日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年2月5日 主日礼拝「人間をとる漁師」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書5章1〜11節

説教題

「人間をとる漁師」

今週の聖句

わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。

マルコの福音書1章17節

 

ルカの福音書5章1〜11節

5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 

訳してましょう

1865 Obedience to God flows freely from a heart of love.
(神への服従は、愛の心から自由に流れ出ます。)

1866 God broke into human history to offer us the gift of salvation.
(神は、我々に賜物である救いを提供するために、人間の歴史に介入した。)

 

 

説教メモ

1.ウイリアム・ケアリー

彼はインドに初めて行った宣教師です。また、近世海外伝道の父として知られています。
1761年、イギリスで熱心な英国国教会の熱心な信徒である両親のもとに生まれました。生活が貧しく、学校に行くこともできませんでした。しかし彼は勉強や読書が好きでした。彼は14歳の時に生活のために靴職人となりました。そこで昼は靴職人の見習い、夜は勉学に励みラテン語、ギリシャ語やヘブル語などの語学を独学で習得しました。仕事にも熱心だった彼は模範職人となり、主人に気に入られその娘と結婚しました。21歳の時、友人に連れられて行かれたバプテスト教会にて自分の罪を認め、救いにあずかりました。聖書も熱心に学び、やがて神さまからの召命をいただきました。それは宣教師となることでした。まだキリストが伝えられていない地域で出て行きたいという思いでした。
家族を伴いインドへ宣教に出て行きます。彼はインド人の原語であるベンガル語による聖書翻訳をしました。その他にも学校を建てたり、印刷機を備えて次々と伝道文書を発行しました。その伝道生涯において、35種類のインド地方の言語で聖書を発行し、数種類の言語文法も発効しました。彼は収入のほとんどを主に献げ、自分は慎ましい生活をしていました。その働きの結果、実に3億の人々が聖書を読めるようになりました。
彼は73歳で天に召されました。彼は人々がキリストの救いにあずかるようにというただ一つの願いを貫きました。靴を作り、印刷屋ともなり、教師ともなり、どんな苦しいことも貧しいことも喜びをもって耐え抜き、そればかりか神のために大胆に大いなる計画を実行し続けました。

 

2.おことばどおりに

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」」と言った。
(マタイ5:8)

それに対してイエス様は、

イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
(マタイ5:10)

そう約束されました。

後にイエス様は「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白するペテロに対し、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と仰いました。そしてこの約束はペンテコステの時に現実となりました。その時、ペテロの勧めによって救われた人は3千人にもおよんだと聖書に記されています。本格的に福音宣教の時代がスタートしていきました。

すべてを捨ててイエス様に従うとは、イエス様にそれだけの価値があるということです。例えば私たちの生涯においての結婚、時間、仕事、お金など、すべてにおいて自分の思いを捨て、神さまのみこころを優先させて従って行くならば、多くの霊的収穫が期待できる主の弟子としての人生を歩むことになります。

「捨てることのない信仰生活はあり得ない」とある人が語っています。私たちは余分なもの、必要のないものは捨てていかなければなりません。主に従うとはそういうことです。

彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
(ルカ5:11)

これがキリストに従う者の心構えでしょう。

さて、「人間をとる漁師」とは、人を救いへと導く働き人のことを指します。具体的に言いますと牧師や宣教師、伝道師などのフルタイムでキリストに仕えていく人のことですが、しかしそればかりではありません。それ以外の普通のクリスチャン一人ひとりも人々をキリストに導くお手伝いをしなければなりません。

いのちのことばが与えられている、そしてそのいのちのことばを他の人に分かち合うことは当然のことであり、また大切なことです。自分が置かれた場所において、人々を救いに導くことができるようにイエスに従い、主の訓練を受ける必要があります。ここでイエス様は「人間をとる漁師にする」とおっしゃいました。単数形で「あなた」と言っていますが、これはなにもペテロ一人を指しているのではなく、すべてのクリスチャンに向けて発せられたおことばではないでしょうか。

 

3.イエスを主と告白する

1〜3節までのところはイエスとペテロとの会話でした。この箇所はルカだけが記しているエピソードです。マタイ4章やマルコ1章にも同様な記事がありますが、比べてみると同じではありません。マタイとルカの記事では、

イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
(マタイ4:18)

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
(マルコ1:16)

このように記されています。しかしルカの記事では「夜通し漁をしたのに収穫がなく、網を洗っていたその時」と記されています。時間的にはマルコ、マタイの方がルカよりも先に記したものとなるのですが、イエス様はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを招いて共にカペナウムとガリラヤで伝道しました。しかし彼らは自分たちの仕事も続けていたようです。イエス様は再び彼らのところに来て今度はフルタイムの働きへと招かれました。

この時から彼らは、何もかも捨てて、フルタイムでイエス様に従う覚悟をしました。

ゲネサレ湖はガリラヤ湖の別名です。北からフレー湖、ガリラヤ湖、そしてヨルダン川を流れ死海へと注がれます。ガリラヤ湖はまたテベリヤ湖とも呼ばれています。イエス様はペテロの持ち舟に乗って群衆を教え始めました。

イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
(ルカ5:3)

すわって教えることは当時の習慣でした。会堂でも話しをする時は座っていました。しかしみことばを読む時は皆で立ちました。

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
(ルカ5:4〜7)

