日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年4月30日 主日礼拝「復活の証人として」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章36〜53節

説教題

「復活の証人として」

今週の聖句

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。

Ⅰテサロニケ4章14節

 

 

訳してみましょう。

1889 Time waiting on God is never wasted time.
(神に仕えている時間は決して無駄な時間ではありません。)

1890 Christ’s cross provides the only safe crossing(way) into eternity.
(キリストの十字架は、永遠への唯一安全な道を提供します。)

 

 

説教メモ

1.復活の目撃者たち

先週はエマオ途上のことを見ました。二人の弟子にイエス様が途中から合流してくださり、ご自分のことを証しされ、彼らがイエス様を自分の家に招き入れて一緒に食事をした時、それがイエス様だったということが分かり、その瞬間、イエス様が彼らの目から見えなくなったというところでした。

初代教会のクリスチャンたちは日曜日ごとに復活の主にお会いすることを楽しみにしていました。そして教会、集まるところに集合していました。ユダヤ人は土曜日が安息日でしたが、復活の主を記念して日曜日が主の日となりました。ですから、聖日礼拝というのは復活のイエス様にお会いすることを喜びとして集まるものです。まだ今日、ここに集われている方々の中にはイエス様の復活に確信がない方がおられるかもしれませんが、しかしそのような人たちも段々と変えられて、本当にイエス様が死からよみがえってくださったお方であるということが分かるようになる、そのことを期待しております。

クリスチャンはイエス様の復活を信じています。

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
(Ⅰテサロニケ4:14)

このことは、パウロ、そして私たちが宣べ伝えることです。クリスチャンは復活のイエス様を信じています。イエス様の復活が真の真実である。ですから私たちはある意味でそのことに人生をかけています。イエス様が復活されたことは、私たちの生活の中に生きて働く力として受け入れて歩んでいる、それがクリスチャンです。イエス様の復活を信じがたいことだと思う人は多いです。しかしルカは数多くの証拠があると言っています。

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
(使徒1:3)

「数多くの確かな証拠」があるとルカは書いています。聖書の記者たちが掲げている証拠は次の四つです。

  1. 墓が空っぽであったということ
  2. イエス様の身体に巻いてあった亜麻布がそのまま置かれていたこと
  3. 復活の主に実際に会った人がいたということ
  4. 復活の主に会って変えられた人生を歩んだ人がいたということ

この四つの確かな証拠がある。ですからまだ信じられないという人は、この辺のことをもう少し研究してみたら良いと思います。ある心理学者は世の中には答えられない「なぜ」という質問があると言っています。科学では解決が与えられない。なぜ私は生きているのか。何のために生きているのか。なぜ私は苦しんでいるのか。それらの答えは科学では答えられません。つまりそれらの「なぜ」には、科学以外の説明を求めるわけです。しかしその答えについては委ねていく、そういう態度が必要かと思います。復活もそのような性質のものです。復活も人間の理解の超えたところに答えがあります。それに対し聖書がこう言っているのだからという思いで、イエス様は確かによみがえられたのだと、私たちは信仰を働かせ受け止めていかなければなりません。

ルカの福音書24章33〜35節です。
弟子たちが復活したイエス様について話し合っていました。すでにシモン・ペテロがそのことを目撃しています。クレオパたちも自分たちがエマオへ向かう途中にイエス様に出会った様子を証ししています。そんな中にイエス様が突然現れました。数々の奇跡を目撃しながら主とともに歩んできた弟子たちですら、死んだはずのイエス様が復活するなどとは信じられないことでした。弟子たちは幽霊ではないかと思いました。

イエス様は様々な姿でご自身を現された。そのことを聖書は少なくとも10回以上にわたって記すしています。

  1. マグダラのマリヤに現れた(ヨハネ20:11〜18、マルコ16:9)
  2. 墓から帰る道すがらの女たちに現れた(マタイ28:9)
  3. ペテロに現れた(ルカ23:34、Ⅰコリント15:5)
  4. エマオの途上の二人の弟子に現れた(ルカ24:13〜35)
  5. エルサレムにいた10人の弟子たちに現れた(ヨハネ20:19〜23)
  6. その時居合わせなかったトマスを含む11人の弟子たちに現れた(ヨハネ20:24〜29)
  7. 500人以上の兄弟に現れた(Ⅱコリント15:6)
  8. ガリラヤの湖畔でペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブ、ヨハネを含む弟子たちに現れた(ヨハネ21:1〜23)
  9. オリーブ山の上での昇天の時、多くの者に現れた(ルカ24:50、使徒1:6〜12)
  10. ダマスコ途上においてのパウロに現れた(使徒1コリント15:8)

10の場面が聖書に記されており、また記されていないものもあると思われます。それが「数多くの証拠」です。

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
(使徒1:3)

イエス様ご自身が、復活された証拠を様々な形で示されていきます。

 

2.復活のイエス、復活の証人

36〜48節です。
イエス様は二つの証拠をもってご自分が確かに復活し生きておられることを示されました。一つはご自身がもっておられる肉体を示された。もう一つは弟子たちが差し出した焼いた魚を食べて見せたこと。この二つの証拠が復活の証拠でした。イエス様はこのように私たちの身体と何ら変わらない肉体が、どのようにしたら閉じられた戸をすり抜けたりできるのだろうか。あるいは突然現れては突然消えたりできるのだろうか。私たちにとっては理解しがたいことです。しかしいつしか私たちにも同じ主の栄光に与ることが約束されています。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
(Ⅰヨハネ3:1〜2)

