2017年5月21日 主日礼拝「ゼルバベル」

本日の聖書箇所

ネヘミヤ記4章15〜23節

説教題

「ゼルバベル」

今週の聖句

「わたしに帰れ。」-万軍の主の御告げ。-「そうすればわたしもあなたがたに帰る。」と万軍の主は仰せられる。

ゼカリヤ書1章3節
 
訳してみましょう。
1895 Faith — testing time can be faith — strengthening time.
(信仰、試練の時は信仰となり、時間を強化する。)
1896 God’s forgiveness defies our labels of failure or pride.
(神の赦しは失敗または誇りという私たちのレッテルに逆らう。)
 
説教メモ

1.神殿再建の令

ペルシャのクロスが神殿再建の許可を出したのが紀元前539年。ですから神殿再建の工事は翌年の538年から着工されました。ところが、その工事は順調に進みませんでした。妨害が入りました。それによって工事が中断してしまったのです。しかし色々ありながらも紀元前520年には工事が再開されました。そして4年後の516年にこの神殿の再建は完成しました。それからさらに70年後にエルサレムの城壁が完成しました。かなり長い時間がかかっています。これが第二神殿と呼ばれている神殿で、紀元70年にローマ軍によって破壊されるまでの間、ユダヤ人たちの信仰のよりどころとなりました。
このバビロン捕囚から帰還する時代に、聖書の中では6人の人物が選ばれています。それは総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、さらに二人の預言者ハガイとゼカリヤ。そしてエズラ、ネヘミヤ。聖書はエレミヤの前後にエズラ記があり、エステル記があり、終わりの方にはハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書があります。これらは大体同じ時代のことが書かれています。聖書の順序にどれだけ神さまの霊感が働かれたのかは分かりませんが、なぜか旧約聖書は最初の方のエズラ記とかネヘミヤ記とかエステル記があって、それから詩篇などが挟まってずいぶん離れて聖書の終わりの方にハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書があります。そんな位置づけがあります。なぜなのでしょうか。これもまた神さまが意図されたことなのでしょう。

「わたしに帰れ。」-万軍の主の御告げ。-「そうすればわたしもあなたがたに帰る。」と万軍の主は仰せられる。
(ゼカリヤ1:3)

これはゼカリヤの時代に語られたことです。ゼカリヤが幻を見てそれを記しました。
1回目の帰還のリーダーであったゼルバベル。他の箇所ではシェシュバツァルという名前でも登場します。その名前を皆さんの中に留めておいていただきたいと思います。
バビロンからおよそ5万人もの人が帰還しました。ゾロバベルは単なる監督と言うよりも、バビロンによってなくなっていた神殿の再建に着手しました。ところが邪魔が入りました。主にサマリヤ人です。口先では良いことを言いました。私たちにも手伝わせて下さいと。しかし彼らには下心がありました。それでゼルバベルは断りました。すると彼らは工事を中断させようとそのことにエネルギーを注ぎました。ユダヤ人の気力を失わせるために脅かにかかりました。彼らは王の側近の議官たちをを買収したりして建設計画を阻止しようとしました。そのために工事は中止となってしまいました。
 

2.工事中断

工事の中断は18年間にも及びました。工事が進みませんでした。しかしそんな状況の中に、神さまは預言者であるハガイとゼカリヤを送りました。そして民を励ましてくださり、そして建設工事は再開しました。この後また邪魔が入ります。再建の命令を出したクロス王が亡くなり、今度はダリヨスの治世となりました。ダリヨス王が調べてみたところ、クロス王の時代にそのようなことがあったということが分かり、長い中断が終わり4年後に神殿建設は完成を見ました。紀元前514年です。
このように見ていくと、神さまがなさるわざ。バビロン捕囚から戻り神殿を再建し、城壁をこれから再建していく。それは神さまのみこころにかなったことでした。それを神さまはゾロバベル、エズラ、ネヘミヤなどの指導者を立ててくださり、やがて完成していく。しかし18年の間工事の中断があったというところに、私たちは疑問を持つのではないでしょうか。神さまのわざをしているのに、神さまのご計画のはずなのに、なぜ中断されてしまうのだろうか。私たちは神さまのご計画といえども単純に進まないのだということ、そのような現実があるのだということを知っていかなければなりません。
 

