日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

ヘッダー

2016年8月28日 主日礼拝「第一コリント15章」

    

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章50〜58節

説教題

「第一コリント15章」

今週の聖句

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

コリント人への手紙第一15章55f節

 

訳してみましょう

1823 Sharing the gospel is one person telling another good news.
(福音を分かち合うことは、ある人がもう一人の人に福音を話すことです。)

1824 Humility is to make a right estimate of one’s self.
(謙遜とは、その人の正しい評価である。)<スポルジョンの言葉>

 

説教メモ

Ⅰコリント15章は、聖書の中でもきわめて大切な聖書の一部です。他の言葉で言い表すなら「復活の信仰」となるでしょう。
私たちクリスチャンは、なぜすくわれているのでしょうか。それは周囲の人々に証しをするためです。そのために、他の人よりも少しだけ先に救われているのです。家族の中で、会社の同僚の中で、友人の中で。福音をまだ知らないそういった人たちに福音を知らせるために、その人たちが救われるために、私たちは先に救われています。

皆さんは、自分がクリスチャンであるということをどのように証ししますか?

先日はブラジルでオリンピックがありました。リオデジャネイロオリンピックです。「リオ」とは川という意味であり、ジャネイロとは1月という意味です。つまり、「1月の川」です。一昔前までブラジルの首都でした。今の主とはブラジリアです。ブラジルの中で一番大きな都市がリオデジャネイロではなかったでしょうか。その都市でオリンピックが開催されました。
さすがブラジルです。リオデジャネイロを見下ろす丘の上には、大きなキリスト像が建てられています。「ブラジルはクリスチャンの国である」という、良い証しであると思います。そればかりでありません。サッカー競技を観られたでしょうか。ブラジルはこれまでサッカーで金メダルをとったことがありませんでした。今大会では見事、悲願の金メダルを獲得しました。

その中の主要な有名選手、ネイマール選手が表彰台に立ったとき、なんと彼の頭には「100% JESUS」と書かれたはちまきをしていました。彼は自分がクリスチャンであることを、世界中が注目する中で、あのような形で表現したのです。証ししました。ブラジルの人口は日本の1.5倍。1億9千万人です。福音派のクリスチャンは5,130万人。あとはほとんどカトリックだということです。彼のはちまきに書かれた言葉を見る限り、彼は福音派のクリスチャンではないでしょうか。私たちもなんらかの形で、自分がクリスチャンであることを表していかなければなりません。

 

1.聖書に従って

15章の最初に取り上げていることは、「聖書の示すとおりに」「聖書に従って」という表現です。
聖書が私たちの信仰の土台です。聖書によって私たちは神さまのことを、ある程度は知ることができます。全部を知ることはできないかもしれません。しかし、大体のことは分かります。それほどに、聖書がいかに大切な書物であるか、ということです。

皆さんは旅先で教会を訪ねることもあるかと思います。その先々で礼拝を守るにあたり教会を捜すと思うのですが、そこで一番重要視しなければならないのは、その教会が、また牧師が、いかに聖書66巻をとらえているかということです。信仰の姿勢です。私たちは福音派の教会ですから、聖書66巻はすべて神のことばであるという信仰の土台に立っています。ですから、もし旅先で教会を探すことがあるならば、その教会がどのような立場をとっているかということを見て欲しいと思います。聖書66巻が神さまが私たちに与えておられる愛の使信であるのだと捉えていることが重要だと思います。

福音とは何か。パウロはⅠコリント15章の冒頭で証ししています。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。
また、葬られたこと。また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
(Ⅰコリント15:3〜8)

パウロはコリントの教会で宣べ伝え、多くの人たちが信仰に入りました。

ところが、コリントの教会はこの世的に観ると、不品行が横行していました。「コリント人のように振る舞う」という形容詞があり、その意味するところは「不品行を行う」となっていたほど、町全体が不道徳な不品行に満ちていたようです。
パウロは大宣教師だな、と思わされること。それは1章1節にあります。

神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントになる神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。……
(Ⅰコリント1:1〜2)

コリントのみだらな教会に対し、あなたがたは聖徒として召されているのだ、キリスト・イエスにあって聖なるものとされているの、そういうあなたがたへ、と言葉を選びながら述べています。今日の箇所の15章58節にも

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
(Ⅰコリント15:58)

ここでも「私の愛する兄弟たちよ。」と呼びかけています。先ほども「召された聖徒よ。」と、そのようにコリントのクリスチャンたちに挨拶を送っています。これは牧会者、また宣教師としてとても素晴らしいことだと思います。もちろんコリントの教会には非難すべきことが沢山ありました。書簡をみると良く分かります。しかしそこで、あなたたちは神さまに召された聖徒なのだ。だから私の愛する兄弟たちなのだと、パウロは言っています。

