日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年8月14日 主日礼拝「死者の復活」

    

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章12〜34節

説教題

「死者の復活」

今週の聖句

目をさまして、ただしい生活を送り、罪をやめなさい。

コリント人への手紙第一15章34a節

 

訳してみましょう

1819 Self – sacrifice is the true measure of our giving.
(自己犠牲は、私たちが与えることの真実のはかりである。)

1820 Don’t let riches — or the pursuit of riches — derail your pursuit of Jesus.
(富むこと、また富を追求し、あなたのイエスの追求を狂わせてはならない。)

 

説教メモ

本朝は、本日の聖書箇所であるⅠコリント15章12〜34節のところから、3つのことを学びます。
まずは15章12節からみてまいりましょう。

1.復活の否定

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

「ところで」という書き出しがあります。今まで述べられてきたことに対しての「ところで」です。ですから当然、少し前の箇所を見なければなりません。ここでの「ところで」とは、12章前半で語られている「福音とは何か?」ということでした。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(Ⅰコリント5:1〜10)

そして、続く12節〜19節は、復活の否定に入ります。ただ誤解していただきたくないのですが、パウロはキリストが復活したことをコリントに人々に宣べ伝えました。そこから誕生したコリントのクリスチャンたちは、当然そのことを良く分かっていました。「そのこと」とは、「キリストの復活」のことです。ところがコリントはギリシャの町です。ギリシャ哲学の中では「霊魂不滅」と説かれていました。ですから、魂の不滅は信じていたのですが、自分たちの体が復活するなんてことは、コリントのクリスチャンたちにとって到底考えられないことでした。その点に照準を合わせてここでパウロは述べています。

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
(Ⅰコリント5:12〜13)

ですから、死者の復活はあるのだ、それはキリストが初穂として復活したからだ。とパウロは言っています。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)

なぜ死が存在するのでしょうか。それは罪があるからです。報酬というのは当たり前のように与えられるものです。そして罪の報酬は「死」なのです。私たちは罪人であるがゆえに死があるのです。
死の原因ではありません。なぜ死という存在があるのか。そのことの答えです。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
(ヨハネ9:1〜2)

ヨハネの福音書には生まれつき盲目の人が出てきます。弟子たちはイエス様に尋ねました。それに対してイエス様は「どちらでもない。」とおっしゃいました。それは「神の栄光が現れるため」だとおっしゃり、その目を癒されました。
死も同じことなのです。なぜ死という存在があるのか。それは罪があるからです。その人が罪を犯したからという死の原因ではなく、死という存在の原因が罪なのです。そしてこの世に存在する罪には解決が必要なのです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ10:9)

私たちが救われるのは、自分の罪が示され、それを認め、その自分の罪の為にイエス様が十字架に架けられ死んでくださったのだ。だからイエス様は自分の主なのだ。そのようにイエス・キリストを主と告白し、心で神さまがイエス様を死者の中から復活させてくださったのだと信じるならば、その人は救われると言っています。
十字架の事実と、イエス様の復活の事実を信じる人が救われるのです。その人はクリスチャンです。

しかし、イエス様が復活してくださっても、私たち人間の復活を信じなければ、キリストの復活を否定することと同じ。復活の否定をすること、それはキリストを信じないことと同じ、つまりその人には救いがないということになります。
この解釈を保証するものとして、「イエスの復活」ではなく、「キリストの復活」と書いていることが鍵となります。もし「人間イエス」の復活を強調するならば「イエスの復活」となるでしょう。そうではなく、パウロは「キリストの復活」と宣べ伝えています。

聖書の中に、また私たちの証しの中に、「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」の表現、二通りあることをご存知でしょうか。
「イエス・キリスト」は人間性を重んじる場合に、「キリスト・イエス」とは神の御子としての存在を重んじる場合に用いられます。キリストとは「救い主」という意味ですから、キリスト・イエスとは、神としての御子イエス・キリストを指す神の称号であります。

神さまである救い主キリストの復活という、この特殊なケースがキリストを信じる人間の復活の「初穂」として起こったことをパウロは記しています。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント5:20)

人間の復活を信じないということは、キリストの復活を信じないことと同じであります。キリストの復活は、キリスト者の復活を信じない者にとっては意味のないものとなります。ですからキリストの復活と、キリストを信じる者の復活は、信仰上の表裏一体の真理であります。
キリストは復活するのだ。だからキリストを信じる私たちも復活するのだ、いや、させられるのだという信仰です。

パウロは続けて、コリントのクリスチャンに対して、復活を否定するとどうなるかということを次に述べています。
もし、死者の復活がないのなら・・・

  1. 宣教は実質のないものになる、信仰も実質のないものとなる(14節)
  2. パウロたちは偽証する者であり、十戒に背く「神に逆らう証言」をした者となる(15節)
  3. すべてのクリスチャンたちは、今なお罪の中にいることになる(17節)
  4. キリスト者として死んだ者たちは滅んでしまったことになる(18節)
  5. クリスチャンたちは世の全ての人の中で最も哀れな者となる(19節)
  6. 死者のためにバプテスマを受けることは無意味となる(29節)
  7. 死の連続の体験(パウロ自身も経験したキリストのための困難な戦い、苦労)も無駄なことになる(31、32節)
  8. 人間は刹那主義からくる不道徳に陥ることになる(32節)

