日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2017年5月14日 主日礼拝「バプテスマ」

    

 本日の聖書箇所

ローマ人への手紙6章1〜14節

説教題

「バプテスマ」

今週の聖句

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

ガラテヤ人への手紙3章27節

 

 

訳してみましょう。

1893 Faith — testing time can be faith — strengthening time.
(信仰—試される時が信仰を強める時である。)

1894 Be grateful to God for even the smallest gift.
(最も小さなギフトでさえも、神に感謝しなさい。)

 

 

説教メモ

「ローマ書」と聞いて、あぁ、難しい書だなと思うクリスチャンも大勢いらっしゃると思います。しかし、難しいということだけで敬遠されてはならない書物です。

今日は洗礼式もあり、また午後にも予定がありますので時間がありません。ですのでエッセンスのみをお話しいたします。メモなどをして、分からないところはお聞き頂くなり、ご自分でお調べになってみたりしたら良いと思います。

まず第一に、使徒の働きの次にローマ人への手紙を配置された。これもまた神さまの摂理でしょう。神さまが意図され、それなりの意味があります。それは私たちクリスチャンにとってローマ人への手紙をきちんと把握することができれば、キリストの弟子として生きるための必須科目が修了となります。ローマ人への手紙を理解することは福音を理解することになります。このことに対する理解が足りなければ、私たちの信仰生活には「ずれ」が出てくるでしょう。それゆえローマ人の手紙をよく読んでいただきたいと思います。1章から最後まで読んで、神さまから修了証書をいただけるようになって欲しいと思います。そして、今は信仰的に柔らかい消化の良い食物しか食べられなくても、やがて堅い食べ物をも消化できるような、強い霊的な成長ができるようにと願います。

なぜローマ人への手紙がそんなに大切なのか。それは神さまの御霊が著者パウロに福音の全貌を語らせているからです。罪とは何かから始まって、私たち人間の良い行いには限界があること。信仰による義認。肉との葛藤。しかしそれで終わらずにさらに進むと、聖霊の助けによって私たちのクリスチャン生活が成り立っているのだということが分かります。そして終末。さらにユダヤ人問題とか共に生きるということ。世界と関わりを持って生きていくこと。つまり宣教に至るまでローマ書は豊かに綴っているわけであります。だからこそ長い教会の歴史の中でこの書が多くの人たちに愛用されてきました。

今年はマルチンルターの宗教改革から500年となります。ルターが言ったことは聖書に戻るということでした。当時は一般の民衆が読める聖書がありませんでした。それはすべてラテン語で書かれており、聖職者など特別な人しか読めませんでした。彼は聖書をドイツ語に訳し、ドイツの人たちがドイツ語で聖書を読めるようになりました。また、ジョンカルバンという人がスイスでおこりました。イギリスやフランスにおいてもどんどん宗教改革が起こりました。私たちプロテスタント教会は、その時カトリックから分かれ出ました。前にも学びましたがイギリスのジョンウェスレーはメソジスト運動を起こした人ですが、彼はイギリスからアメリカに渡り、そこでは成功しませんでした。アメリカの社会は彼を受け入れませんでした。彼は失意の中イギリスに戻り、礼拝出席の際にローマ人への手紙が読まれました。それで彼は自分の信仰を確立していきました。そのようにローマ人への手紙は色々な面で色々な人たちによって用いられてきました。恐らく皆さんの信仰生活においても重要な役割を果たしているのがこのローマ人への手紙ではないかと思うのです。

ローマの教会はパウロが開拓した教会ではありませんでした。この手紙を書いたとき、パウロはローマに行っったことがありませんでした。訪問に先立って第三次伝道旅行の中でコリントに滞在した時に自分の紹介を兼ねてこの手紙が執筆されました。手紙ではありますが、論文のような形態、考え抜かれた構成になっています。パウロは他の使徒たちと少し違います。彼は当時の最高の教育を受け、律法にも精通しており優れた学者でした。彼が書いた論文ですから少し難しいところもあります。またパウロの性格上、手紙の中の話題があちこちに飛んでしまいます。それもまた理解を難しくしているのかもしれません。

1〜4章までは罪と罪過の中で死んでいた人間のことが書かれています。私が読んだ本には「死刑囚」の姿が書いてあると言っています。そして6章に入り、イエス様の十字架という特別恩赦によって無罪放免となったクリスチャンの姿が書かれています。

今日の6章では、神さまは十字架という特別な恩赦によって無罪放免となった私たち、元死刑囚。それが私たちであることを1〜5章で言うわけですが、人間は律法の行い、良い行いを積むことによっては義とされない。イエス様の贖いを信じる信仰によって、ただ恵みによって義とされるのであるということを私たちは学ぶわけです。これだけも神さまの大いなる愛と恵みに感謝せずにはいられないのですが、これから学ぶ6章以降では元死刑囚のの「更正法」が記されています。極めて重要な教えです。

アメリカは世界で最も囚人が多い国だと言われています。220万人もの囚人がいるということです。釈放されて刑期を終えて出て行く人もいますが、その75%の人がまた刑務所に戻ってしまうそうです。私が昔たずねた須坂の刑務所にいた一人の男性は、人生のほとんどを刑務所で過ごしていました。刑務所の中での暮らしの方が楽なのだそうです。出所する人がなかなか更正できない。それはその人自身のせいでもありますが、出た後にどのような支援体制があるか。それもまた重要なことです。そこには赦しと励ましと訓練が必要です。

