日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年12月10日 主日礼拝「マリヤとヨセフへの御告げ」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書1章26〜38節、マタイの福音書1章18〜25節

説教題

「マリヤとヨセフへの御告げ」

今週の聖句

この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

マタイの福音書1章21節

 

 

訳してみましょう

1942 The closer you are to God, the farther you are from the devil.(Billy Graham)
(あなたが神に近づくほど、あなたは悪魔から離れています。)

 

 

説教メモ

先週は、メシヤの誕生が旧約で預言されていたことを学びました。イザヤの預言から約700年後に、神さまの約束が確かに果たされていたのだと言うこと。またそこにマリヤとヨセフの信仰と、彼らの従順があったことを見ていきます。

ここで私たちは、マリヤとヨセフの従順の深さを思い巡らす必要があると思います。二人は特別な人間ではありませんでした。しかし神さまに従うことに関しては、私たちよりもはるかに信仰深いものであったのではないかと思います。実際に神さまに言われたことに従うと言うことは、信仰に裏付けられた勇気が必要です。マリヤはもし最悪の場合「さらし者」になることが考えられました。ヨセフにとってはそれは辛いことでした。ですからマリヤをさらし者にしたくないという思いがありました。まさに神さまに従うと言うことは、自分を捨てて従うのだという、それくらいの覚悟が必要です。マリヤに与えられた称号は、そうした従順によるものであろうかと思います。マリヤの姿勢は、全能の神さまに従順に従う、その一つの良い例であります。ヨセフもまたそうです。

 

今週の聖句です。

この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
(マタイ1:21)

イエス様は、民を罪の支配と力からお救いくださるお方であります。これは福音の根本的な真理ですが、十字架において成し遂げられた神さまのわざです。イエスご自身のみならず、弟子たちもその真理を証ししていくことが聖書に書かれています(Ⅰペテロ3:18、ⅠヨハネⅢ:15、Ⅰコリント3:15)。イエス様の罪の贖いによって、私たちは恐れることなく神さまに近づくことが出来るのです。

 

 

1.マリヤへの御告げ

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
(ルカ1:26〜27)

親類エリサベツが子を宿してから6ヶ月後。夫のザカリヤの前に現れた御使いガブリエルがマリヤの前に登場しました。

「ガブリエル」とは「神の人」あるいは「神はご自身を強い者として示された」という意味があります。聖書の中ではダニエル書などに出てきます。そしてザカリヤのところにもこのガブリエルが現れました。ガブリエルはマリヤが男の子を産む。その名をイエスと名付けなさいと神さまのメッセージを伝えました。

このイエスが、父ダビデの王位を与えられる存在であること。その王国はとこしえに終わることがないという言い方がされていますが(32〜33節)、これは地上的な王国の王位ではなく、イエスは優れた者、いと高き方の子、聖なる者、神の子と紹介されています。旧約の時代に預言された「メシヤ」であることが示されています。

その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
(ルカ1:32〜33)

これはただ単にイスラエル王国のことだけを言っているのではありません。歴史を見ると、ユダヤの国家はAD70年から1948年までユダヤの国はこの地上から無くなっていました。ですからここでいう「永遠に続くダビデの王位」とは、地上でのイスラエル国家のことではなく、神の権威が及ぶ永遠の国のことを言っていること、イエス様はそのような方であることを言っています。

聖書を読んで行くとお分かりの通り、アブラハム、イサク、ヤコブと続きます。ヤコブには12人の男の子がいました。その中で後を継いだのはユダでした。そのユダの子孫からダビデの子孫が産まれ、そしてイエス様が誕生しました。

これらの理解を超えたことが、未婚の自分にどのように起こるのか疑問を示すマリヤに、御使いガブリエルはこう答えています。注目すべきは、これは神さまの恵みによるものだということです。

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
(ルカ1:30)

神さまの恵みによることが言われています。

ガブリエルはマリヤに「幸いな者よ」「おめでろう」「めぐまれた方」「主があなたとともにおられる」と言っていますが、マリヤは29節において、ひどく戸惑っています。胸騒ぎがした、そのように訳す翻訳もあります。すると御使いは

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
(ルカ1:30〜31)

これは神さまの恵みによる出来事。イエス様の誕生も聖霊の力によってなされることです。神さまにとって不可能なことは何一つありません(37節)。

マリヤは10代の前半だったのではないかと思います。その年の若さからして、マリヤの信仰とはいかほどかと思わされるのです。ごくありふれたユダヤの社会の少女であったと思いますが、普通はなかなか信じられないでしょう。マリヤもそうでした。それが普通でした。マリヤにはそれが自分であって欲しくないという思いもあったのかもしれません。当時の女子にとって、もしかしたら自分が救い主の母になるのではないかといった期待が全くなかったわけではありませんでした。やがて救い主が生まれるのだというニュースがありましたから。しかしまさか自分がその役割を果たすとはマリヤ自身も考えてはいなかったでしょう。

