日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年3月12日 主日礼拝「最後の晩餐」

    

本日の聖書箇所

マタイ福音書26章17〜29節

説教題

「最後の晩餐」

今週の聖句

すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

 

訳してみましょう

1875 Spiritual gifts are meant to be used, not admired.
(霊的な贈り物は使われることが意図とされて、賞賛ではない。)

1876 All life is created by God and bears His autograph.
(すべてのいのちは神によって創造され、神のサインがともなう。)

 

 

説教メモ

1.あれから6年

東日本大震災が6年前の3月11日、金曜日でしたか、起こりました。長野も震度4を記録しました。みなさんはどこにいらっしゃったでしょうか。
あれから6年ということは、6年前に生まれた子が今年は小学生になります。小学1年生だった子は今年、中学生になります。早いものです。
死者は2万人を超し、未だに行方不明の方もおられます。津波の際に起こる引き波は、波が押し寄せてくる力の2倍ほどになるそうです。テレビでは50代の男性が映し出されていました。彼の奥様とお子さんが今もなお行方不明なのだそうです。それでその男性は潜水士の資格を取得し、時間があると奥様の手がかりを海中で探しているとのことです。ご家族の手がかりを求めてあちこち探し続けている方々が多くいます。現地ではコンサートなども催されていました。その中にカナダの4人の方がおられ、その方たちは現地で被災し、カナダに帰らずに6年間ずっと住み続け、ボランティアなどをしているそうです。さらに世界、全国から本当に多くの方々が現地に駆けつけボランティアしてきました。また、私たちのように物資等での支援も多く続けられています。続けられていることは感謝なことです。教会の伝道活動も盛んに行われており、震災の故に信仰をお持ちになった方も大勢おられると聞いています。そんな苦しみ、悲しみの中でこそ、私は一人でも多くの方々が救われて欲しいと祈っています。

また、ちょうど一週間前には、長野県の防災ヘリコプターの乗員9人が亡くなられた。そんな痛ましい事故がありました。

自然災害、事故。私たちもいつこの世から取り去られてしまうか分かりません。明日生きている保証など誰も持っていません。すべての人はそのことをわきまえて、「今が救いの時」。今という時を大切にして、福音に耳を傾け、そして救われることを求めて欲しいと思っています。また、そういう人たちに私たちは福音を届けなければなりません。福音を届けるツールとして、先ほど「ふるさと」という日本人の心のよりどころとも言える唱歌を皆さんと歌いました。この歌は先日この教会で行われた葬儀の中でも歌われました。

なぜ、様々な場面で「ふるさと」という歌が愛唱され続けているのでしょうか。

作詞者は長野県豊田村出身の高野辰之さん。作曲者は島根か鳥取出身の岡野貞一さん。ふたりはとても仲が良く、このコンビでいくつもの歌を作りました。その中の一曲が「ふるさと」です。

さらに大切なことは、この二人は敬虔なクリスチャンでした。そのことを踏まえて歌詞を見ると、何かを感じませんでしょうか。多くの日本人は、自分の故郷を思って涙する詞です。でもクリスチャンなのだということを念頭に置いて改めて歌詞を見ると、また違ったものが見えてきます。特に3番です。

「志をはたして いつの日にか帰らん」

高野辰之さんは、生涯を通じて敬虔なクリスチャンだったと伝えられています。そのクリスチャンであった彼が作詞したのだと思ってこの歌詞「いつの日にか帰らん」を見る時、帰るべき「ふるさと」とはどこなのでしょうか。彼が思っていた「ふるさと」はどこだったのでしょうか。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
(ヘブル11:13〜16)

このヘブル書の記者も、この故郷はアブラハムが出てきた「カルデヤのウル」ではなく、これから帰って行く別の故郷があるのだ。天のまことに私たちクリスチャンが帰るべき天の故郷があるのだということを記しています。
おそらく高野さんは天の故郷を思い描いて作詞したのではないでしょうか。私はこの歌を改めて見直しました。素晴らしい歌だと思いました。この歌を悪く言う人はいないでしょう。ぜひこの「ふるさと」を携えて、人々に福音を語ってください。証ししてください。恐らく誰も「いつの日にか帰る天の故郷」のことは分からないと思います。ですから皆さんは、人々とともに歌いながら、この歌をもって伝道してください。高野さんが思い描いていた天の故郷を、そして私たちのまことの帰るべき故郷が天にあるのだということを証しして欲しいと思います。

全ての人は死に対して備えが必要です。神さまはすべての人が悔い改めに至ることを望んでおられます。神さまはすべての人が救われることを願っておられます。それならば、先に救われた私たちはそのお手伝いをしなければなりません。私たちの周りにいるまだ神さまを知らない多くの魂に、私たちは救いを告げていかなければなりません。しかし、聖書の話をしても誰も聞きません。信じません。よほど備えられた魂でなければ私たちの言うことに耳を傾けはしないでしょう。しかしこの歌はみんな一緒に歌います。歌えます。この歌を一緒に歌って、そして福音を証しし、伝道してください。
そんなことを思って、今日はこの「ふるさと」を取り上げました。

 

 

