日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年1月14日 主日礼拝「サムソン」

    

本日の聖書箇所

士師記16章4〜31節

説教題

「サムソン」

今週の聖句

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ人への手紙4章13節

 

 

訳してみましょう

1951 Don’t just count your days, make your days count.
(あなたの日数を数えないで、あなたの日を(日数に)数えさせなさい。)

1952 Satan trembles when he sees the weakest saint upon his knees.
(サタンは最も弱い聖徒がひざまずく(祈る)のを見る時に震える。)

 

 

説教メモ

1.サムソンとデリラ

皆さんにとって、サムソンとはどんなイメージでしょうか。

「サムソン」という名前の意味は、「太陽の人」あるいは「太陽の子」、また全く真逆的に「破壊的・強健な」という意味もあるようです。聖書が記しているサムソンは太陽の人というよりは破壊的な、独りよがりな、わがままに自分の思うように行動して失敗する。そんな人物像で描かれているように思います。なぜサムソンが士師に選ばれたのでしょうか。士師というのは、イスラエルに王様がいなかった故に方々の国々から攻撃されていました。神さまは王様にかわる士師という人物を立てて下さり、その都度イスラエルを守ってくださいました。士師記には12人の士師の名が記されています。今日はその中で一番最後に登場してくるサムソンについて見てまいります。

 

いくつかのことを知っておいてください。
一つは「ナジル人」という言葉です。

さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。
主の使いがその女に現われて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。
今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」
(士師13:2〜5)

ナジル人というのは「聖別された者」という意味があります。もう少し聖書を遡って民数記を開いてください。そこにはナジル人とはどのような人かが書かれています。

「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。
彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。
主のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。
父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
彼は、ナジル人としての聖別の期間は、主に聖なるものである。
(民数6:2〜8)

士師記13章のところで、マノアの妻が主の使いに言われたことは、生まれ出たサムソンに対してではなくお母さんに対して言われています。ですからナジル人というのは神さまによって聖別された者ではありますが、二通りがあります。一時的なナジル人である場合と、一生涯ナジル人である場合。サムソンのお母さんはサムソンを産むまでの一時、ナジル人でした。サムソンは生まれながらにして一生涯ナジル人でした。一生涯ナジル人として歩まなければなりませんでした。

しかしサムソンは、自由奔放に生きた人でした。他の士師たちとは違い、イスラエルの民を率いて外敵と戦うということはしていません。単身で戦い、多くの敵、ペリシテ人を悩ませました。神さまから与えられた怪力によって数多くのエピソードが記されており、物語の主人公としては非常に魅力的ではあります。しかし、イスラエルの霊的リーダーとしては失格者だったのではないかと思います。

時間的な都合で、今日は14〜15章は省略しましたが、ここにはサムソンが他の女性をめぐっての出来事、また自分の怪力にものをいわせてペリシテの麦畑を台無しにしたことが記されています。
そして16章に登場するのが「デリラ」という女性です。サムソンは自らの欲望のままに生きる、極めて不遜な人物でしたが、神さまから与えられた怪力によって、不思議に行動がペリシテ人に被害を与えるようになっていました。彼はデリラと出会い、彼女に恋をしました。デリラはとても美しかったのでしょう。それでサムソンはデリラを恋しましたが、デリラはサムソンに対し、そのような感情はなかったかのように記されています。デリラがなぜサムソンを誘惑したかというと、領主たちが彼女の前に銀貨を持ってきました。

すると、ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、彼女に言った。「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」
(士師16:5)

デリラはそのお金が目当てでした。サムソンを愛するなどという思いは彼女にありませんでした。デリラがペリシテ人とは書かれていませんが、恐らくそうだったのでしょう。サムソンはデリラの、自分の力の源についての問いかけに対して、三度にわたって嘘を言いました。自分の力の源を明かすことを、彼は危険なことだと感じていました。それでいかにも信憑性のありそうな作り話を三度語りました。デリラはその都度ペリシテ人たちを呼んで、サムソンを捕らえさせようとしましたが、サムソンはいずれも撃退しています。サムソンは毎日のようにデリラに責め立てられ、ついにサムソンは自らの力の秘密を打ち明けてしまいました。それはナジル人として切ってはならない髪の毛を切ることにより、力を失ってしまうというものでした。これまでの経験からデリラが彼を陥れようとしていることを何度も裏切られていることに気付きそうではありますが、この時も見抜けなかった。そこにサムソンの心が、もっている力に比べてまるで子どものような、そんな姿がうかがえます。感情の赴くままに振る舞う姿。何度騙されても学ばない姿はあまりにも幼稚でした。

彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。
(士師16:19〜20)

自分の膝の上で一人の男を破滅させたデリラの甘い言葉と誘惑には、創世記における蛇の姿をしたサタンの姿が重なって見えてくるような気がします。サタンが蛇に化して甘い言葉でエバをそそのかし、そしてアダムとエバは罪を犯してしまった。それと似たようなことのように思えます。

サムソンの力、それは主の力でしたが、それはその時すでにサムソンから去っていました。そのことを気付かずにいました。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。ティンデルという聖書注解書がありますが、そこには「これ以上に悲しい節は、旧約聖書には存在しないだろう」と書かれています。彼は捕らえられ、両目をえぐり出され、足かせを付けられ、牢で臼を引いていました。

 

 

2.捕らえられたサムソン

聖書はこの悲劇的な状況の中にあるサムソンでしたが、剃り落とされた髪の毛は伸び始めていました。ここに光が与えられています。

しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
(士師16:22)

