日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年1月1日 元旦主日礼拝「両方を見る」

    

本日の聖書箇所

ヨシュア記1章1〜9節

説教題

「両方を見る」

今週の聖句

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

ヨシュア記1章9節

訳してみましょう

1856 Jesus gave His all for us. Do we give our all for Him?
(イエス様は私たちにご自分の全てを与えられました。私たちは私たちのすべてをイエス様のためにささげるでしょうか?)

 

説教メモ

今朝も3つのポイントを挙げました。

1.過去から現在へ

1月はJanuaryです。これは英語の読み方をするとJANUS(ジェイナス)が語源であり、原語の発音では「ヤヌス」ではないかと思います。ヤヌスはローマ神話に出てくる神で、頭の前後に顔がついている女神です。最初と最後の両方を見ることができるということになっています。1月は古い年を送り、新しい年を始めるということで誰が付けたかは知りませんが、このヤヌスの女神からJanuaryとしたのでしょう。前に何があるか、後ろからは何が迫っているのか。両方を見られるなんて便利です。

日本人はよく反省する民族だそうです。良く過去を振り返るそうです。しかし、前進することに劣ります。それが日本人の欠点であるとある人が仰っていました。過去を振り返って反省し、また反省ばかりでなく神がしてくださった数々の恵みを思い起こしながら数えることはとても良いことでしょう。そして向きを変え、前を向いて、この年も神さまにゆだねて歩んで行こうと前進する。一度振り返ったら、何度も何度も振り返らなくていいのです。反省してもし去年やり残したことや、思わず失敗してしまったことがあったなら、それを神さまに赦していただいて、新たに向きを変え、神さまに向かって歩み出す。これがクリスチャンの歩み方だと思います。

 

2.モーセからヨシュアへ

さて、ヨシュアはモーセの後継者です。モーセは素晴らしい指導者でした。とても辛い奴隷生活をさせられていたイスラエルの民をエジプトから連れ出し、神さまの約束の地へと導きました。モーセは神さまに召される前、40歳から40年間、ミデヤンの荒野で生活し整えられました。そして40年が満ちた80歳のとき、神さまは燃える柴の中からモーセにお語りくださり、イスラエルの民をエジプトから導き上るようにとの神さまの召命によりエジプトに戻りました。モーセは素直にその召命に従いませんでした。神さまはアロンという助け手を与えました。そして王宮で生まれ育ったモーセにとって父のようであったエジプトの王パロ、そしてエジプトに対して、神さまはモーセを通し9つの災いをくだされ、ついに10番目の災いがくだされました。それは死の使いをエジプトに送り、エジプト中の男子の初子が殺されるというものでした。しかしイスラエル人は家ごとに目印として門柱に小羊の血を塗り、その家を死の使いが過ぎ越すようにされました。そして過ぎ越されたその家の男子の初子は殺されずにすみました。それ以来、過越の祭りが守られてきました。それからエジプトを出て、荒野の旅をし、その中で色々な出来事、失敗、罪がありました。モーセは立派な指導者でしたが、神さまはモーセは約束の地に入るのにふさわしくない者であると宣言されました。それは何故でしょうか。モーセの失敗、罪については以前に学んだとおりです。私たちは神さまのおことばを注意深く読み聞きしなければならないということ。神さまの仰ることはどんな状況にあっても一言一句聞き漏らさず、すべて従わなければならないということです。自分の知恵や経験に頼ってはならないということです。そして、モーセの死を目前にして、後継者にヨシュアが立てられました。

主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
(民数記27:18〜19)

ここですでにヨシュアが神さまによって任命されており、そしてモーセは約束の地を目の前にして、ネボ山の頂で死にました。

モーセはモアブの草原からネボ山に、エリコに向い合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。
そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。
(申命記34:1〜5)

ヨシュアの時代が始まりました。

さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
(ヨシュア1:1〜2)

このように神さまはヨシュアに仰いました。しかしヨシュアは、あの偉大な指導者モーセに比べたら全く力がない者であることを百も承知でした。民もまた、ヨシュアを見下すわけではなかったkもしれませんが、やはりモーセと比べると劣るように思っていたのでしょう。ヨシュア記を見ていきますと、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」このように神さまは何度も何度もヨシュアを励ましておられます。モーセの時と違います。神さまはヨシュアを励ますと同時に、ユダヤの民に対しても新しい指導者であるヨシュアに従うように思い起こさせる表現だったのではないでしょうか。