ここに約束があります。やがて私たちはキリストに似た者となることが分かっています。私たちの身体も、イエス様と同じからだに変えられます。

ルカはヨハネが記している最初の日曜日の夜、トマスがいなかった時にイエス様が現れたことと、そしてトマスがいる時にイエス様が現れたこととの、この二つを合わせて記しています。ヨハネの福音書を見ますとトマスは疑い深い者でありました。トマスは弟子たちの話しを聞いても信じませんでした。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
(ヨハネ20:25)

そんなトマスにイエス様は第二日曜日の夜に現れてくださり、トマスに仰いました。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
(ヨハネ20:27〜28)

しかしトマスは実際に指を差し入れませんでした。そしてトマスは信じました。

イエス様は再びエマオへの途上の時と同じように、この場面でも弟子たちにご自身について「モーセの律法と預言者と詩篇」つまり旧約聖書全体を通して説明されました。イエス様の苦難、死、復活、そして赦しのことです。

弟子たちはその目撃者。それを宣べ伝える者、その証し人です。イエス様が解き明かされたことによって弟子たちは自分たちが何をし、何を語るべきかが分かるようになっていきます。

さらにイエス様は、彼らに聖書を悟らせるために彼らの心を開かれました。これは大切な点です。聖書はただ単に「ある書物」であるだけではありません。聖書は他の書物と違います。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(Ⅱテモテ3:16)

聖書の本当の著者は神さまです。聖霊が40人以上の人々を用いて聖書を書かせました。神さまの霊感によって書かれました。その聖書がイエス様の十字架と復活を記しています。私たちはそれを受け止め、信じがたいとお思いの方もおられるかもしれませんが、正面から取り組んでいくなら変えられると思います。復活なんて嘘だとお思いでしたら、徹底的にお調べになったら良いと思います。

弟子たちはどんなことが起こったか分かっていました。ヨハネ以外、弟子たちはみな殉教の死を遂げています。嘘に命をかけられる人などいません。

 

 

3.イエスの約束と祝福

49〜53節です。
イエス様は聖霊を遣わす約束を繰り返しされています。そのためにあなたがたは都にとどまりなさいと、その時を待つようにと勧められました。それはなぜでしょうか。それは彼らが使命を果たす力を得るための約束でした。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒1:8)

聖霊が与えられて力を得るのです。つまり自分の力ではなく神さまが与えてくださるその力によって私たちは証しをしていくのです。彼らは主の復活の証人としての働きを自分たちの力ではなく聖霊の力に励まされて行うように期待されています。この約束はまもなくペンテコステに実現しました。

 

 

確認されている事実が4つあります

①イエス様の復活は、夢や幻、弟子たちの妄想ではなく、あるいはイエス様が霊として存在したのではなく、食事などできるからだを持って復活されたこと。それは生前の肉体そのままではなく、新しい存在として肉体でありました。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
(Ⅰコリント15:42〜49)

やがて私たちはそのように変えられます。弟子たちも知らなかったそのからだに変えられていくのです。

②イエス様の十字架と復活の出来事と、その意味すべてが旧約聖書に予告されていたこと。
私たちは新約聖書を含む聖書全体においてのみ理解することができます。ですから私たちの教会では聖書66巻すべてが紛れもない神のことばとして受け止めています。ある箇所がそうである、というのではなく、すべてが神のことばです。その中にイエス様の十字架と復活があるのです。

③復活のイエス様に出会った者は、自分自身が罪の赦しを得られるばかりでなく、そのことを世界中に宣べ伝える証し人としての使命が与えられていること。

④キリストの証人として生きるための力が天から与えられている。それはペンテコステの日に聖霊が降られたことにおいて実現しました。私たちがしようとするのではなく、また私たちが自分の力でするのではありません。神さまがそのための力を与えていてくださっているのです。

私たちはただ聖書を読むのではありません。弟子たちの証しを通して、私たちも復活の主とお会いするのです。そして証し人として生きることができるのです。ですから日曜日ごとに集まって主に愛された者同士が心一つにして神さまに礼拝をささげていく。それは本当に素晴らしいこと、私たちの喜びであります。

十戒には安息日を守るようにとの命令があります。命令となると義務感のようなものが先立ってしまい守れないという面がありますが、日曜日の朝にイエス様が死からよみがえられた、教会に行けば主とお会いできるのだという喜びからくるものであればどうでしょうか。そのような心温まる思いが日曜日の礼拝ごとに与えられていくのではないでしょうか。そういう中で私たちは、イエス様はまことによみがえってくださった救い主であると告白できるようになるのではないでしょうか。ですから私たちは主の復活の証人として、主に「私たちを用いてください」と祈り、神さまにお従いできるのではないでしょうか。

日曜日の礼拝はただの安息日を守るといった命令以上に、復活のイエス様とお会いし、みことばをいただき、心温まるメッセージを聞き、祈り、賛美します。月に一度は聖餐式の恵みにも与ります。礼拝のプログラム全体を通して私たちは復活の主とお会いし、すべてが喜びへと変えられ、そして私たちは地域社会に出て行きます。その場において一人ひとりが力を与えられ、証し人となれます。自分の力ではありません。神さまがそうさせてくださいます。一見弱い人間のように思えますがそうではありません。この社会においてなかなかイエス様のことは話しにくいかもしれません。その中で証しすることは簡単なことではありません。しかし神さまが力を与えてくださいます。ぜひ力をいただき、証し人としての働きをさせていただきたいものです。