2016年6月5日 主日礼拝「神の国にふさわしい人」

本日の聖書箇所

ルカの福音書18章9〜17節

奨励題

「神の国にふさわしい人」

今週の聖句

「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

ルカの福音書18章17節

訳してみましょう

1801 Nothing on earth compares to being with Christ in heaven.
(地球上の何も、天国にキリストとあることに匹敵しません。)

1802 We need a servant’s attitude to be like Jesus.
(私たちは、イエス様のような召使いの態度を必要とします。)

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(本朝は、北村牧師がスイス滞在中のため、佐藤神学生がお奨めをいたします。)

 今日の箇所では、イエス様が「神の国にふさわしい人」とはどのような人なのかを、二人の人が登場するたとえ話しをもって語られています。
前半には二人の人が登場し、それぞれ祈っている様子が語られています。一人目はパリサイ人です。聖書をご覧ください。ルカの福音書18:11節です。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:11~12)

 パリサイ人は立って祈っていました。マルコの福音書には「立って祈っている時に誰かに恨み言があったら赦してやりなさい。」と勧められており、ここから立って祈ることは通常の祈りの姿勢であったことが分かります。そしてこの後に続く祈りの内容ですが、私は個人的に驚いたことですが、このような上から目線の祈りは、当時のユダヤ人、ラビと呼ばれる人たちやパウロまでも現にささげていた祈りでした。つまり、祈りの姿勢も、祈りの内容も間違ってはいませんでした。

 続いて取税人です。取税人とは当時、ローマ政府から税金の取り立てを委託された役職で、ユダヤ人でありながら外国人(神を信じない異邦人)のために働くとくことで、また、役職上金持ちで、割り当てられた税額以上を徴収することによって私腹を肥やす者が多かったことから、同胞のユダヤ人からとても嫌われていました。そして罪人の位置に属していました。そんな取税人の祈りは、ルカ18:13節にあります。

「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

でした。普通に読んでしまいましたが、きっともっと感情的な祈りだったのではないでしょうか。イエス様の結論は続く14節にある通りです。

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)

 なぜイエス様は「パリサイ人ではありません。」と仰ったのでしょうか。パリサイ人は祈りの姿勢も、祈りの内容も間違っていませんでした。
それは、自分の信仰生活への信頼に立っていて、神さまへの信頼に立っていなかったからです。
話しの中のパリサイ人は、まず自分が慎んでいる悪い行いについて、続いて自分が行っている敬虔な習慣について語っています。律法では一度だけの断食を定めているのですが、パリサイ人は断食を二度もしていると、自分の信仰を誇っています。ささげ物に対しても、律法では「ある作物の十分の一」が定められているのに対し、当時のパリサイ人は庭の野菜などの十分の一をも献げていました。自分は律法が定めている以上の良い行いをしていると、自分の信仰、良いと思っている行いを誇っています。
さきほど「パリサイ人は語った」と言いました。パリサイ人の心の中の祈りは、心の外に出して神さまに向かわせていないようです。心の中で祈ったとは、これはただの独り言ではないでしょうか。自分自身に向けた「自己義認」です。自分で自分を正しいとする祈りです。そしてそこには、「罪の意識」も、「自分の必要についての意識」も、「神さまに謙虚に頼ろうとする意思」も感じられません。このパリサイ人は、正しい自分の信仰、行いによって生きているのです。しかし忘れてはいけないことは、イエス様の評価の基準は、「すべての人は生まれつきの罪人であり、自分の行う義の業が神の喜ばれるレベルに達している人は一人もいない。」という聖書に基づく人間観によるものだということです。

 それに対して取税人はどうでしょうか。取税人は明らかに強烈な罪の自覚の中にいました。その姿は聖書に記されている通りです。13節をご覧ください。

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:13)

 自分がまったく値しないという思いから、天に、つまり神さまに目を向けることさえもできませんでした。そうすることさえできなかったのです。そして胸を叩き続けました。日本語では「胸をたたき」とありますが、動詞の時制とやらでは「叩き続けた」となるそうです。これは悲しみのしるしです。次々と襲ってくる悲しみにこらえきれず、自分の胸を叩き続けました。悲しみのゆえに胸を叩き続ける気持ちは、恐らく皆さんが理解できるのではないかと思います。世界共通の行動であることにも驚きます。

