日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年4月16日 イースター礼拝「主の復活の朝」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章1〜12節

説教題

「主の復活の朝」

今週の聖句

ここにはおられません。よみがえられたのです。

ルカの福音書24章6a節

 

訳してみましょう。

1855 Playing with sin is toying with judgment.
(罪を犯して遊ぶことは、審判を弄(もてあそ)ぶことです。)

1866 A word from our mouth speaks volumes about our heart.
(私たちの口から出る一つの言葉は、私たちの心を大いに物語ります。)

 

 

説教メモ

1.埋葬の続き

世の多くの人は死で終わりだと思っています。死がすべてであると。死んだ後に続く命があるとしたら、恐らく皆が関心を示すのではないでしょうか。死ですべてが終わる、そう考えています。しかし決してそうではないということ。死んだ人は二度と生き返らない。悲しいけれどそれは事実です。なので古今東西、どの時代において、多くの国々において不老不死に対する方策を考えた人がいました。不老不死はどんなに強く願ったからと言って、それは叶えられないことです。

人間はいつか死ぬのだ。肉体には限界がある。肉体的にいつか死ぬ。永遠に生きられるわけではない。それをイエス様は打ち破られました。それがイエス様のよみがえりです。

ルカの福音書は24章あります。もしこれが23章で終わっていたらどうでしょうか。律法学者らのねたみによって力でねじ伏せられたイエス様の物語で終わってしまいます。しかしルカの福音書には24章があります。イエス様がよみがえられたことが語られています。

イエス様は世の悪に踏みにじられて終わったわけではない。負けたのではない。イエス様はよみがえられました。イエス様は真の神の子であり、いのちを与えられるお方であることを証明されました。イエス様が復活されたからこそ、私たちはあらゆる状況に希望を抱くことが出来ます。イースターはこのイエス様のよみがえりを覚えて集う喜びの日です。

初めに女たちが登場します。女たちはイエス様が復活されたことを知らされました。しかしそのことはすでに告げられていたことでした。女たちはイエス様がよみがえられることを聞いていたのに、それを思い出せずにいました。イエス様の復活はそれだけまともには受け取られないということだと思います。ですがどうでしょう、今日のクリスチャンも同じなのではないでしょうか。復活に対する信仰に弱さがあるのではないでしょうか。イエス様はよみがえられた。私たちはその事実にしっかりと立って歩んで行かなければなりません。

 

今日も説教に3つのポイントを設けました。
それぞれのポイントは、さらに3つに分けることもできます。今日はそのようにして見ていきたいと思います。

まず「1.埋葬の続き」を3つに分けるならば、次のようになります。

  1. 墓に来た女たち
  2. 開いていた墓
  3. 空っぽの墓

 

ユダヤ人たちの安息日は現在の土曜日です。週のはじめとはつまり日曜日の朝になります。この日まだ夜が明けきらないうちに数人の女たちが墓に行きました。女たちは香料を手にしており、イエス様の遺体にそれを塗り、イエス様を丁寧に、そして完全に埋葬しようとしました。つまり、イエス様が復活されるなんて思ってもみなかったことが分かります。

彼女たちはどのようにして墓の入口の石をどかそうか、そればかり心配していました。しかし墓に着いてみると、すでに石はどけられていました。マタイの福音書の並行箇所に記されています。そして中に入ってみると、イエス様のからだは見当たりませんでした。そこで女たちは途方に暮れてしまいました。

 

 

 

2.主イエスの復活

「1.埋葬の続き」と同じように、「2.主イエスの復活」を3つに分けるならば、次のようになります。

  1. 御使いの出現
  2. 御使いの言葉
  3. 女たちの反応

 