モーセからヨシュアにバトンは受け継がれました。しかしイスラエルはなかなか体勢を整えることができませんでした。ヨシュア記を読んで行きますと、ヨシュアは様々な体験をしていくわけです。でも、イスラエルの民は口では従うと言いながら、従いませんでした。

彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
(ヨシュア1:16〜17)

表面的にはこのように言いながら、実際はそうではありませんでした。モーセに従ったようには、ヨシュアには従いませんでした。
ですからヨシュアは晩年になり次のように言います。

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
(ヨシュア24:15)

イスラエルの民は一致していませんでした。真の神さまを信じると口では言っていながら、密かに信じていた偶像を拝していました。民はヨシュアにこのように言われても、このように答えるのです。

すると、民は答えて言った。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」
(ヨシュア24:16)

そのように口では言うのですが、実際はそうではありませんでした。

 

3.ただ主にのみ従う

本朝は一つだけ覚えて帰っていただきたいと思います。
それは、「私たちは主に従う」ということです。後ろのものを忘れてひたすら前を向いて歩む。つまり神さまに向かって、神さまを見上げて歩むということ。それをどうしたら出来るのでしょうか。私たちは頭では神さまに従うことは分かっているのです。それなのに、実際はどうでしょうか。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
(ヨシュア1:8)

このおことばの中で非常に大切な表現があります。それは、「口ずさむ」ことです。モーセを通して律法が与えられました。しかしそれを頭では理解していながらなかなか守れない民。その時代は書物などない時代ですから、イスラエルの人たち、子どもたちは、毎日長老たちが諳(そら)んじ唱えるみことばを聞きそれを暗唱していきました。暗唱はしているけれど実際にそれが行いに現れてこない。

イエス様は

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
(マルコ8:34)

と仰いました。そして私たちは

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

と知っており、またそれを暗唱していると思います。暗唱しているからといって、それが私たちの生活が伴っているかと問われるとどうでしょうか。

律法は私たちに与えられている。神さまの約束も私たちに与えられている。私たちはそれを肌身離さず口ずさまなければなりません。頭で理解しただけではだめなのです。ローマ書6章では

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6:11)

「思いなさい」と言っています。十字架の事実を知った上で、さらに「自分はキリストとともに十字架につけられたのだ」と思っていく、日々、自分に言い聞かせることを命じておられます。

神さまはこの年も、私たちに約束を果たそうとしておられます。私たちはその神さまのことをひとときも忘れることのないようにしましょう。私たちは神さまを忘れた時に罪を犯してしまう者です。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(ローマ6:7)

罪を犯すということは、私たちが死んでいないということです。死にきれていないのです。日々私たちは、自分は死んでしまい、以前に何度もお見せしている長芋の種芋のように、ひからびて何の役にも立たない自分がそこにいるのだと、日々自分に言い聞かせていかなければなりません。それを忘れてしまう時、私たちは罪を犯してしまいます。

ヨシュア記では「口ずさむ」。ローマ書では「言い聞かせる」。このことがいかに大切なことであるのか。

 

新しく始まった2017年というこの年、神さまは私たちに何を期待されているでしょうか。みことばを読み、みなさんがこの年に是非実行したいというものがありますなら、またそれが分かりましたら、それを祈ってください。実行してください。そのためには、古い自分がキリストとともに十字架につけられ葬られたこと。今生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのだということ。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのだということ。そのことを口ずさみ、言い聞かせてください。

最近私が思わされていること。それは、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(Ⅰヨハネ1:9)

このように言われていますが、私たちは口で罪の赦しを請うことは簡単です。神さまは神さまだからそれを赦すのは当然であると平然と考えてはなりません。皆さん、赦す側に立ってみてください。なかなか心から赦せないものです。それは簡単なことではないことが分かるでしょう。ある人が自分に対して罪を犯し、それを赦してやったのに、また同じ事をしているのか、また同じ罪を犯している。そのような時、どんな思いがするでしょうか。
私たちはもう一度イエス様を十字架につけてしまうことは避けなければなりません。また同じ罪を犯しているのかと言われないようにしましょう。

この新たな一年、私たちは罪赦された者として歩んで行きましょう。

Jesus gave His all for us. Do we give our all for Him?

イエス様は私たちにご自分の全てを与えられました。私たちは私たちのすべてをイエス様のためにささげているでしょうか?
神さまはすべてをささげて私たちを愛してくださいました。では、私たちは私たちのすべてを神さまにささげているか。
そう問われることではないでしょうか。