2.過ぎ越しの食事

さて、最後の晩餐の場面です。イエス様がこの地上で食した最後の食事です。
過越の祭りが近づいていました。この祭りはユダヤ人にとって最も大切な祭りです。今でもユダヤ人の中ではそうです。
私たちの主は、十字架においてご自身をささげてくださったその直前に、この最後の晩餐に臨まれました。3年間、弟子たちと一緒に伝道活動をしており、毎年過越の祭りには食事をされていたのでしょう。ですから弟子たちとイエス様が過ぎ越しの食事をされたのはこれで3回目であろうと知ることができます。弟子たちが言いました。

さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
(マタイ26:17)

名前は「これこれの人」と伏せられていますが、その人とイエス様とで、すでに打ち合わせは済んでいたのでしょう。

イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」
そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
(マタイ26:18〜19)

「わたしの時が近づいた」とイエス様は仰いました。

これまで多くの奇跡をなさいましたが、異邦人の地では別ですが、ユダヤ人の間では奇跡をなさっても「誰にも言わないように」と人々を戒めていました。イエス様はまだご自分の時が来ていないことをわきまえておられていたからです。しかしこの時、その時「わたしの時」、すなわち十字架に向かわれる時が来たことをイエス様は悟られました。そして過ぎ越しの食事の用意を命じられました。

さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
(マタイ26:20〜21)

12人の弟子たちが主を囲んでいました。その中の一人が裏切るというのです。
すると弟子たちは非常に悲しみました。かわるがわる「私ではないでしょう」と言いました。そしてイエス様は仰いました。

「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23)

これはユダのことです。イエス様は「ユダ、お前が」と仰いませんでした。そしてユダが答えます。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
(マタイ26:25)

この時点で、ユダはもう祭司長たちと結託してイエス様を裏切ることを決めており、準備も出来ていました。それなのにこのようなことを言ったのです。周りの弟子たちは何のことだかさっぱり分かりませんでした。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
(26:26)

ここでイエス様は聖餐式を定められました。

弟子たちは3年間、主と共に伝道活動をしてきました。それなのに主は、数々の奇跡を目の当たりにしてきた弟子たちにむかって「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と仰ったのです。そしてユダに言いました。「いや、そうだ。」ユダはその場から退散しました。

ユダはイエス様を裏切りました。しかし、イエス様を裏切ったのはユダだけではありません。あのペテロもイエス様が捕らえられた時、「私はあの人を知らない」と三度否定しました。ペテロもまたイエス様を裏切ったのです。他の弟子たちもイエス様を裏切って逃げてしまいました。皆が皆、イエス様を裏切りました。

聖書を読んで行くと、もちろんイエス様は神さまですから、それぞれのユダがどのような者で、後にどのようなことをするのかすべてご存知だったことが分かります。しかしイエス様は、この時ユダに立ち直って欲しい、自分の悪巧みに気付いて欲しい、悔い改めて欲しいと願われたのではないでしょうか。しかしユダは変わりませんでした。ついに悔い改めませんでした。十字架は神さまのご計画であったのだから、そこでユダの裏切りというものがあったこともその余地の中にありました。しかしユダが実際に裏切ったのは、彼自身の心の罪でした。
聖書学者は冷ややかに言います。裏切る者が必要だったのだ、と。しかしイエス様はこのユダにも立ち直る機会、悔い改めの機会を十分にお与えになったのです。残念なことにユダは悔い改めることはしませんでした。

過越の祭りの後に7日間、種なしパンの祭りが行われます。過越の祭りは1日だけの祭りですが、種なしパンの祭りは7日間の祭りです。新約時代には、8日間をまとめて「種なしパンの祝い」と呼ぶようになりました。ユダヤのカレンダーでは1月を「ニサンの月」と呼びます。そのニサンの月の14日の午後、小羊をほふって過ぎ越しの祭りをします。新しい一日、つまり15日が始まる日没に過ぎ越しの食事をするはずでした。共観福音書とヨハネの福音書には少しずれがあります。細かなことは今日は取り上げませんが、イエス様がエルサレムに入られたのはニサンの月、9日に入ってそして最後15日に「最後の晩餐」の時が持たれました。

イエス様は最後の晩餐において、パンを裂き、ぶどう酒の杯をとって弟子たちにお与えになりました。聖餐式を定めてくださいました。私たちは新しい契約に生きる新約の教会において、イエス様が定めてくださった礼典の一つとして聖餐式を守っています。

イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
(マタイ26:26〜28)

ここでイエス様はもう一つ、「再臨の希望」を語っています。

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
(マタイ26:29)

イエス様は聖餐式を定めてくださり、そして再臨の約束をしてくださいました。私たちは聖餐式の時、自分の罪の赦し、イエス様がどんな思いで私たちの罪のために十字架で血潮を流されたのか、それを繰り返し繰り返し確認する。さらに聖餐式は同時に、主の再臨の望みに生きる私たちに終末を指し示します。主が来られる日まで、主の死の意味を全世界に告げ知らせるのです。

 

イエス様は今日も招いておられます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)

イエス様は優しく語ってくださっています。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11:29〜30)

この招きのおことばに感謝して、先に救われている私たちは、このおことばをもって先ほど見ました「ふるさと」の歌をもっても伝道に出て行きたいものです。

私たちは世の人々に、福音を携えて出て行かなければなりません。

 

 

この後、3月の誕生会、あわせて、卒業・就職のため出て行かれる上野兄。そして献身された林兄の送別会をします。
お二人の今後の歩みの祝福をお祈りします。