6番目にあります「死者のためのバプテスマ」ですが、少し説明が必要かと思います。この箇所は非常に難解な箇所と言われている一つです。種々の解釈がなされている箇所であります。

  • 生前救われることを望んでいた人のために、親族や友人が代わりにバプテスマを受けること。
  • 家族や友人の救いを祈りつつ死んだ信者の意思を尊重し、故人を喜ばせるためにバプテスマを受けること。
  • バプテスマを殉教の比喩的表現ととり、殉教の死によって死者の中に加えられること。

他にも多くの説があり、どれとも決められません。とにかく、「事実として当時のコリント教会でそのようなことが行われていた」ということです。
しかし、コリントのクリスチャンの中には、信仰を持たないまま死んでしまった人にも是非復活に与ってもらいたいという切なる願いを持つ者がいて、このような習慣、つまり、はっきり救いを体験しないでこの世を去ってしまった人に是非とも救われて欲しいと願い、その人(死者)の代わりに洗礼を受けたという習慣ができたのではないかという説が最も有力であるとされています。今ではあり得ないことです。しかし当時のコリントでは行われていたことなので、パウロはそのことを言っているのです。

 

イエス様はこの世に来てくださった。そして私たちの罪の身代わりとなって十字架に架けられ死んでくださった。それ故に私たちはその罪から解放されてきよめられている。しかしそのキリストの十字架の死も「復活」という事実がなければその目的を果たすことはできない。

パウロは12〜20節の間で復活を現す動詞を8回使っています。

  • 神が復活させる×2回
  • キリストが復活させられる×6回

そのいずれの行為も、父なる神から来るものであることは明らかです。それはキリストが救いの業を父なる神の御手にお任せになったことを表しています。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
(Ⅰペテロ2:22〜25)

キリストの十字架は死が滅ぼされ、罪人が罪から贖い出され神の子とされ、永遠の命を得るための絶対条件の一つでした。しかし贖いの死もキリストの復活なしでは無効であります。復活なしでは救いはあり得ない、そして教会もキリスト教も成り立ちません。罪人を救うのはキリストの教えではなく、それができるのは復活のキリストの力であります。

Ⅰコリント15:3〜4に目を留めてみましょう。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
(Ⅰコリント15:3〜4)

ギリシャ語本文を見ますと、「死なれた」「葬られた」と過去形で表現されています。しかし「よみがえられた」というのは完了時制で書かれています。完了時制というのは過去の動作の結果として現在の状況があることを表します。つまり、キリストは復活した結果として「今もなお生きておられる」ということです。

 

2.復活の初穂

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント15:20)

「初穂」という表現は、キリストの復活は死人、すなわち私たちの復活に先立つものであることを表しています。そして各々にその順番があると23〜24節にあります。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。
(Ⅰコリント15:23〜24)

死んだ者が復活する。その根拠はキリストの復活にあります。キリストは初穂としてよみがえられた、だから私たちもよみがえるのだということです。
ある時期になり田んぼを見ると、稲に初穂が出てきます。初穂が出てくるということは、次の穂が出て来ることの確証となります。キリストは初穂としてよみがえってくださった。ですから私たち死んだ者も初穂であるキリストに続けてよみがえらされるのです。

というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
(Ⅰコリント15:21〜22)

死がひとりの人を通して来ました。それと同じように、キリストによってキリストを信じるすべての人が生かされる、復活させられるのです。

 

3.終末の順序

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。
(Ⅰコリント15:23 〜32)

聖書の中には、死んだ人が生き返る場面が3つほど出てきます。ヤイロの娘が生き返りました。ベタニヤのラザロが生き返りました。ナインのやもめの息子が生き返りました。これらは「蘇生」であり「復活」ではありません。ですから蘇生させられた者は再び死んでしまいました。復活と蘇生は違います。

「復活」とは、朽ちることのない霊のからだによみがえることです(Ⅰコリント15:42〜54、ローマ6:9・11・23、ピリピ3:21)。

復活とは、死んだ人間が死ぬ以前の命を取り戻して、再び元の人間として立ち上がるものではないのです。復活は「再生」ではなく「新生」です。かつての命、元の体の回復が与えられることではなく、まったく別の新しいいのちを与えられて、新しく創造されることなのです。しかし以前の人格や特徴は残されます。

復活に際して、新しい創造に関して聖書が言っていることを順序立てて説明すると次のようになります。

  1. 初穂であるキリスト・イエスの復活
  2. キリストの再臨
  3. キリストに属している者の復活
  4. この世の終わり
  5. あらゆる権威、権力が滅ぼされる
  6. 国を父なる神に引き渡す
  7. 最後の敵である死が滅ぼされる
  8. 万物の神への服従
  9. キリストの神への服従と神の完全支配