そこに御使いが現れます。そしてイエス様の復活を告げます。女たちは恐れて顔を地面に伏せました。本当ならば喜びを持って耳を傾けるべき良き知らせのはずでした。

「よみがえられた」と訳されているギリシャ語は「έγείρω(エゲイロー)」は、「目を覚ます」「起き上がる」といった意味であり、さらに「反乱を起こす」「(反抗的に)立ち上がる」といった意味の広さのある単語です。
考えてみると、イエス様のよみがえりは一種の反乱でもありました。ユダヤの宗教家たちはイエス様を妬み、抹殺し、自分たちの体制側の方が正義であることを思い知らせたつもりでしたが、イエス様はよみがえりをもって神が正義であることを示されました。よみがえりを信じるというのは、既成の悪の構造に反抗的に立ち上がる神を信じることです。悪霊、慢性的な病気、死・・・。この世には人間の力ではどうしようもできないことが満ちています。また社会には一人の善人の力ではどうしようもできない悪の構造があります。
私たちはこの世の常識では「ねじ伏せられて終わる」という状況にいます。その中で反乱を起こし、破壊する力が復活の力です。この信仰に立つことが出来たら、私たちには人生に大きな希望があります。

復活は厚く立ちはだかる壁を突き破る力です。その信仰に立つからこそ、クリスチャンは望み得ない時に望みを抱き、自らも、また他人をも力づけることができます。教会はそのような信仰を持つ人々が集い祈るところです。

「お話になったことを思い出しなさい」と御使いは女たちに告げました。私たちも同様に、語られていながらイエス様のみことばを思い出せずにいて不信仰に陥っていることがままあります。

「マグダラのマリヤ」は12弟子とともにイエス様に従った女たちの一人で、十字架や復活など重要な場面には必ずイエス様のそばにいた人物です。彼女はかつてイエス様に七つの悪霊を追い出していただいた人です。「ヨハンナ」はヘロデの執事クーザの妻です。マグダラのマリヤと一緒に早くからイエス様の働きを支えた女性の一人です。「ヤコブの母マリヤ」は、やはりマグダラのマリヤと同じ時期にイエス様に従い、イエス様を経済的に支えた人だと言われています。

この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
(ルカ24:10)
とありますので、この三人の女たちとは別に、他にも女性たちがイエス様に付き従っていたことが分かります。

 

3.喜びの知らせ

「3.喜びの知らせ」も3つに分解してみます。

  1. 弟子たちに告げる
  2. 信じられない弟子たち
  3. 確認するペテロ

女たちは御使いが告げたことばによってイエス様のことばを思い出しました。そして墓で見聞きしたことを使徒たちに報告しました。しかし使徒たちは彼女たちの言葉を「たわごと」と思いました。精神錯乱者が口にするうわごとという意味です。それで使徒たちは信用しませんでした。使徒たちの不信仰をそのまま物語っています。あるいは当時は女性の証言は一般的に受け入れられなかったという社会的状況があったこともうかがわれます。使徒たちは軽率に女たちの証言を信じることを避けたのかもしれません。ただペテロとヨハネは確かめるために墓へ行きました。

[しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。]
(ルカ24:12)

聖書の12節にはカッコが付けられています。この節を欠く写本があります。ヨハネの20章3〜10節に基づいて、後にこの24章12節が付け加えられたのではないかと言われています。

皆さんにも、テレビなどでとても信じがたい出来事を見たことがあるのではないでしょうか。CGなどを用いて事実ではありえない場面が見事にリアルに描かれていることがあります。イエス様の復活に対しての皆さんのお考えはどうでしょうか。イエス様の死と復活に対し、今までに合理的な様々な解釈が行われてきました。ある人はイエス様は仮死状態であったと主張する人もいます。しかし聖書を読むと明らかなように、完全に死なれたことがローマの兵士たちによって確認されています。仮死状態であったことは考えられません。
また、女たちが間違って他の墓に行ったと主張する人もいます。しかし、女たちがイエス様の埋葬をじっと見ていたし、ローマ兵が厳重に警護しておりましたから、間違えるはずがないでしょう。
しかし、どの解釈においても致命的な欠陥があります。
マタイの福音書によれば、番兵がいたために墓の外部からの侵入は不可能。また内部から外に出ることも不可能。しかしイエス様のからだは実際にそこにはありませんでした。イエス様が繰り返し明言されていたとおり、十字架上で確かに死に、葬られ、その後みことばのとおりに三日目によみがえられたと見るのがより自然なことです。

