日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年10月8日 主日礼拝「レメクとセツ」

    

本日の聖書箇所

創世記4章17節〜5章32節

説教題

「レメクとセツ」

今週の聖句

人々は主の御名によって祈ることを始めた。

創世記4章26節

 

 

訳してみましょう。

1927 A woman can forget a man who broke her heart and left her shattered but she can never forget the man who gathered the broken pieces, healed her soul, and made her smile again.
(女性は、彼女の心を壊して打ちのめした男を忘れることができますが、壊れた小片を集め、魂を癒し、再び笑顔にした「その男」を決して忘れることはできません。)

 

 

説教メモ

本朝見てまいりたいことは、先週のカインとアベルのお話を思い起こしながら聞いていただきたいと思います。

神さまはアダムをご自身と似た者として創造されました。にもかかわらず、先週はカインがアベルを殺してしまったという悲しい事件を見てまいりました。人間は罪を犯した結果、他の被造物と違う神さまに似たものとして造られたという高貴な面と、醜い罪人であるという無残な面と、両面を持つことになりました。人間の歴史というものは、この二つの面がせめぎ合いです。一方に美しく優れた気高い面があり、もう一方には醜くよどみ、敵意と争いに満ちた面がある。そのような二種類の人がいるというのではなく、人は誰でもその両面を持ち合わせているということです。人間は言葉や文字を持ち、知恵に溢れ、愛情を培い、高度な文化を生み育ててきました。歴史における文化、科学、技術の進展にはめざましいものがあります。動物にも知恵や愛情はあります。学習能力は時には人間よりも優れていることもあります。さらにある種の動物には言葉があるとも言われています。しかしやはり、動物と人間との間には大きな違いがあります。人間は特別な存在として造られました。

一方、人の人格や道徳、宗教には進展があるのでしょうか。何一つ昔から変わることのない醜さがあります。それが文化の面にも浸透しています。科学技術は戦争に適用され、あるいは戦争によって科学技術が進展する。情報伝達における最新のテクノロジーは、活版印刷技術の発明から今日のインターネットに至るまで、まず聖書に適用され、と同時に、ポルノなど人の誤った性的欲望を満たすための用途にも使われました。

創世記はカインの殺人に続いて、そうした文化と宗教の変遷について私たちに情報を提供してくれています。

 

4章17節〜には、レメクの家系が記されています。

聖書は全部を記しているわけではありません。カインの妻が誰であるかは記されていません。カインには妻があったということのみです。また、聖書には書かれていませんが、アダムとエバには他にも子どもたちが生まれていったことも分かります。多分そのうちの一人、カインにとっては妹にあたる女と結婚しました。当時は兄姉の間の結婚もありました。彼女はみごもりエノクを生みました。カインはその時、町を建てていました。町というものは一人で作れるものではありません。少なくとも何人かの人々が必要です。エノクと町の名がつけられました。エノクは5章にも登場しますが別人です。18節からはエノクの家系が続いていきます。

エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
(創世記4:18〜19)

19節を見ると、レメクは二人の妻をめとったことが分かります。これは神さまの意図とは違います。神さまは創世記2章において一人の夫、一人の妻が一体となることを結婚に定められました。

20節からは様々な職業が登場します。

アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
(創世記4:20〜22)

 

かつて神さまはカインに対して仰いました。

主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
(創世記4:15)

しかしレメクはここで、神さまに報復をゆだねるではなく、自分の力で報復することを宣言しています。

さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
(創世記4:23〜24)

二人の妻をめとった重婚者であるレメクは、そこから様々な文化や技術が生みだされていきました。農業や牧畜、音楽など芸術を育み、トバル・カインは青銅や鉄を加工する技術者となりました。こうして建設、農耕、牧畜、芸術、音楽、科学、技術などさまざまな文化が発展していきました。

 

 

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。
(創世記4:25〜26)

アダムとエバからもう一人の子、セツが産まれました。セツの子であるエノシュの時代に、人々は主の御名によって祈ることを始めました。「主」とは「ヤハウェ」と表現されていました。まことの神さまの名です。誤った宗教心、存在しない偶像の神々などではなく、まことの神さまを正しい方法で礼拝する歴史もまた、途絶えることなく進められていきました。この信仰の流れはやがてイスラエル民族を産み出しました。救い主を迎えペンテコステの日に教会が誕生しました。それが受け継がれて今日に至るわけです。