 この取税人の、これほどまでに打ちのめす罪の自覚はなんなのでしょうか。

 ここで思い起こすのは、同じ取税人であったザアカイのことです。彼は幸いにも自分が不正をして得た財産を返却し、罪の償いができました。イエス様が介入してくださったからです。しかしここに登場している取税人は、誰に不正をしたのか、誰をゆすったのか、誰からいくらをだまし取ったのか思い出せず、償いたくても償えません。自分の行動によって赦してもらいたくても、赦してもらうことができない、自分ではどうしようもない「絶望」です。絶望の中に立ち尽くしています。やりきれない思い、心の底から襲ってくる恐怖にも似た悲しみを何とか抑えようと胸を叩き続けながら、心の底から神さまに祈っています。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:13)

 「あわれんでください」はギリシャ語で「なだめらてください」という意味だそうです。ここでは誰がなだめられるのでしょうか。神さまです。神さまを誰がなだめることができるでしょうか。神さまご自身によってのみです。つまり、人間の側ではどうしようもない、入ることが許されない領域です。神さまに頼るしかないのです。取税人の思いの中に、神さまに情状酌量を乞うものは何もありません。無力です。神さまのあわれみにすがるだけです。取税人は自分の力ではどうしようもない「無力な者であるとの自覚」がありました。そして神さまに「必死」にすがっています。
必死という言葉の意味は、文字通り「その事態の中で必ず死ぬと覚悟すること」です。
この「死ぬ」というキーワードですが、これは私の約二ヶ月の神学校生活において重要なキーワードでした。

 神学校に入学し学びが始まるとすぐに、多くの事を学んでいるのに、自分の中身が空っぽになっていくような無力感に襲われました。私の召しは間違いだったのか、自分の勘違いだったのかと、そんな思いがよぎり、とても恐ろしくなりました。「もしそうだとしたら、今すぐこの世から取り去ってください」とまで祈りました。そして初めての一週間の学びを終え、すぐに語られたメッセージが、北村先生による「十字架に死ぬ」というメッセージでした。前の週の授業で、聖書のみことばは当時の歴史的背景などを理解することによって初めて正しい意味が分かることの一つの例として、「自分の十字架を負って従う」ということばの意味を学びました。それは、自分なりに神さまのために苦労や重荷を負ってしがたくということではなく、「死を覚悟して従う」という意味なのだと教わりました。奇しくも北村先生のメッセージはそのことでした。「自分に死にきれていない自分」ということでした。私は進学に際し、仕事を捨て、家族を残し、自分の重荷を負って進んで行くのだといったような、自分の行いを義とする高慢な思い、さらに自分にはそれが出来るのだという高ぶった思いがどこかにあったのだということを示されました。
学院に戻り、その週には一日特別セミナーが開かれました。テーマは「ヨナ書に学ぶリーダーシップ」でした。どんなリーダーシップが学べるのか楽しみにしていたのですが、そこで語られたことはただ一つ、「自分に死ぬ」ということでした。またまた「自分に死ぬ」ことが語られたのです。ヨナは神さまに召されてニネベの町に行くように命じられましたが、その命令に背き主の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗りました。すると激しい嵐に襲われ、船は難破しそうになりました。ヨナは海に投げ捨てられました。船が難破しそうなほどの嵐の海に投げ込まれたのですから死ぬこと必至でしょう。しかし神さまは大きな魚を備えてくださり、ヨナは助かりました。そして魚の腹の中に三日三晩すごしました。一度は本当に死ぬほどの体験をした後、ヨナは自分の思いを超えてようやく神さまに祈ることができました。
さらに北村先生のメッセージでモーセの生涯を学びました。モーセが犯した失敗、それは自分を正しい者とし、自分はイスラエル人であるという自負心もあり、自分の考えで勝手なことをし、それが失敗となりました。モーセは荒野に逃れ、ミデヤンの地で40年間という訓練の中を通され、自分自身の力、地位などといった人間的な力がまるで通用しないことを学び整えられ、再び神さまによって召し出されました。ところが、十分に試練の中を通され、整えられて召し出されたはずなのに、直後に神さまによって殺されかけてしまいました。完全に神さまに従いきれていない部分があったからです。神さまによって殺されるほど、死ぬほどの体験をしないと、人は罪を手放すことができない、どこかに巣くっている自分が正しく知恵も力もある者であるという考えを捨て、神さまを神さまとしてただへりくだって、自分には力も正しさもないことを認めて従うことができない存在なのだと、そう思わされました。

