日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2016年9月18日 主日礼拝「聖霊に満たされた生活」

    

本日の聖書箇所

使徒の働き4章32〜37節

説教題

「聖霊に満たされた生活」

今週の聖句

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

ガラテヤ人への手紙5章16節

 

説教メモ

1.ダミアン宣教師

ダミアン宣教師のことをご存知の方はいらっしゃますでしょうか。昔、教会学校で聞いたのではないかと思います。

「ダミアン」という名前は本名ではなく、宣教活動を始めるに当たってつけられた名前だったようです。一言で言うと、この方はハワイのモロカイ島でツァラアトの人々と生活し、自身もツァラアトに冒され49才という若さで召されました。生まれはベルギーでした。両親は貧しい百姓でしたが、二人とも敬虔なクリスチャンでした。特に母親は子どもたちに、殉教者の話しをよくしていたそうです。それでダミアンの中にも信仰心が芽生え、6人の兄弟のうち4人までが宣教活動に携わるようになりました。彼のお兄さんがハワイに遣わされる予定でしたが、そのお兄さんが急死し、代わりに自ら名乗り出てダミアンがハワイに行きました。23才の時でした。当時の彼は、どこか遠いところの主を知らない人への伝道に対する熱い思いがありました。彼はハワイに向かいましたが、モロカイ島の存在は知りませんでした。ハワイに着くとクリスチャンの仲間が政府の命令で10人ほど強制的にモロカイ島に送られることを知りました。彼は自分も行くと、自ら志願してモロカイ等に渡りました。モロカイ島は島全体がツァラアトに冒された人々の生活の場でした。600名ほどいたそうです。医者も十分におらず、次から次へと命を落とす人が出ました。やがて、彼自身ツァラアトに冒されてしまいました。それから2〜3年後に亡くなりました。彼は「ツァラアト患者の使徒」として知られています。

今日の主題は「聖霊に満たされた生活」です。
聖霊に満たされた人が、例えばダミアンのような素晴らしい働きができるのです。聖霊に満たされることは非常に大切なことです。毎日の働きの中で聖霊に満たされて何かをするのと、そうでないのとでは非常に違いがあるかと思います。信じた者、つまり聖霊によって信じる者とされたのだから、聖霊に満たされて日々の行いを全うしていく。それは素晴らしいことです。皆さんもそれを目指しておられると思います。

 

2.初代教会の模範

先ほどご一緒にお読みしました使徒の働き4章の最後の方ですが、この箇所より前に「ペンテコステ」において聖霊が注がれて心から悔い改めたペテロや弟子たちが、聖霊が与えられて力を受け、人々の前に立ち、大胆にキリストの十字架と復活を宣べ伝えました。聖書にはその日3000人もの人が群れに加えられたと書かれています。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
(使徒2:41)

これが教会の出発点でした。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒2:46〜47)

これがペンテコステの日に、ペテロの説教を聞いて救われた者たちの姿です。

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
(使徒4:32)

今、私たちが知っている共産主義のような姿です。しかしここで違うのは、彼らは自ら進んで、自発的にこれらのことをしているということです。自発的に出てきた素晴らしい集団でした。
個人の財産が否定されたわけではありません。

当時のクリスチャンたちは非常に貧しかったと言われています。貧しい生活をしていたからこそ、このような分かち合いの精神が生まれてきたのです。持っているものはそれをみんなで使いましょうといったものです。今の献金もそうではないでしょうか。献金は全く自由です。自発的にささげられたものによって教会の必要は賄われています。

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
(使徒4:33〜35)

これが初代教会の模範です。
皆で心一つにして神さまを賛美し、大胆にイエス様の十字架と復活を宣べ伝えていました。

聖霊に満たされた人は、二つのことをします。
心と思いを一つにする。
信者となった者たちはいっさいのものを共有にする。
これらは上から命令されることによる行いではなく、自発的な行為です。

今の日本は食べることに事欠くほどの貧しい人は少ないと思います。貧しくとも、何とか食べるものがあり、住むところがあります。極度の貧しさの中にはいません。そして、色々なものを分かち合っています。これは、主が喜んでくださるキリスト者の歩みです。ですからそれをずっと続けて行きたいと思います。

