日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年8月7日 主日礼拝「キリストの復活の証言」

    

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章1〜11節

説教題

「キリストの復活の証言」

今週の聖句

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ガラテヤ人への手紙3章27節

 

訳してみましょう

1817 In Christ, the hopeless find hope.
(キリストにあって、望みのない者が望みを見つける。)

1818 Adversities are often blessings in disguise.
(艱難〈かんなん〉は、しばしば変わった姿の祝福である。)

 

説教メモ

福音とはなにか、それに合わせてキリストの復活を見てまいります。キリストの死からの復活を、弟子たちはどのように受け止めていったのかを見てまいりたいと思います。
私たちの教会には、最近集われた方もおられますし、求道中の方もおられます。何年も、何十年も集っておられる方もいます。分かっている方ももう一度基本に戻っていただき、福音とはなにか。人々に弁明する機会が与えられたなら大胆に証しできるように。又、信仰を持たれていない方や初めて聞くような方には、福音とは何かということをしっかりと捕らえて頂きたいと思います。

 

1.福音とは

生きている人間にとって、一番関心のあることの一つは「死」ではないでしょうか。
死は恐ろしいものです。そして、死ほど平等に誰にでもやってくるものはありません。社会的な地位、年齢など何も関係なく、死は人を襲ってきます。「生者必滅」という言葉をご存知でしょうか。生のある者は必ず死が訪れます。「会者定離(えしゃじょうり)」という言葉もあります。会う者は必ず離ればなれになるということです。どんなに愛する人であっても、いつかは死別しなければなりません。昔から人は、不老長寿、不死の方法を探すのに懸命になっていた、ということもあります。しかし、「生」と「死」とは表裏一体のものであり、人は皆「死を背負って」生きています。

皆さんは、この死に対する備えをされていますでしょうか。保険に入るとか、貯金をするとか。そのような備えをしても、死そのものに対する備えはあまりしないものです。備えが出来たとしても死を免れることはできません。そして人間が死に直面するとき、絶望のどん底に陥ります。言い換えれば、死は人類の的であり、私たちにはそれに抵抗する力はありません。
一体この死に対する解決はあるのでしょうか。どこにもありません。
ただ、聖書の中にのみ、解決があるのです。

キリストを信じて罪を赦された者は、たとえ死んでも生きると聖書は言っています。
私たちの教会の墓石には「わたしはよみがえりです。いのちです。」と刻まれています。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
(ヨハネ11:25)

しかしそれを信じ、復活を信じているクリスチャンの中にも、死に直面したくないと思っている方がいます。私もそうかもしれません。
聖書を読んでいくと、クリスチャンにとって死とは天国への道であります。

Ⅰテサロニケには、「空中携挙」が記されています。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
(Ⅰテサロニケ4:16〜17)

イエス様の再臨の時、それがいつであるのか分かりませんが、もし私たちがその時まだこの地上で生きているなら、今のままの姿でイエス様とともに天に引き上げられるのです。それを望んでいる人もいるかと思います。

使徒パウロは、1コリント15章において福音について説いています。そしてイエス様の復活のことをのべています。

これはコリントの教会に向けて書いたパウロの書簡であります。コリントはアテネのすぐ近くでギリシャです。ギリシャはギリシャ哲学が盛んであり、霊魂の不滅を信じていました。やがて自分たちが霊的によみがえることを知っていました。しかし、イエス・キリストが死んでよみがえったのは本当なのか?ということが良く分かっていませんでした。

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
(1コリント5:1〜5)

パウロは、「聖書によって」と何度も書いています。
二週間前になりますが、私は「聖書の伝えること」と題してメッセージをしました。聖書は1500年もの間、およそ40人の人が神さまに用いられて記されてきました。しかしいたずらに彼らが思うままに書いたのではありません。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、…(Ⅱテモテ3:16)

聖霊が導くまま、神の霊感によって書かれています。つまり、神さまが聖書の唯一で真の著者であります。その聖書が示す通り、聖書に従って、神さまの御霊の示すとおりに、これら4つのことが起こったのです。

  1. 私たちの罪のために死なれたこと
  2. 葬られたこと
  3. 三日目によみがえられたこと
  4. 弟子たちに現れたこと

これほどの証人がいるのだから、確かにキリストは復活したのだとパウロは言っています。さらに

そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
(Ⅰコリント15:8)

パウロ自身もそのことの証人であると言っています。

 

2.キリストの復活の証言

①私たちの罪のために死なれたこと
歴史の教科書にもイエス・キリストの死は掲載されています。しかしその死は、私たちの罪のためであったとは書かれていません。それは私たちクリスチャンが信じていることです。イエス様の十字架は私の罪のための十字架であった私たちは信じる者です。。

②葬られたこと
葬られたということは、イエス・キリストは完全に死なれたことの確かさとなります。イエス様が死よりよみがえってくださっという事実は、同時に私たちが死んで葬られても、キリストと同じように復活することの保証となります。ある人はキリストは十字架上で仮死状態だったのではないかという人もいます。しかし、それに対する反論は聖書の中にあります。

③復活
復活は十字架の死に並んで重要なことです。聖書に従って、とパウロは言っています。復活を預言したホセア書には

主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
(ホセア6:2)

また、詩篇には

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
(詩篇16:10)