 なぜこんな死を覚悟するほどの必至な思いで神さまを依り頼まなければならない出来事が起こるのか。それは驚くことではありませんでした。聖書にちゃんと理由が書いてあったからです。通読で士師記にさしかかったとき、こう書かれていました。「神はモーセとヨシュアに、異邦の民を一掃するよう命じられた。ところが、イスラエルは士師時代に、異邦の民を完全に征服することができなかった。それは民の不従順のゆえであったが、同時にそれは神のご計画でもあった。すなわち、神は先住民を残して、イスラエルが本当に神に従うかどうかを試されたのである。」神さまはご自身に本当に従うかどうかを試されるお方であることが分かりました

 さらに続けて学ばされました。ヨハネの黙示録からでした。ここにも神さまの前で死んだ者のようにされた人物が登場します。聖書を見てみましょう。ヨハネの黙示録1章9節~20節です。

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。(黙示録1:9~20)

 ヨハネは島流しの刑でパトモス島にいました。ヨハネを取り巻く状況といったら、同じ使徒たちは殉教してしまい、ヨハネだけが生き残っている。外から聞こえてくる声は、クリスチャンたちが非常な迫害にあっているということ。歴史の事実の中に残されているとおり、当時はクリスチャンへの迫害が非常に激しい時でした。ライオンの檻に放り込まれ、戦わされ、かみ殺させるといったことが実際に行われていました。ヨハネの霊的状態はどのようなものだったでしょうか。迫害に遭い、島流しにされ、自分が決して望んでいないその場に押し込められ、悲しみや苦しみに、悩みや恐怖に襲われ、信仰を捨ててしまうのではないかというほどではなかったかと思います。
そんなある主の日に、ヨハネは御霊に感じ、後ろの方でラッパの音のような大きな声を聞きました。黙示録1:10です。それは「あなたの見ることを巻物にしるして、7つの教会に送りなさい」という命令でした。

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。(黙示録1:12~13)

 ヨハネはその語りかける声の主を見ようと振り向きます。すると人の子のような方が見えました。イエス様でした。18節を見ると分かります。

「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」(黙示録1:18)

 一度死に、また生き返った方はイエス様しかおられません。そのお姿はどんなだったでしょう。13節~16節です。

それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(黙示録1:13~16)

 14節から16節を絵に描けたらと思います。正直言って言葉は悪いですが「化け物」です。恐ろしい姿です。そして17節、

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。(黙示録1:17)

 ヨハネはそのお姿を見た時、足下に倒れて死者のようになりました。
かつてないほどの迫害の中にあって、信仰を捨てる者がいた、ユダヤ教に戻る者もいた、大宣教命令が与えられ、実際に証人として働いてきた使徒としてのヨハネの心は本当に弱っていました。国家や軍事力、わらには人の力を恐れ、自分自身の信仰にも絶望し疲れ果てているその者の前に、主イエス様は衝撃的な姿で現れました。

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。(黙示録1:17)

 弱り果てている教会の前に、主イエス様は恐ろしい姿で現れました。あなたは生ける神の子キリストですと信仰を告白した教会は、主イエスの前でさらに死んだ者のようにさせられ、その教会に対し次のように語られました。17節の続きからです。

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。(黙示録1:17~19)

 イエス様は私たちを死んだ者と等しくされ、自分の無力を認めさせるだけではなく、それによってふさわしく整え、さらにその後で励ましをもって再び召し出してくださいます。

 このように主イエスは信仰告白の上に立っている救われた者の前に立つ時、栄光の姿となって現れます。私たちは一人ひとりが信仰を告白した神の宮、教会です。私という教会の前に激励するために立たれる時、この栄光のお姿なのです。地上で人となって仕えてくださった優しいイエス様のお姿、あれも確かに間違いなくイエス様のお姿です。それは、私のために死なれるためにそのお姿をとられました。罪人の前に立たれるイエス様です。しかし、信仰告白の上に立っている救われた者の前に立つイエス様は、栄光の姿です。私たちが死者のようなものになってしまう圧倒的な姿です。信仰のある者にだけがそれを受け止められるのです。神さまの愛を知っている者にだけ、それが受け止められるのです。愛ゆえのさばきであることが理解できるのです。
何を弱っているのか。わたしは死とハデスとのカギを持っている。死とハデスの権威を持っているのは、サタンではなく、イエス様です。私は意外だと思いました。サタンは私たちの信仰を引き離すために一生懸命です。しかし、死とハデスの中に放り込むことができるのはイエス様だけなのです。私たちが主によって、死を覚悟するほどの訓練の中を通らされても、なお今生きているのは主がこの励ましをもって生かしておられるからではないでしょうか。私たちへの愛ゆえではないでしょうか。

 Ⅰコリント1:26~30、Ⅰコリント1:26~30です。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。(Ⅰコリント1:26~30)

