2017年7月9日 主日礼拝「異邦人伝道」

本日の聖書箇所

使徒の働き10章

説教題

「異邦人伝道」

今週の聖句

イエス・キリストはすべての人の主です。

使徒の働き10章36節
 
 
訳してみましょう。
1909 Without a heart aflame for God, we cannot shine for Jesus.
(神のために心の炎がなければ、私たちはイエスのために輝くことはできません。)
1910 Following Jesus is always right—but not always easy.
(イエスに従うことは常に正しいですが、必ずしも容易ではありません。)
 
 
説教メモ
「こんなことは起こるはずがない、起こってはならない」私たちがそう思っていても、実際に起こってしまうことがあります。
今朝は使徒たちの中で責任者的な存在であったペテロが見た幻についてです。ペテロはお腹が空いていました。食事が出来るまでのあいだ居眠りをしてしまっていたようです。
 

1.コルネリオとペテロが見た幻

ペテロは幻を見ました。それは天から大きな風呂敷がおりてきた場面でした。そして声が聞こえました。

すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
(使徒10:10〜16)

汚れたもの。これは何でしょうか。旧約聖書のレビ記11章には食べてはならないものが書かれています。蹄の分かれていないもの。反芻しないもの。地を這うもの。ウロコのないものなどです。これらはユダヤ人にとっては汚れたものとして、先祖代々食べることができませんでした。これら汚れたものが異邦人と結びつけられています。
ペテロにとって、こんなことは起こってはならないと思うことが、これから起こっていくことになります。
 
旧約聖書を見ますと、神さまは一人の人「アブラハム」を、カルデヤのウルから選び出し、彼とその子孫を祝福するとの約束をされました。アブラハムとその子孫を他の民族と区別されたのです。それは

アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
(創世記18:18)

このことのためでした。しかしこれは決して排他的なものではありません。
モーセの指導によってエジプトから救い出され、シナイ山で律法を与えられてから、彼らは「神の選民」としての意識が段々と強くなっていきました。「私たちはユダヤ人なのだ、他の民族とは違うのだ」という意識が強くなりました。さらに歴史を見ると、アッシリヤとバビロンによって捕囚となりましたが、そこから帰ると、自分たちの捕囚の原因が分からないうちに神さまが最も忌み嫌われる偶像に仕えることをしました。そのような経験を踏まえ、後のユダヤ人たちは再び異教的な教えに染まらないために他民族との結婚を禁ずることをし、ますます分離の道を進みました。
新約の時代に入ると、ユダヤ人と外国人との交際が律法によって禁じられていました。ましてや外国人の家で一緒に食事をするなんてことは論外でした。当時は食べて良いもの、悪いものがはっきりと区別されていました。
しかし、ユダヤ人と異邦人との隔てを取り払わなければ、あらゆる人々に福音を伝えることはできません。ピリポはすでにエチオピア人を救いに導きました。サウロは異邦人への選びの器として召し出されました。12使徒の間には外国人に対する偏見が色濃く残っていました。その偏見が翻されるときが来て、サウロが異邦人に向けて本格的に伝道を開始する前に、使徒たちの代表的存在のペテロによって異邦人伝道が行われました。この画期的な出来事を使徒の働きの著者であるルカは非常に大切なこととして大きなスペースを割いて記しています。
使徒の働きは、サウロが復活の主にお会いしてからはサウロ、後のパウロの伝道の姿が中心となっていきますが、それまではペテロの伝道が中心に描かれています。
 
場面はカイザリヤ、ヨッパでの出来事です。カイザリヤは政治的にも軍事的にも重要な都市でした。ローマの総督が置かれていました。そこに駐屯するイタリヤ隊の百人隊長であったコルネリオがいました。彼はもちろんユダヤ人ではありません。彼は敬虔な人でした。割礼こそ受けていませんでしたがユダヤ教を信じ、ユダヤ人にも良く思われていました。その彼が午後の3時の祈りをしていた時、幻を見、その中で神の使いに命じられました。

ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。
彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の吊はペテロとも呼ばれています。
この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
(使徒10:3〜6)

御使いが去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わしました。彼らがヨッパに近づいた頃、ペテロもまた幻を見ていました。先ほど見ましたところです。
ペテロは律法の教えを盾に「嫌だ」と拒みました。それが三度も繰り返されました。そのたびに「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と言われました。布の中の生き物は象徴として示されたものであり、異邦人をユダヤ人から隔てる規定がイエス様によって廃棄されていることを悟らせるための幻でした。かつてイエス様はマルコ7章19節において、すべての食物は聖いとされました。ペテロはこのことを良く理解できていませんでした。ただちに幻の内容が納得できないまま思い巡らしていたペテロに、聖霊は使者の到着を知らせました。

ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
(使徒10:19〜20)

そしてペテロは出かけて行き、翌日カイザリヤに着きました。
 
 

2.異邦人への説教

主の言葉を聞くために、コルネリオは多くの人を集めて待っていました。ペテロはようやく幻の意味を悟りました。神さまの導きの確かさを悟ったペテロは、もはや少しの迷いはなく口を開き福音を語り始めました。
口を開くということは、これから語られることが非常に大切なことであることを示す表現でもあります。
これは異邦人に対するペテロの最初の説教でした。ペンテコステの時は集まっていたユダヤ人に向かって説教しました。今回は異邦人に対してです。神さまは偏ったことをなさらず、どの国の人であっても神さまを恐れかしこみ正義を行う人なら受け入れられます。救いに関してはユダヤ人も異邦人も何の区別もありません。

