日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年4月9日 主日礼拝「エルサレム入城」

    

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書12章12〜19節

説教題

「エルサレム入城」

今週の聖句

ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。

ヨハネの福音書12章13節

 

 

訳してみましょう。

1883 Present pains can lead to permanent gain.
(現在の痛みは、永遠のいのちに導くことができる。)

1884 The face is a mirror of the heart — do people see Jesus in you?
(顔は心の鏡です。人々はあなたの中にイエスを認めますか?)

 

 

説教メモ

1.神の国の王イエス

教会には十字架があります。また、至る所に十字架があります。そしてそれは教会のシンボルとなっております。

イエス様の時代、十字架はそのようなものではありませんでした。今はクリスチャンでない方も十字架のアクセサリーを身につけています。しかし十字架は、昔は最も忌み嫌われるものでした。

イエス様の十字架は「贖罪の十字架」。罪の購い。私たちの罪を贖うための十字架でした。

旧約のレビ記を見ますと、動物の「いけにえ」がささげられました。小さな鳩から大きな牛にいたるまでいけにえとしてささげげられました。これは「贖罪」のための動物のおびただしい血が流されることが旧約の時代にはありました。血を流すことなくして罪が赦されることはないと聖書に書かれています。私たちの罪が赦されるためにも血が必要でした。私たちの罪が赦されるためには、どうしてもイエス様の血が必要でした。ですから私たちは、十字架をそうのような意味でよく見ていかなければなりません。

贖罪は和解のための手段であり、いけにえは人類が罪によって神さまと断絶されている関係を回復するためのものです。
イエス様が人として生まれた意味は、多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためでした。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコ10:45)

このように、イエス様ご自身が仰っています。
また、使徒パウロも

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
(Ⅰテモテ2:6)

このように証ししています。

イエス様だけが全人類の中で唯一、私たちの罪の身代わりとなり十字架で死ぬためにお生まれになった存在でした。

 

イエス様がエルサレムに入城した日曜日を私たちは「棕櫚の聖日」と言います。これはイエス様を熱狂的に歓迎した群衆が手にした棕櫚の葉を持っていたことから言われています。恐らくベタニヤからイエス様と一緒に来ていた群衆と、エルサレムで待ち構えていた群衆とが一体となって、驚くべき数となったことがうかがい知れます。その群衆がイエス様を熱狂的に迎えました。

彼らがイエス様に期待していたことは何だったでしょうか。それは新たなイスラエルの王として自分たちをローマ帝国の圧政から救い出してくれること。そしてメシヤとして彼らの生活を豊かにし、幸せをもたらしてくれる、そうのような王を望んでいました。しかしイエス様は、ここに至る直前にガリラヤにおける5,000人の給食の際、群衆から王となることを求められたとき、イエス様は一人山に退かれました。

イエス様は確かに旧約聖書が預言していたメシヤであり王でした。しかし群衆が期待していたようなメシヤではありませんでした。

群衆は叫びました。

「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
(ヨハネ12:13)

これは旧約聖書の詩篇118篇25〜26節から引用されたものです。
ホサナは「今、救ってください」という意味のヘブル語です。「イスラエルの王に」とは詩篇には書かれていません。おそらく興奮した群衆が付け加えたのでしょう。

ところで「エルサレム」の意味は何でしょうか。

彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。
(Ⅰ列王11:36)

とあります。神さまご自身が名を置くために選んだ町という位置づけにありました。そのエルサレムに神の子、子なる神であるイエス様がメシヤとして入城されました。それを群衆は熱狂的に歓迎しました。その一方で、大祭司カヤパらはイエス様を殺す準備を進めていました。

神の御子キリストが神の都エルサレムに入城されたことは、創造のはじめから神さまのご計画であり、それがいよいよ成就する時がいよいよ来たことを意味していました。天地万物は御子によって、御子のために創造されました。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
(コロサイ1:16)

その御子がサタンによる罪の支配を打ち破り、ご自身の支配、神の国を回復されるのです。
アダムが神に反逆した時、神さまは女の子孫がお前の頭を踏み砕くと予告されました。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
(創世記3:15)

これは原福音と呼ばれています。女の子孫、つまりイエス様が、お前、お前の頭、つまりサタン、サタンの頭を踏み砕く。徹底的に打ち負かす。その成就の日が来たのです。それは創世記12章に出てくる「アブラハム契約」、出エジプト記にある「モーセの契約」、Ⅱサムエルにある「ダビデ契約」。これらの成就の時でもあったのです。まさしく神さまの約束がまさにクライマックスに達する日のはずでした。

群衆は棕櫚の枝をとって「ホサナ!」と叫び、歓呼してイエス様を王として迎え入れました。主の枝は勝利、恵みの象徴です。人々はイエス様をメシヤ、ローマからの解放者、ダビデの王国を再興する方と理解し、イスラエルの勝利の日が来たと信じていました。実際、イエス様は神の国の王として来られたのです。

 

 

2.平和の主イエス

イエス様はろばの子に乗って入城されました。これはとても象徴的なことでした。

興奮のるつぼの中にあって、一人冷静であったのがイエス様でした。共観福音書を見ると、イエス様は弟子たちにロバの子を連れてくるようにと命じる場面が出てきます。しかしヨハネはそれとは違って、大声で叫ぶ群衆の中からイエス様がロバの子を見つけ出してそれに乗られたと記しています。また、マタイと同様にヨハネはこの出来事について旧約聖書のゼカリヤ書から引用しています。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
(ゼカリヤ9:9〜10)

