日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年8月21日 主日礼拝「復活のからだ」

    

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章35〜38節

説教題

「復活のからだ」

今週の聖句

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

コリント人への手紙第一15章44節

 

訳してみましょう

1821 Praise loudly — blame softly.
(騒々しく賛美しなさい。しかし、柔らかに非難しなさい。)

1822 God’s strength always accompanies God’s call.
(神の力は、いつも神の召しに伴っている。)

 

説教メモ

1.復活はからだの復活である

ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
(Ⅰコリント15:35)

「ところが」とあります。なにが「ところが」なのでしょうか。
パウロは、Ⅰコリント15章において福音とは何かについて説いています。聖書は神の霊感を受けて書かれた特別な書物です。他の書物とは区別されるべきです。その聖書に従って、イエス・キリストはこの世に来てくださって、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架けられ死んでくださって、三日後によみがえってくださった神の子キリスト・イエスであるということです。

コリントのクリスチャンたちは、霊的な復活のことは分かっていました。ギリシャ哲学の教えである霊魂不滅を信じていました。ところが、肉体は悪であるという考え方がありました。スコラ哲学が当時流行しており、霊魂に比べて物質は悪であるという教えがありました。コリントのクリスチャンたちは、キリストの十字架と三日目のよみがえりをパウロが宣べ伝えると、素直に信じることができました。ところが、キリストの復活のことは信じられても、死者の復活についてはなかなか信じられませんでした。これらのことが「ところで」の前提となっています。それでパウロはこの書簡を書いています。

パウロが言いたいことを一言で言うならば、キリストの復活は死者、すなわち人々の復活のために起こったのであるから、人間の復活を否定するならキリストの復活をも否定することになると言っています。

もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
(Ⅰコリント15:13)

一般の人間の復活がないのなら、人間のうちの一人であった人間イエスの復活もなかったことになる。人間イエスの復活ががあったということは、一般の人間の復活の可能性もあるのだという程度の主張になります。このように解釈している学者たちもかなりおります。しかしこのような議論がパウロの論旨ではないことが、15章全体の文脈から明らかです。それは1〜11節までで、キリストの復活という特別な出来事を集中的に強く証ししています。またパウロのキリスト観は、全き神でありながら人間の体をとった方であったというものでした。そして人間は全く罪人であるというのがパウロの人間観でした。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

この信仰に立脚したものでした。その死すべき人間が何の条件もなく自然に復活することになるとは、パウロには到底考えられないことでした。従って、人間そのものの復活から人間イエスの復活へという推論は受け入れられませんでした。そうすると、パウロの論旨はやはり先に述べてきましたように、人間の復活がないのならキリストの復活もないというのは、キリストの復活は人間の復活のためにそれを目指して起こった出来事であったということ。もしその人間の復活を否定するなら、キリストの復活は事実起こったことでありながら、それを否定することになる。それが起こらなかったも同然の無意味なものになってしまうのだと、パウロは言っています。それゆえパウロは

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、貴方の心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ10:9)

と述べています。
キリストの復活が事実であっても、人間の復活が信じられなければ、せっかくのキリストの復活を否定することと同じです。キリストの復活を否定することは、キリストを信じないことと同じことなので、その人には救いがないということになります。そうパウロは言います。神であるキリストの復活という事実に基づいたものです。パウロは「イエスの復活」ではなく「キリストの復活」と述べてきています。
キリストは初穂として復活しました。ですから私たちも復活させられるのです。いつか復活させられるのです。

私たちはどんなかたちで復活するのでしょうか。
復活のからだというものが、あるのか、ないのか。あるとすればどんなものなのか。

人間の体が一度死んで、それから新しいからだが生じることが復活です。
日本では死んでしまったら焼かれてしまいます。すべて終わりだとお思いでしょう。しかしそうではないのです。パウロが言っているように、復活のからだがあるのです。
「体」ではなく「からだ」です。新改訳聖書のこの記述法には特別な意味があると思います。人間として持っている私たちのこの体ではなくて、特別なからだであるということです。

 

2.復活のからだは霊のからだである

復活について使徒パウロは、これまでたとえをもって語ってきました。生前の体と復活のからだとを直接比較して述べています。つまり、現在の体で蒔かれたものは、復活のからだでよみがえらされるのです。

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(Ⅰコリント15:42〜44)

地に属するものとして蒔かれたものは、天に属するものとしてよみがえらされるのです。
血肉のからだとは、私たちが生まれながらに持っている体のことです。そこには罪が宿り、死を免れることは出来ません。しかし、御霊に属するからだは、罪のない、朽ちることのないからだです。ここで注意したいことは、復活によって人は御霊のからだになるのであって、決して霊そのものになるわけではないということです。復活によって人は、具体的な実体としてのからだを備えるのであって、形のない霊になるのではありません。復活のからだは、目で見ることも手で触ることもできるからだであり、今の私たちが持つ体と同じように、外形を有していると思われます。