最後に「バルナバ」という人物が登場します。

キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
(使徒4:36〜37)
バルナバと聞いてまず思い起こすことはなんでしょうか。「慰めの子」。使徒の9章でパウロ(サウロ)がダマスコを前にして、復活の主にお会いして変えられる場面がありますが、その出来事があったことは、エルサレムにいた人々は知りませんでした。パウロがエルサレムに戻ったとき、クリスチャンたちと以前は「大迫害者」であったパウロとの仲介をしたのがこのバルナバでした。

エペソ人への手紙5章18節をご覧ください。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
(エペソ5:18)
御霊に満たされるということと、酒に酔うことが並列して書かれています。いかに対立的かということが分かります。

ガラテヤ人への手紙5章をご覧ください。ここには御霊に満たされていない人の行いが書かれています。

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかしめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
(ガラテヤ5:19〜21)
こういうものは御霊に満たされていない状態です。
酒を飲んではいけないという聖書の箇所はありません。弟子のテモテという人はとても病弱でした。パウロはテモテに向けて、あなたの体のために良質のワインを少し飲みなさい、と勧めています。これはあくまで医学的なことですが。
一般的に見て、日本ではクリスチャンが酒もタバコものまないことが常識になっているようです。ですからそのように思っている人たちのために、私たちは公の場などで酒やタバコは謹むべきだと思います。
酒をのんだり、遊興をしなければいい気持ちになれないのだとすれば、そのような人こそ聖霊に満たされるべきです。その必要があります。

 

3.イエスの「愛の戒め」

ヨハネの福音書を開いてください。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13:34〜35)

ここに、イエス様が「新しい戒めを与える」とおっしゃっています。「互いに愛し合いなさい」これはイエス様が初めて語られたことではありません。ずっと前から言われていることです。ここで新しいのは「わたしがあなたがたを愛したように」ということです。これがイエス様が与えて下さった新しい戒めです。
イエス様が私たちを愛してくださった愛が、どれほどの愛であったかを思う時に、自分はイエス様のその愛を全面的に受け止めて、他の人を同じように愛することができだろうかと考える時、それは不可能だと思う方が大半かと思います。しかし、そのような努力は必要です。難しいことであり、初めから出来ることではありません。私たちは、自分を捨てて、自分の十字架を負って、イエス様に従っているでしょうか。もしそれが出来るなら、イエス様が愛して下さったように、私たちも他の人を愛することができるのだと思います。希望です。しかしなかなか出来ません。己の古い人はイエス様とともに十字架に葬り去ったのだと聖書は言っています。イエス様とともに己の古い人を十字架につけてしまった人は、もう自分ではなくなります。そして洗礼の時、水から上げられてまったく新しい者として神さまの前に生きる者に変えられました。そこに自覚がある人には、「わたしがあなたがたを愛したように…」というみことばに現実味を感じるのではないかと思います。「そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」御霊によって歩むと、そのように変えられると思います。肉の欲望をアルコールや遊興で満たすのではなく、御霊によって歩む。肉の行いとか、御霊の実ということが言われています。御霊の実とは何でしょうか。エペソ人への手紙に記されています。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ5:22〜23)

先ほどご紹介しました、ダミアン宣教師のように自分を捨て、100%主のために献身する生活ができるようになるのではないかと思います。

今週の聖句

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤ5:16)

肉の欲望によってではなく、御霊によって満たされるのです。
どのようにしたらできるのでしょうか。御霊に満たされるのでしょうか。
主に祈り求めること。これは非常に大切です。祈ったらどうしますか。
実行しなければなりません。神さまに委ねつつ、自分に出来ることを実践していくのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私尾うちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

自分は新しくされたのだ。自分の古い人はイエス様の十字架とともに葬り去ってしまったのだ。そのように祈りの中でも自分に言い聞かせていくことが大切です。次に自分が神さまによってどのように用いられていくのか。そのことを祈り求めるならば、神さまは道を示してくださることでしょう。そして一人ひとりがその生き様を通して証ししていって欲しいと思います。