15章のはじめに、聖書に示すとおりにイエス様はこの世に来て、十字架で死んでくださった。三日目によみがえってくださった。そしてペテロに、主の兄弟ヤコブに現れてくださった。主の兄弟ヤコブとは、イエス様の肉の弟です。ヤコブの手紙を書いた人です。彼は最初、イエス様に反対する者でした。しかしイエス様がよみがえられて、彼の前に現れてくださったことによって、ヤコブ自身は変えられ、やがてイスラエルの教会の指導者になります。そのヤコブにも現れてくださり、そしてパウロにも現れてくださったのだと、コリントの教会に向けて行っています。コリントの人々はこれらを信じました。パウロのメッセージを通して信じました。

 

2.初穂としてのイエス・キリスト

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
(Ⅰコリント15:12)

「ところで」「それなのに」と、パウロはパウロの耳に入ってきた「死者の復活はない」と言っている人たちのことをたずねています。
先週も申し上げましたが、コリントではギリシャ哲学が盛んで、その中心的メッセージである「霊魂不滅」のことは分かっていました。しかし、まさか自分たちもよみがえらされるとは思ってもみなかったのです。キリストがよみがえったことは分かるでしょう。だから死者の復活はあるのだ。死者の復活がないのなら、なぜキリストはよみがえったのか。もし死者の復活がないのなら、あなたがたが信じたことは何だったのか、無駄ではなかったのか、とパウロは言っています。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(Ⅰコリント15:20)

キリストは初穂としてよみがえられた。初穂としてよみがえられたということは、続いてあなたがたもよみがえらされるのだということの保証なのだと、パウロは言っています。

皆さんも、キリストの初穂に続いてよみがえらされることをご存知ですか? あなたがたもよみがえらされるのですよ、と口酸っぱくして言われても、果たしてそうなのかと思ってしまうものです。私たちは気づいていないのです。イモムシがいつか蝶になり、大空を舞うようになることに気づいていないのと同じです。実際に私たちは、よみがえらされた人を見たことがありません。ですからなおのこと、果たしてそうなのか、と思ってしまうのです。

すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱い者で蒔かれ、強い者によみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(Ⅰコリント15:39〜44)

色々なからだがあるのだとパウロは言っています。私たちはやがて御霊のからだによみがえらされるのです。
しかし、先週も学びましたが、私たちはよみがえらされた時、一つの霊にされてしまうのではありません。個人個人の人格を持ち、それぞれ識別できるかたちでよみがえらされます。そのように聖書は私たちに教えているのです。

以上が49節までに述べてきたことです。

 

3.御霊のからだ

これまで復活の福音を説いてきたパウロは、50節からは福音の奥義を語ります。

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
(Ⅰコリント15:50)

使徒パウロは復活に対して、もう一つの重大な真理を語っています。血肉のからだとは、私たちの生まれながらのからだです。パウロはこの血肉のからだは朽ちるものであって、神の国を相続できないと言っています。この世の思想や理論によると、人間には神と等しいものとなり得るだけの性質があるのだと言う人たちもいます。「私こそよみがえりのキリストである」と言い出すとんでもない者も出てきています。自分たちも神になり得るという考えに基づくものです。努力や精進によって彼らは神になる。やがて理想の人間になることができる。理想の社会を作り上げることができる。人間にはそのような使命と資質があるのだという考えもあります。その典型的な例が統一協会でしょう。統一教会の原理講論の中に次のような一節があります。
「我々は神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。」
統一教会を信じる人たちは、地上天国が建設される。それは一つの大きな家族、理想世界、一つの民族、一つの世界のために躍起になっています。しかしたとえそれが実現したとしても、その国家というものは、言語の統一、思想の統一、宗教の統一の統一が強いられる、最も悪質で最も自由のない政治国家になるでしょう。統一教会の原理講論の大きな間違いの一つだと思います。

パウロはここで、人間中心の反キリストの思想には真っ向から反対し、生まれながらの人間は、神の国を相続できないのだと断言しています。

では、私たちはどこを見れば救いの完成を確かめることができるのでしょうか。

パウロは「復活」によってそれが実現するのだと言っています。これが「救いの奥義」だと言ってます。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
(Ⅰコリント15:51〜52)

私たちは眠ってしまう、つまり死んでしまうのではなく、終わりのラッパとともに、一瞬のうちに変えられるのだと言っています。私たちクリスチャンは、キリストの再臨を待っています。その時に生きているクリスチャンたちは、終わりのラッパとともに一瞬にして栄光の朽ちない霊のからだに変えられます。それが「栄化」です。その栄化の前に、まずすでに死んだ者たちが先によみがえらされるのです。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身点から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり
(Ⅰテサロニケ4:16)

キリストが再臨されるとき、私たちクリスチャンは二通りに分けられます。つまり、キリストの再臨の時にすでに死んでいる者は、霊のからだによみがえらされます。キリストの再臨の時にまだ生きている者は、死なずに栄光のからだに変えられます。死んでよみがえらされる人、死なずによみがえらされる人の二通りがあります。

聖書の記す歴史の中にも、二通りの例が記されています。

主は彼(モーセ)をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。
(申命記34:6)

モーセは死にましたが、その墓がどこにあるのか分かりません。誰も見たことがないのだと聖書に記されています。未だに見つかっていません。モーセは死んだ人です。そしてやがてよみがえらされます。
対して、死を経験していない人が出てきます。それは「エノク」と「エリヤ」です。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
(創世記5:24)