 

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、
男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。
(創世記5:1〜2)

歴史とはヘブル語で「トーレドース」生ませしめたものの意となっています。
5章ではやがてノアが出てくるわけですが、これまでの流れとノアに至るまでの歴史を系図として文章化しています。

私たちは二つのことに関心を持つのではないでしょうか。ここに紹介されていないカインの家系を含め、これら人々の結婚の相手はどこから生じたのであろうか。系図がすべての家族をもれなく記録しているわけではありません。記録されていない者たちもいます。5章5節にはアダムが930年生きたことが記されています。セツは912年生きました。エノシュは905年です。皆長生きですね。私たちの今の感覚ではこれはどうなのだろうかと思います。私は、これは文字通りにとっています。

そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。
(創世記6:3)

120才まで生きられることは、これは特に最近、現実的な数字となってきています。

 

さてここで、「二通りの生き方がある」ことを見てみたいと思います。

カインやレメクのように、神さまから離れていく人たち。
セツに代表されるように、神さまを信頼して主の御名によって祈ることを始めた人たち。
違う二つの種類の人間がいるということではなく、私たちはこの二つの面を持っているということです。

聖歌451番「神なく、望みなく、さまよいし我も…」という歌い出しです。これはレメク的、カイン的な面の私たちの姿です。私たちは生まれながらにして神さまを知っている者ではありません。生まれながらにしては神さまを知らないのです。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
(ローマ5:8〜9)

神さまは永遠の愛をもって私たちを愛してくださいました。私たちがまだ罪人だという自覚がなかった時、ご自身の愛を私たちに示してくださいました。これほど深い愛はない、そう私は直感的に感じ、そしてイエス・キリストを主と信じました。
一方、クリスチャン家庭に生まれた子どもたちは少し違うかもしれません。生まれたときからみことばや賛美歌のある環境で育ちます。初めから神さまはおられるのだという前提があります。カインもセツもそうだったのではないでしょうか。カインも、セツも、いわゆるクリスチャンホームに生まれました。セツは両親の信仰を汲み取って生きていきました。クリスチャンホームに生まれたからといって、クリスチャンになるわけではありません。必ずしも素晴らしいクリスチャン人生を送るわけではありません。

「二通りの生き方」。神さまとともに生きるか、生きないか、です。

 

私たちは人々に証しをしていかなければなりません。神さまが私たちをどれほど愛してくださっているか。またすべての人を愛してくださっているかを証ししていかなければなりません。
私たちには「プライド」があります。プライドが信仰の妨げとなっています。なぜ私たちはプライドを捨てられないのでしょうか。プライドを捨てきる秘訣とは何でしょうか。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(Ⅱコリント5:17〜21)

「私たちはキリストの使節なのです。」とあります。大使です。大使の務めは何でしょうか。自国の考えを伝えることです。自分の考えを伝えることではありません。私たちはキリストの大使として、キリストのことばを人々に伝えなければなりません。そこに私たちのプライドは不要です。イエス様は私たちを通して、相手に何をお伝えになりたいのか。それを覚えていれば、私たちは正しい態度で証しをしていくことができるでしょう。

 

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

私たちはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではありません。

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(ローマ6:5〜7)

私たちは十字架で死んでいるのです。死んでしまったものは解放されているのです。罪、プライド、それらから解放されています。私たちは新しいいのちによみがえらされています。ですから自分の過去や今までの教養、プライド、社会的な名声など、それらをすべてかなぐり捨てて、キリストの使節、キリストの大使として、キリストが私たちに言わせようとされていることを相手に伝えていく。それが私たちの役割です。

こんな私が救われたのだから、あなたも救われる。永遠のいのちが与えられるのだと伝えなければなりません。

それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:2〜3)

永遠のいのちの定義があります。
「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」
人々に永遠のいのちを得ていただくために、私たちは神さまとイエス・キリストを証ししていかなければなりません。