日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年1月8日 主日礼拝「洗礼を受けるイエス」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書3章1〜17節

説教題

「洗礼を受けるイエス」

今週の聖句

天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 

訳してみましょう

1857 If you can’t find a way out, look up.
(もし、あなたが出口が見つけられないなら、上を見上げなさい。)

1858 Good intentions are no good until they are put into action.
(それらが実行されるまで、良い考えは良くありません。)

 

説教メモ

世の中にはたくさんの、様々な人々がいますが、私たちが100%心を許して相談できる相手がこの世にいるでしょうか。ほとんどいないのではないでしょうか。親や友人だったらある程度は自分の悩みを理解してくれるかもしれません。しかし本当の意味で自分の悩みや苦しみを理解してくれる相手はおそらくいないでしょう。お互いに考え方も違うし、生まれ育った背景も違いますから、それはどうしようもないことなのかもしれません。

地球上には70億以上の人間がいるので、様々な意見があって当然です。ただ、そこで自分の意見が他人と合わないからと言って争ってはいけません。それが国単位であったなら、戦争となります。みなそれぞれ違うことをわきまえていなければならないと思います。違いの中でどのように歩んで行くべきかを考えなければなりません。ディスカッションも大切です。その中でお互いの考えが分かる場合もあります。共通点、相違点を見つけて理解し合うならば、争いに発展することはないでしょう。

人間的に見ると100%心を許して相談できる相手などいません。けれども、私たちの主イエス様だけは格別の存在です。イエス様だけが私たちを100%ご存知で、完全に理解してくださいます。イエス様はご自分を低くしてこの世に来てくださいました。そのイエス様ともっともっと仲良くなりましょう。どんな悩み事でもこの方だったら聞いてくださる、答えてくださる。そうのようなお方です。これからも聖書を学び、教会の交わりに関わって頂きたいと思います。

 

1.バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネは預言者の風貌を持っていました。
当時の人はエリヤの生まれ変わりだと思ったようです。旧約聖書の最後のマラキ書から新約聖書の時代まで、約400年の「中間時代」というものがありました。その間、預言者はおらず、神のおことばが人々に語られることはありませんでした。ユダヤの人たちは預言者、メシヤのような人の登場を心から待ち望んでいました。そんな中、バプテスマのヨハネが登場しました。

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
(マタイ3:5〜6)

多くの人々がヨハネのところに来ました。

ヨハネが来たのは、人々を悔い改めさせるためでした。自分たちが神の選民であるとしても、だからこそ罪を悔い改めなければならないことを示しました。そして人々にバプテスマを施しました。

旧約聖書にはバプテスマということばは出てきませんが、「水の洗い」というものが出てきます。その水の洗い、バプテスマとイエス様のバプテスマとは、形は同じですが違います。
バプテスマのヨハネは人々に「天の御国が近づいたのだから、悔い改めなさい」と心備えをさせました。それがヨハネの役目でした。救い主の到来、その道を整える役割がありました。
400年間メシヤの到来を待ち望んでいた人々は、当然ヨハネがメシヤであると期待したようですが、ヨハネはそれを否定します。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
(マタイ3:11)

メシヤは聖霊と火のバプテスマを授ける方、徹底的に正しいさばきをなさる方であり、そのお方が来るのだとヨハネは言います。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
(マタイ3:8〜9)

私たちは、神さまに選ばれた選民であるということだけでは十分ではありません。きちんと悔い改めの実を結ばなければならないのです。これは非常に大切なことです。私たちは罪が示され、それを神さまに告白して赦しを請います。神さまはそれを聞いて赦してくださいます。それは感謝なことです。しかし神さまに赦されてそれで終わりではいけません。悔い改めの実を結ばなければなりません。それが大切です。どんな実を結ぶのか。それは人それぞれです。それぞれに神さまに示されるでしょう。ある人は私の所に来て罪の告白をし、そして悔い改めの実を結ばなければならないと思ったのでしょう。彼は長野で一番収容人数が大きな施設を借り切って、そこで伝道集会を開こうと言いました。それは一人の人の悔い改めの実としての規模ではないので、当然実現はできなかったのですが、彼にとってはそれが悔い改めの実を結ぼうという思いだったのです。そんなに大きなことではないかもしれません。大きなことでなくて良いのです。ただ、赦されたことの感謝を、悔い改めの実を神さまのもとに持って行くのです。

 

2.ヨハネとイエス

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
(マタイ3:13〜14)

イエス様はヨハネからバプテスマを受けようと来られました。しかしヨハネは戸惑います。ヨハネはユダヤの民に悔い改めのバプテスマを授けてはいましたが、まさか神の子が自分のところに来るとは思ってもなかったのでしょう。
二人は親同士が親戚でありました。そしてヨハネとイエス様は半年くらいしか年の差がありませんでした。幼い頃からお互い周知の仲だったでしょう。ヨハネはイエス様のことを父であるザカリヤや、母であるエリサベツから「イエスという子は、神の子、救い主である」と、色々と聞かされていたのではないでしょうか。ただ、子どもの頃のイエス様には、12歳の頃のエピソードが紹介されている程度で、それほど神の子としての特徴が表立って表れたことはなかったと思います。ごく普通の子どもとしてイエス様は育ちました。しかしその子イエス様には何かある、ということをヨハネは知っていました。そのイエス様がヨハネのもとに来たのです。

 

3.イエスのバプテスマ

イエス様は100%人間で100%神であられる方です。真の人でありましたが、ただ一つ、罪は犯されませんでした。悔い改めのバプテスマは必要ありませんでした。
ヨハネはそうさせまいとしましたが、

ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
(マタイ3:15)