信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。
(ヘブル11:5)

主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。
(Ⅱ列王2:1)

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつあきに乗って天へ上って行った。
(Ⅱ列王2:11)

クリスチャンが死を見ないで生きたまま栄光のからだに変えられること、また天に携え上げられることを「携挙(けいきょ)」と言います。では、すでに死んだクリスチャンの復活と、その時まだ生きているクリスチャンの死を見ないで栄光のからだに変えられることはいつ起こるのか。それはキリストの再臨の時です。キリストの再臨がなければそれは起こりえません。

イエス・キリストの再臨が起こった瞬間とはどのようなものでしょうか。
日本の裏側のブラジルとは12時間もの時差があります。半分の人は働いており、半分の人は寝ています。そのような中でキリストの再臨は、電撃的に一瞬のうちに起こります。主イエスはその時ご自身に属する者を御許に集められます。たとえ働いていようが、寝ていようが、朝であろうが、夜であろうが。再臨のキリストの力は世界のすべての人に及ぶのです。

死とは、クリスチャンにとって天国の道ではありますが、天国への道は決して死んでのみ開かれるものではありません。死なずに開かれる道もあるのです。これが奥義中の奥義です。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
(Ⅰコリント15:55f)

復活と栄光のからだに変えられることは、死を征服する道に他なりません。死が征服されなければ、神さまによるキリスト者の救いの完成はあり得ないのです。

パウロはここで罪と律法のことも要約しています。死のとげは罪であり、罪の力は律法であると。死のとげとは死の毒牙。それは「罪」です。罪とは、永遠の死をもたらす忌まわしいものです。死という事実の持つ恐ろしさです。しかし、キリストの十字架により、その罪から贖われた者にとって、死は永遠のいのちへの死は永遠のいのちへの門出となります。たとえこの身が死んだとしても、再臨の時に栄光のからだに復活させられるので、究極的に死はキリスト者に対して何の害も力も及ぼすことができません。

では、「罪の力は律法です」とはどういう意味でしょうか。

律法がないところには違反もありません。
(ローマ4:15)

道路標識に制限速度が示されていなければ、そこにスピード違反などないのです。それが律法だと言っています。

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(Ⅰコリント15:57)

神さまが私たちに勝利を与えてくださったのは、キリストが律法の要求をすべて満たされたからです。イエス様は律法を成就するために来られたとおっしゃっています。キリストを信じる者に変わって、キリストが律法の要求を満たしてくださったゆえに、キリストを信じる者は罪のない者と認められるのです。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
(ローマ8:1)

私たちはイエス様の十字架により罪が除かれました。私たちとしては、そのイエス・キリストと自分を一体化していかなければなりません。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

イエス様は十字架を背負って、ご自分が死刑に処せられるゴルゴタの丘へと向かいました。そのイエス様が、自分の十字架を負ってわたしに従いなさいとおっしゃいました。私たちは十字架を負って、処刑場に向かわなければならないのです。私たちは死に行くのです。そのような深刻さがクリスチャンに求められています。クリスチャンになるとは、決してこの世的に楽しいことではないでしょう。この世的に生きるなら、クリスチャンにならない方がよほど楽しいのです。しかしそうではないのです。自分が処刑される場所に向かって、自分の十字架を負って歩いて行くのです。これがクリスチャンの姿です。使徒パウロは、キリストとともに苦しむことにも与っていることなのだと言っています。しかし、クリスチャンになるとは罪が赦されていること、救われていることです。
教会に行けば良いことがある。病気が癒される。そのように短絡的な考えを持っている人もいます。御利益宗教ですから、御利益がなければ他の宗教のところに行ってしまいます。そうではないのです。キリストに従うこととは、死刑場に向かって歩いて行くことなのです。これがクリスチャンの姿なのです。

感謝なことは、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださった。私たちの罪を全てその身に負ってくださった。それで終わってしまっていたら、なんの益もありません。しかし、イエス様は三日目によみがえってくださいました。そして弟子たちにご自分を現してくださって、パウロの言葉を借りるなら、「肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるのだ」。私たちはみなこの霊のからだによみがえらされるのです。そういう運命にあるのです。この世で病気が治るとか、治らないとかいうのは二の次です。私たちの魂が救われることが第一なのです。教会に来て救われるとはそういうことです。決して楽しいことではありません。しかし、キリスト教のメリットとはそのようなものなのです。永遠のいのちです。この世の日数ではなく、永遠に神さまとともに生きることになるのです。そのことを是非、心に留めてください。

本当の意味でクリスチャンになるというのは、罪が赦され、新しいいのちに生まれ変わらされ、永遠のいのちが与えられるのだから、これは何にも代えがたい素晴らしいことです。

これは「恵み」です。受ける資格がないのに与えられることです。神さまの恵みにより永遠のいのちが与えらます。そして私たちは永遠に生きることになります。さらに天に行き、それぞれが識別できる霊のからだによみがえらされた皆と再会することになるのです。救いの完成です。