使徒パウロはⅠコリント15章においてそのことをはっきりと述べています。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
(Ⅰコリント15:3〜4)

 

信じられないようなこと、あるいは人を騙すために仕掛けられた罠などがたくさんある現代。心を落ち着けて本当に確かなもの、信頼できるものを見分けていくことが私たちには大切です。

イエス様は弟子たちにご自身の受難のことを何度も何度も弟子たちに語られました。十字架で死ぬこと、葬られること、よみがえること。ルカの福音書を見ると、そのことを4回も語っています(ルカ9:22〜27、9:43〜45、13:32〜33、18:31〜34)。そのことを当然女たちも聞いていました。しかし彼らは信じていませんでした。まさか、と思っていました。

どうして弟子たちは信じられなかったのか。私たちがもしタイムマシンでその場に行ったとしたら、私たちは信じられたでしょうか。

彼らの救い主に対する期待は、ローマの圧制からの救いでした。それによって生活が楽になる。そういう意味の救い主の姿を彼らは思い浮かべていました。実際にイエス様に付き従っていた弟子たちにも女たちにもそのイメージがありました。そうでなければイエス様は4回も告げられなかったでしょう。

弟子の行動に表れた彼らの考えは、やはりローマの圧制から解放してくれる、そのような力強い救い主でした。それなのに、その救い主が十字架に架けられてしまった。十字架で死んでしまった。それで弟子たちはみな逃げ出してしまいました。

イエス様は生前多くの奇跡をし、福音を語ったのに、本当に信じ、救われた罪人は、イエス様と一緒に十字架に架けられた、あのたった一人だけでした。

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカ23:39〜43)

弟子たちは逃げてしまった。女たちも信じなかった。でも彼らはだんだんと変えられていくのです。直接イエス様から十字架の苦難と死、よみがえりを聞かされていたにもかかわらず、彼らは心から信じることができませんでした。

自分たちの救い主はローマ軍をも恐れず反撃し、自分たちを解放し、もっと良い生活が出来るようになるのだという希望がありました。しかしイエス様が捕らえられ、むち打たれ、殺されてしまう。弟子たち、女なちはそんなことあり得ないと思っていました。イエス様が語られたことは、彼らの心に残っていなかった。かすかな記憶にでしか残っていませんでした。

私たちも弟子たちのことをとやかく言うことは出来ません。

しかし私たちは聖書のみことばを通し、また2千年という教会の歴史によって多くの事が知らされています。イエス様は確かに十字架で死に、三日目によみがえられた。私たちはペンテコステの後に生きる者です。弟子たちはペンテコステの時に立ち直りました。そして全世界に向けてイエス様の福音の証しをしました。それは命がけでした。皆が殉教しました。もし彼らが宣べ伝えた福音の内容を、彼ら自身が嘘だと思っていたら、決して命がけでその福音を宣べ伝えなしなかったでしょう。そこには真実があったのです。私たちはその命をかけて宣べ伝えた福音を否定することができるでしょうか。

 

イエス様はよみがえらなければならなかった。これは永遠の定めです。イエス様は十字架の死で終わっていない。死んで3日目によみがえらなければならない。必然性。これが大切なポイントです。
思い出してください。
十字架の出来事は、敵対した者たちの主導によって遂行したものではありません。神さまが私たちの救いのために主権を持って計画され、こうしなければならないと決め、そして実行された神さまのわざなのです。イエス様の十字架も復活も、父なる神さまのわざなのです。でも辛さはありました。それがゲッセマネでのイエス様の姿から分かるでしょう。そしてイエス様は最終的に父なる神さまのみこころを求めて祈られました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイ26:39)

イエス様は一時ではありましたが、父なる神さまから断絶されました。完全に見捨てられました。私たちの罪はそれほどむごいのだということを念頭に置いて下さい。その罪の解決がイエス様の十字架でした。そして三日目によみがえりがあり、それが真実となりました。それは神さまのご計画のとおりでした。一見、敗北のようでしたがそうではありませんでした。完全な勝利だったのです。

私たちはクリスチャン生活を通して、そのことがさらに良く分かるようになるのだと思います。