正しいことは良いことです。正しいことは神さまが認めてくださることです。
しかし、罪を知らない方がなぜバプテスマを受けたのか。
イエス様が真の人として私たちのすべてを体験してくださることの中の一つの方法でした。「人々に見本を示したい」とはイエス様は仰いませんでしたが、そのような思いからだったのかもしれません。

イエス様がバプテスマを受けられるということは正しいこと、つまり神さまのみこころでした。
その理由はなんでしょうか。それは二つあります。

  • 「公生涯への転換点、出発点」
  • 「イエス様が私たちと同じ罪人の立場に立たれるため」

ヨハネはそのことを理解し、イエス様にバプテスマを授けました。

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイ3:16〜17)

旧約聖書において、預言者や王がその役職に任じられるにあたり、油注ぎがありました。ここではイエス様こそ神が任ぜられた救い主であることをこのようにして明らかにされています。天からの声は、イエス様が王として、メシヤ、苦難のしもべであることを表しています。また、この方こそ神の子であるということの証言でもあります。

イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たちと同じ罪人として私たちが味わっている苦しみを共にしてくださいました。
ヘブル人への手紙では私たちの大祭司であると紹介しています。その大祭司は私たちのすべてを理解してくださるお方です。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル4:15〜16)

私たちを最も良く理解してくださるのが、私たちの主イエス様です。

冒頭にも申しましたが、私たちとは全然違う考え方を持つ人たちが本当に多くいます。また、様々な境遇の人がおり、様々な基準を持っています。お互いに本当に理解し合うことは不可能です。そこで意見交換をし、同意できる点、できない点を見つけながらも自分も相手を理解し、相手にも自分を分かってもらう必要があります。
生活保護を受けている人もいます。端から見れば働けそうな人が働かずに生活保護を受けている。そのような人を見ると怪訝に思う人もいると思いますが、その人にはその人なりのどうしようもない事情や理由、苦悩や考えがあるのです。もちろん、そこに不正などがあってはならないのですが。

イエス様のバプテスマ。
「公生涯への転換点、出発点」
「イエス様が私たちと同じ罪人の立場に立たれるため」

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2:6〜8)

神は愛である。

なぜなら神は愛だからです。
(Ⅰヨハネ4:8)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

その神さまの愛は、イエス様を通して現実化しました。神さまは霊の存在でありますから私たちの目には見えません。その神さまが見える存在となって私たちの前に現れてくださいました。わずか30数年のその地上の生涯。多くのユダヤ人には受け入れられませんでした。しかしイエス様は全ての人類に対する神さまの愛の現れ、しるしとしてこの世に、目に見えるかたちとして来てくださいました。何一つ罪を犯されませんでしたがバプテスマまで受けられ、罪人の私たちのところまで降られ、私たち罪人と同じ立場をとられました。罪は別として、イエス様は完全に私たちと同じ人となられました。それだからこそ私たちの完全な身代わりとなることが可能となりました。イエス様は神さまの律法が人間に要求する義務を完全に果たされました。イエス様は仰いました。贖いとなることができたのです。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
(マタイ5:17)

律法学者が幅をきかせていた当時、律法は悪いことのように人々に思われていた時、イエス様は「いや、そうではないのだ」と、そのように仰ったのです。律法を守り切れないから人は義と認められない。その律法をないがしろにするためではなく、成就するために来たのだとイエス様は仰いました。
パウロも言います。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。《と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
(ローマ7:7)

車を運転される方はお分かりになるでしょう。速度制限がなければ、そこに速度違反はありません。速度制限の標識を見て、私たちは速度違反があることが分かります。しかし私たちはそれさえも完全に守ることはできないでしょう。制限速度を守って車を運転されている方はおられますか? このくらいなら大丈夫だろう、このくらいの速度オーバーなら警察によって速度違反に定められることはないだろうと思う方がほとんどではないでしょうか。
私たち人間は、昔も今も完全に守り切れないものなのです。そのような律法をイエス様は成就するために来たのだと仰いました。そのイエス様が、律法を完全に守り切れない私たち人間と同じくなられました。悔い改めの必要のないイエス様がバプテスマを受けられた。人々に見本を示してくださった。

イエス様の生涯の一つ一つの出来事を通して、十字架の死が意味を持つようになりました。イエス様はやがて十字架に歩まれました。そのことだけを切り離してはいけません。イエス様の公生涯はバプテスマを受けられたことから始まりました。罪を犯されませんでしたが、私たちと同じ人間として生涯を歩まれたイエス様が、やがて私たちの罪の刑罰を十字架で完全に引き受けてくださいました。その事実を認め、そのお方、主イエス様を自分の救い主であると受け入れる人は、罪の赦しある救い、そして永遠のいのちを頂くことができます。

今日のメッセージを言い換えるならば、私たちはイエス様にならう者となりましょう、ということです。
自分はこうだからという思いではなく、相手の立場に自分を置いて、相手を理解していくこと。それが大切です。相手がもし弱さを持っていたなら、その弱さ、その立場まで自分を降らせ、相手を理解しようとする。そうすれば相手に受け入れられるでしょう。子どもに言い聞かせる時、上から物を言っても子どもは理解せず、同じ目線で話すと理解すると良く言われます。そのように、罰を受ける必要のなかったイエス様が私たちと同じようになってくださり、罰を受けてくださった、そのイエス様がそうされたように、私たちは相手の立場まで自分を降らせ、同じレベルにまで自分を低くし、そして相手を理解していきましょう。上から目線ではなく、同じ目線で、同じレベルで相手に接していく。イエス様がそうされたのですから。そのことを心に留め、これからの歩みをして行って頂きたいと思います。