2017年4月23日 主日礼拝「エマオへの道」

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章13〜35節

説教題

「エマオへの道」

今週の聖句

道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。

ルカの福音書24章32節
 
 
訳してみましょう。
1887 Unexpected changes are opportunities in disguise.
(予想外の変化は、チャンスが偽装したもの(であるかもしれない)。)
1888 The closer we walk with God, the clearer we see His guidance.
(私たちが神と歩こうと近づくほど、私たちは彼の指導をより明確に見ます。)
 
 
 
説教メモ
テレビのクイズ番組で、一つの画像が徐々に変化していき、最終的にどこが変わったかを当てるというものがあります。短い時間で変わっていくのですが、見ているときはなかなかその変化に気付きません。しかし最終的に最初と最後の絵を比べると、明らかに大きな違いとなっていることが分かるのです。今朝のメッセージは、そのことを思い起こしながらお聞き頂きたいと思います。
 

1.エマオに向かう弟子

イエス様は十字架で死なれてから50日あまりたった時、イエス様が逮捕された際に散り散りになった弟子たちが突然力強くイエスのよみがえりを語り始めるようになりました。ペンテコステの出来事です。それは検証不可能な遠い過去のことではなく、50日後。それはまだ生々しい記憶が残っていた時です。嘘をついているならたちどころにすべてを否定されたでしょう。しかし否定されるどころか、その証言は多くの人々に受け入れられていきました。なぜでしょうか。
イエス様の復活に関して、最も基本的な歴史的事実は、「イエス様が納められていた墓が空っぽになっていた」こと。弟子たちがわずか50日後に「イエスは復活した。私たちは主にお会いした」と証言し始めました。先週も見ましたが、女たちは御使いに「ここにはおられません。よみがえられたのです」というメッセージを弟子たちに告げました。弟子たちのうちの二人、ペテロとヨハネは、最初は女たちの言ったことはたわごとのように思い信じなかったのですが、もしかしたらという思いがあり、イエス様が納められていた墓に走って見に行きました。そうしたら女たちの証言通り、墓は空っぽでした。それが歴史的事実です。数々の証言から、女たちがイエス様の墓を間違えたのだとか、イエス様は仮死状態だったのだとか、誰かがイエス様の遺体を持ち出したのだとか、そのようなイエス様の復活が何かの勘違いであることは完全に否定されます。
週のはじめの日の朝、女たちは埋葬の仕上げをしようと墓に向かいました。その思いは、あの墓の入口を塞いでいる大きな石をどのようにしてどかそうかということでした。その女たちの思いの中には、イエス様が復活するなどという期待は微塵も感じられません。しかし墓に行ってみると、墓の入口の大きな石はすでに転がされていました。墓の入口は開いており、誰でも入れるようになっていました。そして御使いはイエス様の復活の事実を告げました。
ペテロとヨハネはそのことを聞き、自分たちを行ってみました。走って行き、その墓を見つけました。弟子たちもまた、イエス様の復活は期待していなかったようです。
先週も見ましたが、11人の使徒たち、他の弟子たちが期待していたイエス像は、ローマの圧制からの解放者でした。ですからイエス様が逮捕された時、皆が逃げてしまいました。
イエス様は復活された後、弟子たちの前に現れました。しかしただ単に姿を現しただけでなく、復活の意味を説き明かしています。今日のエマオの途上の箇所でも同じです。
 
 

2.イエスとの語らい

弟子たちはイエス様の救いの意味を理解していませんでした。イエス様はこの世の罪からの救い主。政治的な救い主ではありません。政治的なメシア像を持っていた彼らに、イエス様は旧約聖書全体を用いながら十字架による贖いと復活について語りだし、霊的な主であるご自身を明らかにしていかれました。

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカ24:32)