 

 

2.ヨセフへの御告げ

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1:18〜23)

マリヤは神さまの力によって身重になったことがわかりました。
ヨセフはどのようにしてその事態を知ったのでしょうか。明らかには聖書は語っていませんが、そのような状況になったマリヤを、ヨセフはどうするのか。当時のユダヤの法律によれば、一年間の婚約期間があり、その期間は一緒に生活ことは法律で許されていませんでした。つまり夫婦の交わりは禁じられていました。その間に自分の妻となる人が妊娠したら・・・。当時のユダヤには二つの選択がありました。一つは姦淫の罪を犯したと同じように見なされ石打ちの刑によって殺すこと。もう一つは婚約期間ではあっても法律的には結婚と同じことでありましたから、離縁状を渡して離婚すること。ヨセフは第二の選択として、密かに離縁状を渡して去らせようとしました。ところが、神さまはご自分の計画をお進めになるにあたり、ヨセフに「第三の選択」をさせようとなさいました。主の御使いがヨセフの夢に現れて、二つのことを知らせました。

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
(マタイ1:20〜21)

つまり、マリヤの妊娠は聖霊の力による軌跡であること。またマリヤに明らかにされたように、生まれてくる子の名をイエスとすること。そしてその子はご自分の民をその罪から救う締めを担うということ。だから恐れずに信仰をもって受け入れなさい、というものでした。

 

マタイはイザヤ書7章14節の「インマヌエル預言」を引用し、これらが旧約時代の預言の成就であることを確認しています。

「イエス」とは個人的な名前ですが、「キリスト」とはイエス様の称号で、ヘブル語では「メシヤ(油そそがれた者)」で、そのギリシャ語訳が「キリスト」です。

 

マリヤとヨセフはごく普通の若者であったと思います。ただ、神さまに関して、御使いガブリエルの言うことに対しては非常に従順でありました。この辺りが私たちと違うところではないでしょうか。私たちは色々と理由を付けてなかなか従おうとしません。しかしマリヤとヨセフは神さまに言われたことであれば、たとえこの世から罵声を浴びせられようとも、神さまの言われることに間違いはないのだ、従おうという決心をしました。私たちはここに学ぶ必要があります。神さまは私たちの中で働いてくださり、すべてのことを益としてくださるお方です。私たちはそのことを聖書の裏付けによって知っています。しかしこうしなければならないと分かっていても、出来ないことがあります。私たちが良く試されるのは十戒の安息日規定についてです。神さまは安息日を守るように「命令」をしています。神さまが言われることだから絶対的なものであり、他と比べて優先順位があるといったことではありません。地域社会の関わりや様々な事情によって優先順位があるものとし、時には礼拝ではないそちらを優先してしまうことがあります。私たちの信仰はその程度のものにとどまっています。神さまが言われることだから、多少他の人から非難を受けたとしても安息日を守る命令に従のだという心の思いが強く働かなければ安息日を守ることはできません。

 

 

3.それぞれの応答

そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
(ルカ1:34〜38)

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
(マタイ1:24〜25)

マリヤがことの重大さをどこまで理解したのかはわかりません。しかし彼女は約束を信じ受け入れ、神さまへの従順を示しています。それは社会から排除されることを覚悟し、本当に自分を神さまに明け渡す素直さでした。
同じようにヨセフもそうでした。どんな人でも処女が身ごもることなど超自然的にその心理が明らかにされない限り信じられないことです。「第三の選択」も神さまの超自然的な介入によって可能となりました。ヨセフもまた神さまのことばに支えられ、勇気をもって、命がけでの神さまへの従順を示しています。そんな女をめとったヨセフもまた人々に非難されることになったでしょう。そんなことよりも神さまの言われることだったら、という思いが彼を支配したのだと思います。

神さまはご自分に従う者を祝福されます。しかしそれには、たとえ自分の評判を落としたり大切なものを失ったりすることがあっても、神さまを神さまとして御心がなされるようにと従っていく勇気が必要です。

 

イエス様の処女降誕については、これは神さまの力によってなされたことであり、信じるべきことであることを私たちに教えています。イエス様は神の子として、人の子としてこの世に現れてくださいました。そのことを見てまいりました。

 

神さまは人をお用いになります。神さまは人を救うための壮大な計画を、歴史の最初からお立てになり歴史の中でそれを予告し、また実際に必要な準備を進めて行かれたのです。アダムとエバが罪を犯した時、原福音と呼ばれるものが語られました。

わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(イエス・キリスト)との間に、敵意を置く。彼(イエス・キリスト)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえ(サタン)は、彼(イエス・キリスト)のかかとにかみつく。
(創世記3:15)

それから段々と、私たちはその一端としてイザヤとミカの預言を見ました。

もちろん神さまは人間の力を借りなくても御心を成し遂げることができます。マリヤとヨセフを用いずとも、神さまは何らかの方法で救い主をこの世に誕生させることもできたでしょう。しかし、神さまの言われることに素直に従う人々が用いられてきました。信仰の人が神さまの協力者として用いられてきました。預言をする、あるいは救い主の系図の中で重要な役割を果たすなどしました。しかしこの時、自分が神さまに用いられていようとは全く意識していない場合があります。異教徒の王が用いられたことも旧約聖書の中で語られています。イエス様が生まれたときは住民登録をするようにとの勅令が出ました。勅令を出した人(ローマ皇帝)もまた知らずに神さまに用いられていました。本人は知らずに救い主誕生に関わることになりました。イエス様がお生まれになった時、マリヤとヨセフが泊まれる宿がありませんでした。それでイエス様は家畜小屋で生まれました。マリヤは飼い葉桶の中に幼子を寝かせました。あの宿屋の主人もそのようにして救い主誕生に関わるとは思いもしなかったでしょう。しかしそういう人間を、その人の信仰があるなしに関わらず用いられました。今日用いられたマリヤとヨセフはユダヤ人ではありましたが、神さまを信じ従うことが出来た人、神さまが言われることなら社会的にはたとえ不都合なことがこの身にあったとしても、神さまの言われることだからこの身になりますようにとマリヤとヨセフは受け止めました。これは彼らの信仰の素晴らしい面であったと思います。

いよいよ神の時が満ち、救い主がいよいよこの世に来られるとき、マリヤとヨセフという若くて無名な人物、しかし信仰深い二人を神さまは特別に選ばれました。二人はそうした役割を託されるにふさわしい信仰を持っていました。しかしそれに従うことには多くの困難をも背負うことになりました。人々の嘲笑、差別、迫害、それらを覚悟し受け入れいました。それ以上に、単に精神的なものだけでなく、マリヤとヨセフとの間もぎくしゃくしてしまうのではないか。マリヤへの社会的、法律的制裁が科せられる可能性もありました。

御使いはそのような彼らに神さまの言われることを伝えました。そしてマリヤは御使いの告知を受けて神さまのご計画に従う決意をしました。その後、親類のエリサベツのところに行き数ヶ月身を寄せている間に、彼女は段々と神さまの言われたことが確かさをもって自分に迫ってきていることを感じたのだと思います。不安もあり、葛藤もあったことでしょう。ヨセフは御使いからの告知を受けて彼もすべてを受け入れました。二人それぞれに対する御使いのお告げに、ふさわしい応答をしました。

私たちの神さまに対する応答はどうでしょうか。神さまの召しに応えることは祝福の元であり、同時に大きな責任が伴うものでもあります。全能の神さまがあえて信仰者である一人ひとり人に声を掛け、パートナーとしてくださり、共同でことを行ってくださいます。ですから喜びとへりくだりと厳粛な思いをもって信仰により大胆に神さまの召しに応えていくことが大切なのではないかと思います。

自分にはとても無理だと思うことを誰かに頼まれた時、どのような反応を示すでしょうか。活躍したい、協力したい、人の役に立ちたちという思いがあったとして、その責任があまりにも大きく大変すぎると感じた時、心配になります。マリヤとヨセフはまだ若かった。けれども全人類の救いにかかわる重大な務めを彼らは果たしていくことになりました。私たちもそのような立場にあるならば、これは神さまのわざ、神さまの言われることだからという最大限の信仰が私たちのうちにもあると思います。神さまの言われることだから。そのことを受け止めていくならば

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ8:28)

御心にかなう人には神さまはすべてを益として働いてくださいます。神さまの言われていることだから大丈夫。多少辱めを受けようとも、困難があろうとも大丈夫。そのように長い目で見て頂きたいと思います。滅び行くあまたの中で神さまが私たちを選んでくださった。救ってくださった。神さまの選びがあって今の私たちがあります。神さまが一人ひとりを選んでくださった。ですからこれは感謝なことです。そしてその神さまのために自分は何ができるのだろうか。この世的に考えて色々と不便なことがある。色々なことがあるけれども神さまのなさることだから素晴らしいことなのだという信仰をもって受け止めて歩んで行くことが大切ではないかと思います。