。」は、非常に大切な動詞となります。

そして、私たちは自らの身体を神さまにささげることができます。

 

3.ささげる

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
(ローマ6:12〜14)

罪から解放された。神さまに向かって生きる者とされた。
次に私は、何ができるのだろうか・・・。
私たちは、自らの身体を神さまにささげることができます。

改めて申しますが、

知る(6:6)
思いなさい(6:11)
ささげなさい(6:13)

この順番が大切です。
これは私がクリスチャンになったばかりの頃、当時読んだ一冊の本の中にこのことが書かれていました。私はそれに非常に感銘を受けました。それで私は何度も何度もこのことを語ってきました。
それでも私たちは間違ってしまうことがあるのです。それほど気をつけていかなければならないのです。

来週は上野さんの洗礼式があります。
今一度、洗礼の意味を思い起こし、おぼえていただき、のぞんでいただきたいと思います。