聖書は元死刑囚の更正方法についてどのように教えているでしょうか。それはイエス様が最後の晩餐で約束された「助け主」、聖霊の助けの元で生活訓練がされるということです。ローマ書8章まで読み進めますとその詳細が語られています。聖霊の助けを語る前に、パウロは6章で出獄した者たちが何よりも持たなければならないことを記しています。それは「自覚」と「決意」であり、そのことを語っています。そして7章では自分の努力ではどうにもならない現実を徹底的に明らかにし、御霊との歩みの必要性を8章で語っています。

一連の教えは聖められる過程「聖化」と呼ばれますが、それは新たな思いをもって取り組んでいかなければなりません。人間が主の贖いによって死刑を免れ、釈放されたのは決して罪の生活の中に戻って行くためではなく、新しい生活をするためなのです。パウロは6章の1〜2節でこう言っています。

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
(ローマ6:1〜2)

それより前の5章20節にはこのようにあります。

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
(ローマ5:20)

恵みが増し加わるために、私たちはなおも罪にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。

罪と縁を切ったことを示す印が「バプテスマ」です。洗礼です。洗礼は全身を水に沈められ、瞬間的にでも死と隣り合わせになります。バプテスマの中心的な意味は「死ぬ」ということです。バプテスマを受けた者はすでに死刑によって死んだ者と見なされます。そして私たちを新しい歩みに進ませます。

そこで大切なことは「自覚をもつこと」。決意をすることです。

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
(ローマ6:3〜4)

自覚すべき事。それは二つの動詞によって表されます。

一つは「知る」ということです。あるいは「知っている」ということです。何を知るのでしょう。これらのことをしっかりと頭に入れて自覚すべきだとパウロは私たちに訴えているのです。イエス様の十字架と復活、そして私たちの信仰決心という事実の上に立って、「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者」だと思いなさい。二つ目の動詞は「思いなさい」です。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6:11)

つまり、自分の頭に言い聞かせることです。その事実を頭にたたき込むことは洗脳ではありません。どう感じるかに頼ってはなりません。事実ですから。イエス様が私たちの罪の身代わりとなり十字架に架かってくださった。これは紛れもない事実です。バプテスマを受けることは、十字架でご自身をささげてくださったイエス様と自分を同一化することです。私たちもイエス様とともに十字架に架けられて死んだ者です。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

パウロはこのように言っています。バプテスマを受けた私たちは、イエス様とともに死んだ者 。そのことを認めなければなりません。また、罪に対しては死んだ者となった。死んだ者は罪から解放されている。これも重要な事実です。罪との関わりがなくなったということです。新しくされたのです。洗礼を受けてクリスチャンになってからも罪を犯すと言うことは、このことが足りないからです。罪から解放された自分がそこにいないのです。

自分に死ぬということ。私が良くおはなしする「長芋のたとえ」です。種芋となった長芋の姿を覚えておられるでしょうか。死んだような姿になった種芋に、何の価値があるでしょうか。何の役にも立たないのです。完全に死んだものとなります。そして新しい命へと進んで行きます。新しい価値ある芋が育つのです。種芋はやがて土の中で腐ってなくなってしまいます。

罪に対して死んだ者。その者もこの自然の現象から学び取るべきです。

十字架の事実がある。紛れのない事実があるのです。私たちは死んだのです。水の中に沈められ、水の中から引き上げられた時、嬉しかったはずです。死んだ者が新しい命によみがえるということですから。それがバプテスマです。私たちは自分の罪に対して完全に死んだ。イエス様の十字架とともに自分を葬り去った。そして新しく生まれ変わった者なのだと、毎日自分に言い聞かせていかなければなりません。

次に考えることは、十字架の事実「知らないのですか」と、自覚「思いなさい」の上に、決心すべきことが最後書かれています。それは「ささげなさい」です。自覚の前提に立って12節以降は命令文で書かれています。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
(ローマ6:12〜13)

  1. 情欲に従ってはいけない。
  2. 手足を不義の器として罪にささげてはいけない。
  3. 手足を義の器として神にささげなさい。

 

私たちは新しいからだを頂くまで、ガラテヤ3:27にあるようにキリストをその身に着る。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
(ガラテヤ3:27)

やがて私たちは新しいからだを与えられる。それまで死すべき身体の中に住んでいるわけです。それゆえこの決心を毎日、つまり日々、決心し直していかなければなりません。1回分かったからそれで良い、ではないのです。毎日毎日「私はキリストとともに十字架につけられたのだ。もはや私が生きているのではない。今までの古い自分はイエス様とともに十字架で死んだのだ。洗礼を受けて水から上げられたように、私は新しいいのちに生きているのだ。これからは神さまに向かって生きていくのだ。」このような思い。そうされた私たちは、私たちの手足を神さまに義の器としてささげていくのです。これが私たちの祈りなのではないでしょうか。

「天の父なる神さま。あなたが主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったこと、そして主イエスが私の罪の為に死に渡され、よみがえられたことを私は信じています。あなたが私をこの信仰に導き入れてくださったことを感謝します。この信仰によって私が義と認められていることを信じ、謙虚に受け入れ、喜び感謝します。私はアブラハムのようにあなたには約束されたことを成就する力があることを堅く信じます。」