サムソンはナジル人としての契約の故に、神さまから特別な力が与えられていましたが、それはただ単に髪の毛に力の源があったわけではなく、神さまがサムソンとともにおられた故の力でした。サムソンが牢において、どのような思いで過ごしたのかについては聖書は何も語っていませんが、恐らく毎日毎日が反省の毎日だっただろうと思います。なぜ自分は力の秘密を明かしてしまったのだろうかと。

 

 

3.祈るサムソン

サムソンは目をえぐり出され、目が見えない中で石臼を引いていました。石臼を引くということは、普通は動物がやることです。サムソンは動物の代わらされて石臼を引いていました。そして髪の毛が段々と伸びてきました。まだこの時点でサムソン自身、そのことに気付いていなかったのでしょう。

さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう。」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。
(士師16:23〜25)

人々の嘲るの中、サムソンは祈りました。

サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
(士師16:28)

サムソンが使った言葉は「神、主よ。」「ああ、神よ。」と三度神さまを呼ばわっています。日本語では神と主と、二種類の語になっていますが、原文を見ますと、最初の呼びかけは「アドナイ(多くのところで『主』と訳されている)」、二番目は「ヤハウェ(新改訳聖書では太字で『主』となっている)」、三番目は「エロヒーム」、三つの単語が祈りの中で用いられています。サムソンがペリシテ人への復讐の願いを祈ったとき、彼の力は元に戻りました。

そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
(士師16:29〜30)

サムソンが本当の神さまとの交わりと、真実の祈りを取り戻したとき、神さまとサムソンとの契約は再び結ばれ、彼の生涯は悲劇的ではありますが、神さまは悔い改める者を顧みて、その関係を回復してくださる神さまであることをサムソンは知っていきました。

 

私たちは一人ひとり、サムソンの出来事を通して何を受け止めていくべきでしょうか。

サムソンがなぜ神さまに選ばれたのか。しかも生まれたときからナジル人として育てられた。ぶどう酒や汚れたものは口にしない。異民族とは結婚しない。聖別された生き方が求められて成長したサムソンでした。髪の毛を切らないということで主と繋がっていることの象徴でした。主ご自身こそが彼の尋常ではない力の源でした。イスラエルが主の前に悪を行い、ペリシテ人の支配に苦しんで40年間、主は契約によってイスラエルを憐れみ、サムソンを士師に選ばれました。サムソンは解放者として期待されていました。私たちはイエス様によって選ばれた者。神さまの国で自分の役割を果たすべくそれぞれが期待されています。神さまは私たちに出来ないことを求めてはおられません。信仰と賜物によって出来ることだけを求めておられます。もし私たちが主に従うとき、知らずして自分の力を超えた偉大なわざを成し遂げる時、これは私ではない、主だ、と叫ぶことになります。それが聖霊の力、自分の力ではない神さまの力であることを悟ります。今までにそのような体験をされたことがあったかもしれません。またこれから体験されるかもしれませせん。私たちは主にただ選ばれて救われました。ただ主に選ばれて力を発揮できる。私たちは選ばれた者らしく生きていかなければなりません。

今日は割愛しましたが士師記13〜15章にもサムソンに関する多くの出来事が記されています。そして16章の出来事の終わりに、彼は非業の最期を遂げました。サムソンの名は太陽に由来すると申しました。太陽はいのちを育みますが、また中東やアフリカの砂漠では生き物を焼き尽くす暑さと干ばつをもたらす厄介な存在でもあります。サムソンは死に際しても、道連れに多くのペリシテ人を葬りました。サムソンはペリシテにとっては忌まわしい存在でした。彼は本来ならば主の霊に満たされてとてつもない力を発揮する男でした。選ばれた者の道を真っ直ぐに歩めば、命の祝福をもたらす太陽の存在となれました。しかし情欲や怒りを抑えきれずに、感情的に行き当たりばったりの行動を繰り返し、賜物を正しく用い切れないままにその人生を終えたサムソン。確かにサムソンはイスラエルの危機を一時的には救いました。しかしペリシテを一掃することはできませんでした。賜物と能力があっても聖霊の管理がなければ、建設的、永続的な力とはならないことが分かります。

私たちは、主と繋がる生命線を守らなければなりません。サムソンは女という誘惑に負けてしまいました。神さまとの関係を断ち切ってしまいました。力の秘密を守りきれずに、主が自分から去られたことを知りませんでした。なんとも哀れな姿です。それでも、牢の中で臼を引く、そんな屈辱的な毎日を耐えるうちに、サムソンの悔い改めを示すかのように彼の髪の毛は伸び始めました。それは主との関係が繋がって力が回復したことを意味していました。そしてサムソンは祈りました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。」神さまはその祈りを聞いてくださいました。最後の一時、イスラエルをペリシテ人から救ったという、最低限の務めをサムソンは果たしたのだと思います。とはいえ、一時でもという表現は最善の人生ではありません。私たちは一時のためだけに生きているのではありません。最善とは主と繋がる生命線を守りぬいて、人生を通して賜物を活かし、召命を全うすることです。もし私たちが士師の時代のように危機的な沈滞状態に陥って、悔い改めと堕落を繰り返しているなら、私たちはそのような悪循環を断ち切ることはできないでしょう。幸い今は恵みの時代です。私たちは悔い改めて主のものとされています。ですからもう一度堕落の生活に戻ることなどあってはなりません。日々祈り、「主よ、私が今日なすべきわざを示してください」と素直に祈り求める毎日を、神さまの御前に生きることが、私たちに求められている生き方ではないでしょうか。