群衆はイエス様が自分たちをローマから解放してくださる方、先頭に立って活躍してくださる方であることを期待していました。イエス様がその期待通りの方であったならロバの子になんて乗って来なかった。そんな弱々しいイメージで来られなかったでしょう。それならば勇ましい軍馬に乗ってこられたのではないでしょうか。ところがイエス様は平和の君として、子ロバの背に乗って来られました。それは旧約に預言されたとおりの姿でした。

弟子たちもまた、恐らく群衆と同じ興奮の中にいました。イエス様がロバに乗って入城されたことの意味が、この時点では分かっていませんでした。

初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。
(ヨハネ12:16)

その弟子たちはイエス様の十字架と復活の後、これらのことを思い巡らしました。そしてゼカリヤ書のみことばを思い巡らし、その記されていた通りだったので、大きな感動とともに理解に至ったのだと思います。

 

3.十字架の主として

ここでは最後のヨハネの福音書12章17〜19節のところです。

この一連の出来事を苦々しい思いで見ていたのはパパリサイ人たちでした。ベタニヤから来た人々はイエス様のみわざ、ラザロをよみがえらせた出来事を口々に証しすると、群衆はいよいよと喜びました。パリサイ人たちはそれをただ手をこまねいて見ていただけでなく、明確な殺意を持ち、イエス様を待ち構えていました。彼らはよみがえったイエス様をラザロとともに殺そうと画策していました。

大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
(ヨハネ12:9〜10)

しかし彼らの予想を超えた群衆の熱狂的な歓迎ぶりに

「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
(ヨハネ12:19)

このようにつぶやきました。
これは彼らの率直な気持ちでした。このカヤパの言葉同様に、無意識になされた預言となりました。

イエス様はパリサイ人たちがご自分に対して殺意を持っていることはご存知でした。また群衆の叫びも移ろいやすいものであると。実際に「ホサナ!」と叫んだその声は、数日後には「十字架に架けろ!」という叫びに変わってしまいました。
その中で、神からの使命と人々への愛をもって罪の赦しのいけにえの小羊となるために、顔を真っ直ぐにエルサレムに向け、そして入城されました。

イエス様が子ロバに乗って目指されたのは十字架でした。マタイの福音書を見ると、イエス様は長老や祭司長たちに殺されることを、再三にわたり弟子たちに予告していました。イエス様は、十字架に架けられることを知りながらエルサレムに入城されたのです。

実際パリサイ人らはイエス様の入城を群衆と一緒に喜べないどころが、殺意を表しています。神の国の王としてこられたイエス様を、ユダヤの宗教指導者たちは拒絶しました。

神の国はまずユダヤ人に差し出され、そしてユダヤ人たちによって受け取られることが主の願いでしたが、拒絶されることもまた主のご計画でした。
つまずきが起こることは避けられないこと。

「つまずきが起こるのは避けられない。」
(ルカ17:1)

なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
(Ⅱテサロニケ2:3)

しかし私たちが主に従っても、また逆らっても、主のご計画は成っていくのです。神さまのご計画は前進していくのです。

人間的な誇り、神学的な理屈、感情的な好き嫌い、人の目・・・。我が身大切なために心を頑なにして主に逆らう道を歩んではなりません。

軍馬ではなく、子ロバに乗ってこられたイエス様。弱く、無防備に見えるこの姿。その姿をしたこの方をどのように迎えるか。王の王としてそのような姿で来られたイエス様を、どのようにお迎えするのか。それは今の私たちにも問われていることです。

 

今日は棕櫚の日曜日。そして今週は受難週となります。私はメッセージを先取りして、ゲッセマネの祈り、不当な裁判についてメッセージしてきました。イエス様はゲッセマネで祈られましたた。涙ながらに祈られました。

ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイ26:39)

ゲッセマネでのイエス様の悲しみはどこにあったのでしょうか。それはこれから体験される肉体的な痛み、苦しみを思ってでしょうか。そうではないことをお話ししました。イエス様の辛さは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」だったのです。

神の子であるイエス様が神に見捨てられる。その切なさが私たちに理解できるでしょうか。しかしイエス様には神さまに捨てられるということがどれほどの悲しみであるか十分に分かっていました。それがイエス様の苦しみ、痛みとなったのです。

 

英語の文章にもありますとおり、現在の痛みは、やがて与えられる永遠の救いへと導かれていくのです。皆さんは是非、十字架の意味を十分に受け止めていただきたいと思います。

私たちはどうしても罪を犯してしまう者たちです。
私たちは神さまの赦しの恵みにあずかっている者。それなのになぜ、私たちはまた罪を犯してしまうのでしょうか。罪を犯し、痛みを覚えるのでしょうか。
罪に対して死んだ者がどうしてまた罪を犯すことがあるでしょうか。でも罪を犯してしまう。それは死にきれていないからです。死んだと思っていても、本当は死んでいないのです。

私たちは古い自分に死に、そしてキリスト・イエスにある新しいいのちに生きる者です。そのことを是非、思い起こしてください。特に自分が今、霊的に少し違和感を感じる時、思い起こしてください。