イエス様はペテロに、網を降ろして魚を捕るように命じられます。ガリラヤ湖には今も昔も魚が豊かです。水深が215メートルもあるそうです。夜間には湖底から20種類以上の鉱泉が間欠泉のように湧き出ていました。それが魚が豊富な条件となったようです。漁師はその鉱泉の湧き出るところを目印に漁をします。彼らもそうだったのでしょう。しかし獲れませんでした。夜は東の方で漁をし、昼は西の方に魚が移動するのでそれに合わせて漁師たちも西の方へと移動します。ペテロたちは長年の経験から東の方で夜通し漁をしていたのに獲れませんでした。そして西の方に移動しました。イエスの提案は漁師としての経験から見て無駄なことのように思えました。しかしペテロ始め漁の専門家たちはイエスの「おことばどおり」網を降ろしました。ここにペテロのイエス様に対する信頼がありました。その時、ペテロは自分が召し出された時のことを思い起こしたのではないでしょうか。イエス様はペテロに最初に会った時、すでにペテロのすべてをご存知でした。それからしばらく時間が経っていても、その場面が鮮明に頭に残っていました。この方は何か違う普通のお方ではないのだという思いが残っていました。そしてイエス様のおことばに従いました。すると網は魚で一杯になったのです。そこでペテロは言いました。

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
(ルカ5:8)

ペテロは、自分のことをすべて言い当てた方のおことばに従い網を降ろしましたましたが、恐らく半信半疑だったのでしょう。 網を上げてみてペテロは驚きました。イエス様の自然界に対する権威と力を目の当たりにしたからです。このお方はどのような方なのか。そして自分とは何ものか。ペテロの霊の眼が開かれ、そして言うのです。「私は罪深い人間です」。

今、万軍の主である方をその目で見ました。イザヤも同じ体験をしています。

そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
(イザヤ6:5)

このイザヤの告白に近いものをペテロは感じたのです。そんなペテロに対してイエス様は仰いました。

イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
(ルカ5:10)

ペテロに対する神の恵みを示すおことばです。

イエス様は神の子、天地万物を創造されたお方です。イエス様は魚群探知機以上の方です。どこになにがどのくらいいるのかを全てご存知です。それだからペテロに網を降ろすように命じることができました。私たちとは全く次元の違うお方です。神の子であられるイエス様の姿を、ペテロは以前よりも身近に感じるようになりました。このお方なら完全に従っていける。そういう思いがここで与えられました。

神さまの召しというものを少し考えてみましょう。
その人がそれまでどのような生き方をしてきたか。それは関係のないこととされます。永遠のご計画の中で、恵みをもって召してくださる神さまの御姿を私たちは見ます。ペテロたちは舟を陸にあげると何もかも捨ててイエス様に従いました。すべてをイエス様にささげるための歩みへと導かれました。彼らは漁師でした。漁師にとって舟と網とは命綱です。生活の保証です。それをすべて捨てるとは、それ以上のものがイエス様の内にあるのだということを確信したからです。自分の職業も、家族も、社会的な地位や名誉も捨ててこの方に従って行くということは、非常に勇気のいることです。ペテロは「この方なら信頼に価する」という思いを学びました。だから出来たのです。ペテロだけではなく、アンデレもヤコブもヨハネも同じです。

漁師でもないイエス様のおことばに従った時、驚くべきことが起こりました。このイエス様に従えば、この世的にもっと良いことが起こるかも知れない。そのような思いもあったと思います。実際にそれからおよそ3年間、イエス様に従って伝道旅行をするわけですが、毎日食べ物がどこからくるのか分からない旅でした。皆さんにはできますか。何もかも捨てて、その足でイエス様に従って行く。ペテロたちは生活のあてなど考えもしませんでした。ただイエス様に対する信頼だけでした。

皆さんはどうでしょうか。何もかも捨てて主に従おうと思いますか。その信仰がおありでしょうか。

主にお仕えする方法は人それぞれです。大切なことは、「すべての思いを捨てて主に従う」ということです。魂を収穫する働きに、私たちは一人ひとり召されています。全員が牧師や宣教師になってしまっても困りものです。牧師や宣教師を支える人々が必要だからです。仕事をし、家庭を持って生活していく中で主に献身していく。自分自身を主にささげていく。「すべてをささげて神さまに従って行く」という思いが必要です。そうだからといって、自分に与えられた仕事、家庭をおろそかにしてはいけません。そのことは聖書の中で一つの失敗例があります。テサロニケの人々はイエス様の再臨が近いということで、毎日の仕事が手につかなくなりました。それではいけない、その手で働きなさい。毎日普通の生活をしっかりしなさい。その中で主の再臨があるのだと教えています。私たちも同様です。与えられている仕事に励み、毎日を正しくしっかりと生活し、その中で主の再臨を待つのです。イエス様の救い主である御姿をしっかり捕らえ、目を離さずに、確信をもって、全き信頼しをもって従って行く。それが私たちの証しではないでしょうか。そういう中で日曜日には教会に集い、教会をもり立てていく。そして牧師や宣教師を支えていく。教会として発展していく。それが今の私たちクリスチャンに課せられた「献身」の姿ではないでしょうか。

皆さんの中に、すべてを献げて神さまに従って行こうという思いがおありでしたら、それに突き進んでください。昔、「炎のランナー」という実話を元にした映画がありました。主人公のエリックは祖国からの金メダルの期待を一身に背負っていたのですが、そのレースが日曜日だったと言うことで期待されていたレースに出場しませんでした。祖国の国中から非難があったことでしょう。しかし彼はクリスチャンだからということで、日曜日のレースには出場せずに礼拝をささげました。いったい彼の何がそうさせたのでしょうか。彼はある意味で「全き献身」をしたのです。主の日の礼拝を是が非でも守る。ここに彼の献身の姿が見られます。理想的な話しのように聞こえますが、過去に実際にそのような人生を歩んだ人がいたということです。最初にお話ししたウイリアム・ケアリーも同様です。彼もまた全身全霊を主のためにささげました。

皆さんの中からどのような方が出てくるのか期待しております。今は与えられていることを一生懸命してください。クリスチャンとして証しを立てていってください。その中で変化があると思います。