イエス・キリストはすべての人の主です。
(使徒10:36)

 
 

3.聖霊を注がれた異邦人

神はイエス・キリストによって平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。そのようにまず結論を述べてから聖霊と力を注がれたイエスの宣教活動を皮切りに、十字架と復活について語り出しました。
私たちはすべてを目撃した証人としてイエスこそ救い主であり、この方を信じるならば誰でも罪の赦しを受けられることを証ししているのだと大胆に語りました。ペテロはそう語る中でも彼的に気を遣って語っているのだと感じられる箇所があります。

私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
(使徒10:39)

コルネリオがローマ人であることを念頭に置いた表現だと思われます。他の所では「十字架」と言っていますが、ここではコルネリオを気遣い「木にかけて」と言っています。ペテロなりにコルネリオのことを思ってのことだと思います。
いずれにせよ、ペテロはイエス・キリストの福音を完結に語りました。これが異邦人に向けての最初の説教だったのです。

イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
(使徒10:42〜43)

これが異邦人たちに宣べ伝えた福音でした。
このように語っていくと、異邦人に聖霊が注がれました。

ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
(使徒10:44〜45)

ペテロたちは異邦人に聖霊が注がれることなど信じていませんでした。異邦人に聖霊が注がれることは、ユダヤ人には到底受け入れられるものではありませんでした。しかしそのことは実際に起こりました。彼らの考えを変えさせる出来事となりました。
イエス・キリストを信じることは、人間のわざではなく聖霊の働きによるものです。聖霊が与えられて信じることができるのですから、選民であろうと異邦人であろうと関係ありません。
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。
(使徒10:46)
ペンテコステの時、使徒たちはエルサレムに都上りをするために各地から集まっていたユダヤ人たちにそれぞれの国の言葉で語り出しました。しかしここではただ「異言」と記されており、これが人々が理解できる言葉だったのかどうかは分かりません。人がすぐには理解できない異言だったのかもしれません。いずれにせよ、そのような事態が起こりました。

「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
(使徒10:47)

水をさし止めてとはどういう意味なのでしょうか。わざわざ洗礼をスムーズに行わせないための悪い配慮なのかもしれません。

そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。
(使徒10:48)

ペテロの説教が終わらないうちに、それを聞いていた異邦人に聖霊の賜物が注がれました。彼らは異言を語り出しました。どの国の人であっても神をおそれかしこみ正義を行う人なら神さまに受け入れられることが、ゆるがない証拠として記されています。
これから11章を読み進めていきますと、この出来事を聞いたエルサレムの人たちは、ペテロが割礼のない人のところに行って一緒に食事をしたことを非難しました。そして事の次第を丁寧に説明すると、

人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。
(使徒11:18)

 
青年サウロはダマスコの途上で復活のイエス様に出会い、律法に対するパリサイ派の誤解から解き放たれました。ペテロはコルネリオとの出会いで、異邦人に対する偏見が取り払われました。これらは異なる一個人の出来事では終わりませんでした。それはユダヤ人の律法理解と異邦人への理解の閉鎖性を打ち破る歴史的な事件となりました。神の国には律法主義も民族の壁もありません。こうして教会の恵みの理解は深まり異邦人宣教は加速していきました。
ユダヤ人と異邦人を隔てるユダヤ人の持つ偏見敵意が、キリストの十字架によって廃棄されたことをペテロに示されました。ペテロ自身もあらためてハッとしたのではないかと思います。
様々な規定からなる戒めの律法。その廃棄によって異邦人もユダヤ人と共に神に近づけるようにされました。元々旧約聖書において異邦人も主に愛され、イスラエルを通して主の祝福を受けるべきものでした。しかしユダヤ人たちは律法の規定を誤解し、異邦人を汚れたものとして差別してしまいました。主が幻の中で三度教えられました。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
それほどまでにペテロの心には偏見が染みついておりました。イエス・キリストによる救いはすべての人に向けられています。

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」
(使徒10:34〜35)

このように語り、イエス・キリストを信じる者は誰でも主の赦しを受けることができる。私たちにとっては当たり前のことではありますが、古代教会にとっては一つの越えるべき高い壁でした。この時イエス様を信じた異邦人たちはペンテコステの日と同じように聖霊が注がれ異言を語り神を賛美しました。そのことはユダヤ人信者を驚かせました。神の国はすべての民族に開かれていることはもはや否定のしようがありませんでした。エルサレム教会の中にはペテロが異邦人と共に食事をしたと非難する者がいました。しかしペテロの説教を受けてその事実を受け入れました。
妨げとなっている偏見や誤解、差別が取り払われると、神の国は飛躍的な成長を見せます。聖霊の大きなうねりが始まると、もう人間の手には止められなくなります。今の私たちの現代の教会はいつの間にか教団教派の壁を築いてしまっています。妨げとなるものを置いてしまっている場合があります。
私たちには教団教派など、福音を宣べ伝える私たちの側での妨げの壁があってはなりません。私たちの心にも、人に対する障害物はないでしょうか。もしあったならば、それらを取り除いていきましょう。ペテロの中の隔ての壁が取り払われ、異邦人に福音が伝わりました。これからサウロによって福音がヨーロッパへと拡がっていきました。このことから私たちも学ぶべきことがあると思います。

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