3.人生の「中断」

当のゼルバベルに私たちの身を置いて考えてみると、ゼルバベルには耐えがたいことがあったのだと想像できます。神さまに召されて指導者として5万人もの人々と帰還してみたものの、邪魔が入ってしまった。なかなか計画が進まない。その中断の期間をどう受け止めていったのか。それは私たちの想像力を膨らませていく以外に方法はありません。
みなさんがゼルバベルだったらどのような気持ちになりますか。神さまは確かに私を導いて5万人の人を率いて帰還した。神殿の再建をさせようとされた。
聖書を読んで行きますと、帰還した5万人以外の多くの者たちがバビロンに残っていました。彼らも物資をもって支えました。ゼルバベルと5万人の者はあたかも代表のようなかたちで帰還し神殿再建の工事にとりかかったのだというように受け止められます。私たちも海外の宣教師たちに献金をもって支えたりします。そのようにバビロンに残ったユダヤ人たちも自分たちの代表として帰還した彼らに喜んで献げたようです。
その神さまのわざであると誰もが思っていたその工事が、余儀なく中断させられてしまった。それを私たちはどう受け止めていけば良いのでしょうか。
力があれば強行突破したい。そう思う人もいたかもしれません。しかしゼルバベルは強硬手段には出ませんでした。できなかったと言う方が正しいかもしれません。その間、どのように耐えたのでしょうか。その心の内は聖書は記していません。それから時が移りゆき、ダリヨスという新しい王が立てられ、中断は終わりを告げることになります。
あるアメリカの教会でのこと。受付には一枚の紙が置いてありました。来会者の記名の紙、あるいはアンケートのようなものです。そこには「あなたの今朝の状況を記してください」とありました。自分は聖人君子である。自分は罪人である。自分は負け犬である。私は勝者である。アル中である。偽善者であるなどなど。そのようなことを記入して受付に出すのだそうです。すると牧師はそれを礼拝の中で読み上げるのだそうです。多分名前までは読み上げなかったのではないかと思いますが。
皆さんにも今日、色々な思いがあると思います。何か失敗の中にある人もおられるかもしれません。健康管理の失敗、自分が神さまのみこころだと思い計画してきたことが躓いてしまったなど。ゼルバベルのように私たちが計画していたことが中断させられる場合がある。それは誰にでもあると思います。大なり小なり中断があります。考えていた計画が狂ってしまう。ある時は悪意ある力に苦しめられる状況となるかもしれません。しかし忍耐して時を待つならば、いつしか取り巻く客観的情勢が変わり、中断が解かれる時があります。さきほどのアメリカの教会でのこと。受付で提出したアンケートを牧師が発表しました。自分は罪人である。負け犬である。偽善者である。高慢な者である。そしてその牧師はすかさずローマ書5章を引用しました。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
(ローマ5:6)

弱かったというのは、信仰的に、霊的に弱かった。あるいは確かな救いを頂いていなかったなどそのような中でキリストが死んでくださった。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)

神さまの赦しは、私たちがどんなであってもそれは関係のないことです。私たちに失敗があったとしても、高慢であったとしても、神さまは私たちを赦し、私たちに永遠のいのちを与えようとしておられる。ですから皆さんが人生の中程で思うように計画が進まないと思われる時。世の中には色々な美味しい話し、罠、誘いが満ちています。コツコツと仕事をしたり、学びをしたり、あるいは友人、家族関係においても、真剣に向き合っていてもうまく行かない。そのような時どうすれば良いか。神さまの御声を聞くことです。

「わたしに帰れ。」-万軍の主の御告げ。-「そうすればわたしもあなたがたに帰る。」と万軍の主は仰せられる。
(ゼカリヤ1:3)

神さまはこのように優しく語っておられるその御声を聞くならば、その人はそれ以上の失敗をすることはありません。もう一度神さまのもとに帰ることができます。一生懸命やっていたのに失敗してしまった。ものごとがうまく行かない。中断させられてしまった。そんな時は神さまの元に帰る時なのです。

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