とあります。これを引用したのが使徒2:27です。

あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
(使徒2:27)

女たちが墓に行った女たちが「イエス様がいなかった」という報告をしました。それを聞いたペテロとヨハネはその目で確かめようと墓へ走ったと記されています。イエス様が死からよみがえらなければならないという聖書を、彼らは理解していなかったのだとヨハネ20章には書いてあります。

彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
(ヨハネ20:9)

そして、よみがえることによって、キリストは本当に神の子であることを証しされています。

聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
(ローマ1:4)

イエス様は私たちのために、父なる神さまに対して仲保者となられました。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
(ローマ8:34)

キリストを信じる者の復活の保証であります。

④現れたこと
イエス様は死んでよみがえってくださり、弟子たちの前に姿を現してくださいました。聖書には復活と現れを区別して記されています。弟子たちが目撃できたのは、復活ではなく現れです。誰もイエス様が復活されたのを見た者はありません。しかし復活したイエス様は十二弟子たちに現れ、その後500人以上の人たちの前に「同時に」現れました。この現れたことによって復活は確認されて行きます。つまりイエス様が弟子たちに現れてくださったことは、キリストの復活の証拠となっていきます。
顕現があって初めて復活が事実となりました。
まずケパ(ペテロ)に現れました。その後十二弟子たちに現れ、さらに500人以上の兄弟たちに同時に現れました。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
(Ⅰコリント5:6〜8)

ケパ、すなわちペテロに対してただ1回だけ現れたのではなく、引き続き使徒たちの前に何度か現れ、さらに500人以上の人たちの前に同時に現れました。ですから、ペテロが幻を見ていたわけではありません。
これらがキリストの復活の証拠となりました。証人たちには死んでしまった者もいるけれど、ほとんどが生きているではないか、とパウロは言っています。もしあなたがたの中にキリストの復活を疑う者がいるなら、生き残っている彼らに聞いてみて欲しいとパウロは言いたかったのかと思います。
また、ヤコブはイエス様の弟でした。はじめはイエス様を信じていませんでした。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
(ヨハネ7:5)

ここでイエス様が彼の前に現れてくださったことにより、彼は信仰を持ち、やがてエルサレム教会の指導者となりました。

最後にパウロは自分自身に対するイエス様の現れを言っています。あのダマスコへの途上での回心の出来事です。

そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(Ⅰコリント15:8〜10)

パウロは謙遜な言い方をしています。自分は最初から他の使徒たちと同じような状態ではなく、クリスチャンたちを迫害していた者でした。そのようなパウロに、イエス様は特別に現れてくださいました。
「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」パウロは自分の働きを自画自賛しているわけではありません。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」このように付け加えています。これは非常に大切なことです。私たちの信仰の過程で、神さまは私たちに良くしてくださいます。そのようなことはたくさんあります。経済的な必要があるときに、神さまが色々な人を動かしてくださって、その欠乏を満たしてくださったなど、そういったことはたくさんあります。それは自分の信仰が良かったからではありません。神さまの恵みなのです。あくまで神さまを褒め称える、そのことが必要です。

クリスチャンになったからといって良いことばかりではありません。クリスチャンでなければ良かったのに、と思うことも多々あるのではないでしょうか。クリスチャンになったからこそ味わう苦しいことなど、神さまはそれら一つ一つ導いておられます。ですから、その試練は必ず乗り越えることができるものです。
私たちの証しも、良いことばかりでなく悪いと思えることをも正しく証ししなければなりません。それは正しく聖書を伝えることではないと思います。

先日はバングラデシュでのテロによって、一人のクリスチャンが犠牲になりました。私たちはクリスチャンなのにどうして?と思います。私たちはどんな形でこの世から取り去られるか分かりません。とても立派な方が、なぜあのような人生の最後を迎えなければならなかったのか。私にも分かりません。でも確かに言えることは、あの方は、ああいった形でこの世から取り去られましたが、神さまのみもとに行っているのだということです。むしろバングラデシュのために若い情熱を燃やして貢献してくださった、その道半ばで殺害されてしまった方が、救いの体験をせずに若い命を失ってしまった、その残念な気持ちの方が大きいです。

私たちはいつ、どのような形でこの世から取り去られるかわかりません。
ですから、私たちは死に対する備えをしなければなりません。
それはつまり、十字架のイエス様の贖いを信じて救われる、ということです。

今朝は上野兄弟の洗礼式がありました。兄弟が今後どのような歩みをするのか私には分かりませんが、確かなことは「彼は救われて、キリストにある者とされたのだ。たとえ、どのような形で彼の命が取り去られたとしても、彼は天国に行けるのだ。」という確信があるということです。

先ほども申しましたが、クリスチャンになったからといって良いことばかりではありません。辛いこともたくさんあります。けれど、良いことがあったら神さまに感謝しましょう。

ここにおられる方々の中で、まだ十字架の贖い、イエス様が私の罪のために十字架に架けられて死んでくださったのだと、信じられる方は今、信じておいてください。自分はまだ若いから良いなどということは通用しないのです。いつ、どんなことが私たちの身に起こるか分からないからです。

私たちは、信じられるときに信じなければなりません。
死に対する備えを確かにしなければなりません。

 

特別なお知らせ

本朝は、上野兄弟の洗礼式が執り行われました。
ご受洗、おめでとうございます。

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