エホバの証人、あるいはものみの塔の人たちは、キリストの復活は体の復活ではなく、霊の復活であると主張しています。当然の結末として、キリストの再臨も霊の再臨であり、すでにキリストは霊において再臨したと彼らは考えています。彼らは目に見える可視的なからだでの再臨を否定しています。これまで何度もキリストの再臨を予告してきました。しかしことごとく実現しませんでした。すると彼らは、霊的に再臨されたのだと言い訳じみた主張をしだしました。その根拠としているみことばがあります。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
(Ⅰペテロ3:18)

「霊においては生かされて」これをエホバの人たちは復活と解釈しています。しかしこれは、キリストの復活のことではなく、次に続く「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」というみことばと結びつけて考えるべきみことばです。エホバの人たちはキリストのからだの復活を否定する根拠として、

血肉のからだは神の国を相続できません。(Ⅰコリント15:50)

を引き合いに出します。彼らの理解によりますと、私たちが言うからだの復活の場合のからだを、このような朽ちる血肉の体であると思っているのです。そのことに関してなら、私たちクリスチャンは血肉のからだは神の国を相続できないということになんら異存はありません。しかし根本的に異なることは、聖書の主張が彼らの言うような霊の復活ではなく、からだの復活であるということです。

彼らが霊を強調するのは、初代教会の頃に流行していたグノーシスの考え、「物質は悪である」という中心的な思想から発展してきました。形になってこの世に存在するものはすべて悪であるという考え方です。この思想から発展した一つの考え方は、神は聖いお方であるので、悪である物質でできているこの世と関係を持たないというものです。同じくこの思想から出てきた第二の考え方として、聖なる神の子が悪なる物質の肉体をとるはずがないという受肉否定です。それが1世紀の頃、キリストの仮現説によると、キリストは実体を持たなかったことになります。エホバの証人の人たちが言うキリストの霊における復活はこの考えともとを等しくしていると思われます。また、グノーシスの物質はすべて悪であるという考え方から、キリストは受肉したのではなくキリストという霊としての存在が、一般的に人間イエスがバプテスマを受けた時に乗り移り、十字架の前にイエスから離れたという考えが生まれました。これによると、十字架で死んだのはキリストではなく人間イエスだということになります。この思想から連想できるのが、もう一つの異端である統一教会です。彼らによると、キリストの霊人体はイエスという人間のうちに形作られたイエスがキリストになった。このキリストの使命は、地上天国を建設することであり、その実現を前にして、イエスはユダヤ人の無知と不信のために十字架で殺され、この時点で神の計画は失敗した。イエスは本来、十字架に架けられるべきではなかった。イエスが失敗したのでキリストの使命は20世紀の今日、韓国人の文鮮明に与えられ、キリストの霊人体は文鮮明のうちに形成されていった、とされています。この論法によると1世紀のイエスは初臨のキリストとなり、20世紀の文鮮明は再臨のキリストということになります。文鮮明は、自分が再臨のキリストだと言っています。それゆえに、統一教会によりますと、イエスは普通の人間であるので死んで土に帰ったとされます。そして彼らの復活理解は、罪を悔い改めて、昨日の自分よりも今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになるとしています。

キリストの復活が、霊の復活ではなく実体をもった復活であったことの最大の証拠は、イエス様ご自身のおことばにあります。

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
(ルカ24:36〜43)

このことから、私たちは何を知ることが出来るでしょうか。
復活のからだは、この地上の体の連続でも継続でもありません。しかし少なくとも、地上で持っていた人格と個性は継続して持っていると考えられます。復活のキリストは、十字架で死んだキリストと同一のお方でした。人格と個性を継承して復活するのです。

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
(ヨハネ20:26〜27)

これらの対話は、キリストが十字架の傷跡を残したまま復活したことを表しています。重ねて申しますが、聖書の復活信仰においてきわめて大切なことは、聖書はあくまでからだの復活を説いているのだということです。決してギリシャの思想に見られるような霊魂不滅を説いているのではありません。それと同時に、聖書が説く復活のからだはあくまで霊のからだです。ここで間違えてはいけないことは、霊のからだは異端が言うような霊の復活とか、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」とパウロがテサロニケの人々に書き送っているような霊とは違います。いわゆる幽霊のような実体のない霊の現れではありません。復活のからだは手や足、肉や骨がある実体であって、見ることも触ることもできるものです。しかし復活の主が、閉め切った部屋の中に自由に出入りできたように、物質にも、自然法則にも妨げられることのない霊のからだです。

もっと簡単に考えられるでしょうか。
「私たちは、いもむしです。」そう申し上げると、皆さんは嫌がるでしょうか。
キャベツには時々アオムシがついています。アオムシは、やがて幾日かすると美しい蝶になって、空を舞うようになることを知っているのでしょうか。おそらく分かっていないでしょう。私たちも同じなのです。やがて栄光の姿によみがえらされることなど実感が伴わないのです。でも皆さん、信じてください。私たちはイモムシが美しい蝶に変えられるように、栄光の姿に復活します。それは霊のからだです。霊ではありません。あくまで霊のからだを持った一人ひとりです。天国においては、あの人だ、この人だと分かります。霊の眼(まなこ)で認識できます。そういうものに変えられるのです。パウロはそのように述べています。血肉のからだが、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(Ⅰコリント15:44)

少し長くなりそうですので、準備しておりました「栄化と勝利」については、次週学びたいと思います。