 

まずキリストの復活があり、キリストの再臨があります。キリストの再臨は、私たちクリスりゃんにとって非常に重要です。キリストの再臨がなければ、キリストの救いが半分しか完成しないと言っても過言ではないのです。キリストの再臨の時にキリストにあって死んだ人の復活があり、その時点で地上に生きているクリスチャンは死を見ずに朽ちない栄光のからだが与えられる。それがからだの贖い、つまり救いの完成の時であります。キリスト者の最大の希望である「復活」と「栄化」もキリストの再臨がなければ実現しないのです。

聖書を読んでいくと、あちらこちらでキリストの再臨が語られています。伝道集会などの終わりの時にも「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と語られることが良くあります)。

もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
(ヘブル9:26〜28)

以下にはキリストの再臨の時の様子が記されています。

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(Ⅰテサロニケ4:14〜17)

そしてキリストの再臨が今なお実現していないことについて記されています。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
(Ⅱペテロ3:9)

キリストの再臨は今なお実現していません。キリストの復活から長い時間が過ぎていますが、それは神の私たちに対するご忍耐であります。今再臨が起こったら、未だ救われていないあの人この人はどうなるのでしょう。私たちの願いは一時も早くイエス様の再臨してくださることですが、しかし、まだ救われていない愛する人たち、多くのこの世の人々を思うとき、それはまだ少し先なのだという思いもあります。

イエス様はこの世のすべてのものと戦われ、権力や権威をも滅ぼされます。そして勝利者キリストは国を父なる神さまに引き渡されます。しかし、最大の敵である死はこの時まで残されています。死がいかに恐るべき存在であるかが知らされています。この死もキリストによってついに滅ぼされるときが来るのです。死は永遠に滅ぼされるのです。その時が来るのです。年老いたヨハネはパトモス島でこの世の終わりの壮大な幻を見ました。それが黙示録です。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
(黙示録21:1)

万物がキリストの父なる神に従うときが来ます。それが世の終わりの時となります。
世の終わりについては別の機会をとらえてお話ししたいと思います。

以上、本朝はキリストが初穂として復活されたのだから、キリストにあって死んだ者、私たちクリスチャンの復活もあるのだということを学びました。

最後に、項目には記しておきませんでしたが、以下のこともお話しして終わりたいと思います。

Ⅰコリント15章33〜34節には、復活を否定することから来る刹那主義、そしてそれに対する警告が記されています。死者の復活はないと主張する人々がいて、悪い影響を受けて「明日は死ぬのだ。だから飲み食いしようではないか」といったような刹那主義に陥るといった、キリスト者の本来あるべき生き方を損なうことがないように、パウロは「思い違いをしてはいけない」と言っています。

思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。
(Ⅰコリント15:33〜34)

「罪をやめなさい」と言っています。これは今現在、罪を犯している人に対してのことばであり、同時に、これから罪を犯してしまう人に対しての警告としてのことばでもあります。パウロはローマ人への手紙6章で「罪から解放されている」と言っています。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(ローマ6:7)

罪を犯さなくても良い自由が私たちクリスチャンには与えられているのに、なぜ、これから罪を犯してしまうと言うのでしょうか。それは再三申し上げますが「罪に死にきれていない」からです。ですから私たちがクリスチャンになったと言っても、罪を犯してしまうのです。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6:11)

先週も申しましたが、このように自分に言い聞かせる必要があるのです。
十字架の事実。私はイエス様の十字架によって罪赦された者である、私は私のすべてを十字架につけ、そして十字架とともに葬り去ったのだ。そのような私には罪を犯さなくても良い自由があるのだということ。そしてキリストが三日目によみがえられたように、私もまた新しいいのちに歩む者なのだ。罪とは関わりのない歩みをするのだ。それらのことを「思いなさい」「言い聞かせなさい」と言っています。毎日、毎朝、自分に言い聞かせる必要があるのです。そうでなければ、私たちは罪を犯してしまうのです。どんなに立派な信仰を持っていようとも、どんなに立派な牧師、宣教師であっても、常に十字架の事実を言い聞かせていなければ罪を犯してしまうのです。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(マタイ16:24)

「自分の十字架を負う」とはどういうことでしょうか。
イエス様はご自分の十字架を背負い、「死ぬために」ゴルゴタの丘に向かって悲しみの道を歩かれました。死にに行ったのです。私たちが自分の十字架を負うとは、まさに「死ぬため」なのです。「自分に死ぬため」なのです。そのことを徹底しておぼえてください。

自分は大丈夫だと言う人ほど、危うい者はありません。
私たちは倒れないように気をつけなければなりません。
私たちは毎朝、信仰を告白すべきです。
新しい一日を歩むことができることを感謝。そして、自分の十字架を負いイエス様のあしあとに従ってまいります、という信仰告白を毎日してください。そのような人こそ、罪から解放されている人だと思います。
そこには信仰歴というものは関係ありません。
私たちはみな、人間的な弱さを抱えている者です。