 聖書の中で神さまに用いられているたくさんの人の人生が記されています。それは必ずと言って良いほど、挫折や一度死に渡されそうな体験をした人物です。あの大使徒として用いられ、パウロ書簡なるものが聖書の正典としておさめられてるあのパウロでさえ、目からウロコが落ちた時から単純計算で16年間も実際に働けずに寝かされていました。その間に三度の挫折を味わっています。パウロの生涯は挫折また挫折の人生です。使徒の働きをよく読むと分かります。そして神さまは、その人を挫折や死に渡されるような体験を通し、無に等しい者として、さらにそこから無に等しい者を選ばれるのです。

 もう一度、ヨナ書に戻りましょう。1章17節です。ヨナ書1章17節。

主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。(ヨナ1:17)

 ヨナが魚にのみこまれ、一命を取り留めた次第がヨナの祈りの中で分かります。2章5節です。

水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。(ヨナ2:5~6)

 もの凄い切迫感、死の恐怖を感じないでしょうか。息ができない、海藻が頭にからみつくほど波に翻弄されてどうしようもない、海底まで沈んで地のかんぬきが見えた。正に死の体験です。しかし、死とハデスのかぎを持っておられる主は、その時ヨナを死に渡しませんでした。そしてヨナの信仰をも死に渡されることなく生かされていました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。(ヨナ2:4)

 ヨナは死を直前にしてこのように祈ったのです。そしてヨナは気を失っていきます。気がつくと魚の腹の中でした。そして次のように祈ります。ヨナ2:7~9です。

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」(ヨナ2:7~9)

 ヨナは一命を取り留めました。でも、意識を取り戻して目を開けると、そこは真っ暗で、狭くて、ひどい臭いのする魚の腹の中です。通常ではありえない状況です。その中で、ヨナはそこからの救出を求めるのではなく「神への感謝と再献身の決意」を祈ったのです。
ヨナのこのようなあり得ない出来事ですが、私たちの人生においても、あり得ない出来事、考えもしなかったことが起こるものではないでしょうか。それは決して歓迎できないものによって、悲劇のどん底に落とされることがあります。ヨナで言えばその原因は「神に背いた結果」「自分を神より勝っている者とした結果」「自分を偶像とした結果」です。
箴言6章には主ご自身が忌み嫌うものが七つあると書かれています。

主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、
邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、
まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。(箴言6:16~19)

 その第一番目に「高ぶる目」があります。順番に重要な意味があるのかは分かりませんが、確かに高ぶる者を主は忌み嫌われます。さらに進んで箴言16章には次のように書かれています。

主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。(箴言16:5)

 本日の聖書箇所であるルカの福音書に戻りましょう。ルカの福音書18章14節です。

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)

 私たちは一度死んだ者のようにされ、新しくいのちと力を与えられ、自分には何も力がないことを認め、子どものような信仰が与えられて従うことができます。

「しかしイエス・キリストは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」(ルカ18:16)

 イエス様が認めておられる幼子のような信仰には、自分で自分を救えると思っている高慢な思いはありません。また、いくら叱られても、夕方には当たり前の顔をして家に帰ってくるように、平然と神さまの前に戻ってくる。純真な信頼、疑いもない信頼です。そのような信仰を取り戻させ、神の国にふさわしい者とするために、神さまは私たちに死んだ者のようにさせられる経験をされているのかもしれません。させたかもしれません。これからされるかもしれません。しかし、死とハデスの鍵を握っておられる主に生かされています。生かされます。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

 自分に死に、自分を神さまより力ある者のようにしてしまうそんな偶像を捨て、救いは主のものである。このように祈る時、主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。そこから再びその身を神さまに献げ、歩み出させていただくことができました。

 私たちもまた、今も生きておられる主と共に、ここから歩み出させていただきましょう。

 最後に、毎週のように英語礼拝で賛美している歌の歌詞がありますのでご紹介したいと思います。

An empty grave is there to prove my Savior lives.
空っぽの墓が 救い主が生きていることを証する
Because He lives, I can face tomorrow.
主が今 生きておられるから 私は明日に向かうことができる
Because He lives, All fear is gone.
主が今 生きているから すべての恐れは過ぎ去った
Because I know He holds the future,
主が未来をも支配されることを 私は知っているから
And life is worth the living just because He lives.
そして 主が生きているから 私の人生には生きる価値があるのだ

 私がこの二ヶ月で教えられたことをお分かちさせていただきました。
今、弱っている方がいるならばその方にとって励ましとなるように、またこれから経験されるかもしれない方にとっては、その時に主がこのお分かちを用いてくださることを祈ります。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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