私たちクリスチャンは復活を信じています。ただ単に訳も分からず「復活」という文字だけを掲げているわけではありません。ニコデモの証しに基づいて復活を信じています。エマオへの途上の二人の弟子は、その苦しみと栄光に関する旧約聖書のことをイエス様ご自身から教えられることによって、復活の確信を得ていきました。現代を生きている私たちも同じことが言えるのではないでしょうか。ただ復活を信じようとしても信じられない。むしろ聖書の証しにミミを傾けて、注意深く説明を聞くなら、そこに聖霊の働きがあって、後に復活に対する信仰が与えられるようになります。
エマオへ向かう弟子たちの姿です。

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
(ルカ24:13〜14)

「エマオ」とは「温かい井戸」という意味です。聖書に書いてあるとおり、エルサレムから西に11㎞離れたところにありました。原文では60スタディオンです。1スタディオンは185メートル。現在、エマオと推測される場所は4カ所かあり、それはどこか特定できないそうです。いずれにせよ、11㎞メートル、エルサレムから徒歩でおよそ2時間ほどの距離でした。
ふたりの弟子たちはおそらく、空になった墓の謎について語り合っていました。「論じ合う」という言葉が使われています。それはただの噂話ではなく、答えを見いだすための語り合いでした。そこにイエス様が近寄られました。
 
 

3.目が開かれる

続くルカの福音書24章15〜24節では、イエス様が合流して彼らと語り合う場面が記されています。不思議なことに、この二人の弟子たちは、近づいたその人がイエス様であることが分かりませんでした。復活の主は確かに肉体を持って現れてくださいましたが、肉眼ではイエス様だということが分かりませんでした。つまり、イエス様であることは、信仰の目がなければ分からなかったということです。
最近エルサレムで起こった事件を知らないこの旅人に対し、二人は驚きを隠せませんでした。そしてクレオパはイエス様の十字架と復活の噂についての当惑を語り出しました。
クレオパの他のもう一人の弟子は、クレオパの妻マリヤであるのではないかと言われています。エマオの村に帰宅して旅人を泊めたのであるならば、クレオパ夫妻と考えるのが自然です。
クレオパが語っていることを見ると、彼がいかにイエス様を愛し、認め、期待していたかが分かります。しかし彼らの期待もまた政治的救済者でした。ですから当然このふたりの弟子たちにもイエス様に対する復活の信仰はありませんでした。事実、「その事があってから三日目になります」。この言葉には「もう三日目にもなり、生き返る望みが絶たれたという思いが込められているのではないでしょうか。もちろん、この日の朝、弟子たちはイエス様の遺体を丁寧に埋葬し直そうとした女たちから、イエス様の復活のことを聞いていました。そしてペテロとヨハネは実際に墓へ行き、確かに墓が空っぽとなっていたことを確認した、けれども何も確かなことは言えないとして望みを絶たれたと考え始めました。
そして25節から後半に入ると、彼らの目が開かれることが記されています。
イエス様は彼らの不信仰と心の鈍さを指摘されました。そしてご自身が必ずそのような苦しみを経験してから栄光に入るはずだったことをモーセ五書はじめ、すべての預言書から始めて、旧約聖書全体を通してご自分について書いてある事を解き明かされました。
実際にどんな箇所を取り上げてお話しされたかはとても興味深いところではありますが、それは推測するしかありません。「モーセから始まって」とありますから、出エジプト記の過ぎ越し、過ぎ越しの祭りの制定のことや、その過ぎ越しに救い主が十字架に架けられるということ。それらのことを旧約聖書から話した可能性があると思います。またレビ記23章27〜28節には「贖罪の日」が出てきます。さらに詩篇22編における十字架の苦難。詩篇16編の復活の預言。それらのことを語られた可能性があります。ルカは使徒の働き2章でペテロの説教を記録しています。「彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない。」詩篇16編に記されている主の復活の預言を証ししています。また、イエス様ご自身もマタイ12章でヨナの出来事を用いてご自分の三日目の復活を予告したことがありました。十字架と復活は旧約聖書を通して語られてきた中心的なテーマです。
それらのことを話されながら歩いて行きますと、イエス様はまだ先に行かれそうだったので彼らは「一緒にお泊まりください」と頼みました。二人の弟子は、このエルサレムでの出来事を知らない旅人(イエス様)の話しにますます興味が出てきており、イエス様のことを旧約聖書を通して彼らに示してくださったその旅人に、ますます二人は興味を抱きました。

彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
(ルカ24:28〜29)

これは彼らの自宅だったのでしょうか。無理に願いイエス様を引き留めました。そして

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
(ルカ24:30〜31)

イエス様だと分かった瞬間、イエス様は急に見えなくなってしまいました。
ここでのパン裂きは聖餐式ではありません。普通の食卓での場面でした。しかしそれによって彼らの信仰の目は開かれました。そしてエルサレムに戻り、これらのことを他の使徒たちや弟子たちに報告しました。
Ⅰコリント15:6には「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。」とあります。ということは500人以上の人々が、「是非とも人に語りたいと思う体験談」を持っていることになると思います。そうした中から福音書記者たちは11弟子が復活の主に出会った出来事を記しています。
ルカは復活の主イエスと使徒たちとの出会いに先んじて記すのは、エルサレムからエマオへ向かう二人の弟子たちのことでした。二人はどのような事情かは分かりませんが、復活の日曜日の午後エマオに向かいました。何のためだったのかは分かりません。多分そこに自宅があったのだろうと私は考えています。そこにイエス様が近づかれました。しかし二人はイエス様だとは気付きませんでした。復活なさったイエス様の外見が違っていたからかもしれません。しかし何よりも二人の目は遮られていました。彼らの心の問題です。いずれにしてもイエス様だと気付かないまま、会話は進んで行きます。やがてイエス様は旧約聖書全体からご自身について書いてある事を説明されました。そして自宅に入り、イエス様がパンを裂くと二人の目が開かれました。その旅人がイエス様だと分かりました。
このことから、やがてイエス様は昇天され教会が誕生していくわけですが、今の私たちがどのようにして復活の主とお会いできるかを知ることができると思います。
私たちは日曜日ごとにこのようにして集まって礼拝をおささげします。また月に一度は聖餐式を守ります。そのような機会に私たちは主にお会いできます。ですから今も復活の主に私たちはお会いできる喜びをいただいています。その時、私たちはエマオへの途上の二人と同じような体験をします。
私たちの信仰は、最初と最後を比べてやっとその大きな違いが分かるような、ゆっくりとした、目にはっきりと見えないような成長かもしれません。いつかはっきりすることがある。いつか心が燃えるような体験をすることがある。今の時代の私たちの信仰体験の中でそのようなことが起こるかも知れません。
もし、私たち一人ひとりがクレオパだったら。
私たちは変えられます。私たちも復活の主にお会いします。私たちには聖書66巻が手元にあります。当時の11弟子たち以上の情報が私たちには与えられています。私たちはペンテコステの出来事を知っています。どのようにしてペテロやパウロが伝道していったかを知っています。また個人的にも私たち一人ひとりに信仰の歴史があります。もし皆さんの中に復活の主にお会いしていない方がおられるなら、私たちは日々、復活の主にお会いできます。また日曜日ごとの礼拝を通してお会いできます。私たちにはイエス様の十字架、そして復活によって天に行ける確かな希望が与えられています。何も心配ありません。イエス様は初穂としてよみがえられました。初穂ということは、それに続いてどんどんと穂が出て来ることを意味します。稲作をしている人たちには本当に喜ばしいことです。初穂を見て本当に喜びます。イエス様が初穂としてよみがえられました。私たち一人ひとりも必ずよみがえらされ、復活の主とお会いします。その希望、信仰、確信をもって歩んでまいりましょう。そしてまだそのことを知らない多くの人々に証ししてまいりましょう。その力をも祈り求めましょう。
 

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