日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年3月25日 主日礼拝「主の十字架」

    

本日の聖書箇所

マタイの福音書27章33〜56節

説教題

「主の十字架」

今週の聖句

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。

ペテロの手紙第一3章18a節

 

 

訳してみましょう。

1971 Jesus didn’t die for junk, you are incredibly valuable.
(イエスはくだらない者のためには死なれません。あなたは信じられないほど価値があります。)

1972 Only God can fill the emptiness of the heart.
(神のみが心の空を満たすことができます。)

説教メモ

1.ゴルゴダの丘

今から80年以上前、北海道に塩狩峠というところがあります。その峠の頂上付近で、機関車から突然客車が離れてしまいました。機関車はどんどん昇って行きますが、離された客車は急降下してしまいました。もしそれを止めなければ乗客の命はありません。そこでクリスチャンの長野政雄という青年が客車をブレーキで止めようとしましたが止められませんでした。彼は自分の身を投げ出して客車を止めました。作家の三浦綾子さんがこの話に感動して「塩狩峠」という作品を書き上げました。自分の命を犠牲にしてまで多くの人を救った人がいたということを、多くの人に知ってもらいたかったので、その小説を書いたそうです。主人公の長野政雄さんは、最初はキリスト教が大嫌いでした。ところが周りのクリスチャンの人たちの立派な行いや毎日の生活を見て、自分の心の汚さが見えてきたとき、聖書を読んでみようという思いが与えられたそうです。そして何一つ悪いことをしなかったイエス・キリストが、この世の全ての罪を背負って十字架に架かられたのだと、駅前でりんご箱の上に乗って熱心に路傍伝道している人に引きつけられました。長野政雄さんは、この時はっきりとイエス・キリストを信じ、救われました。彼は世界中の人のため、いや、自分の罪の為に死んでくださったイエス・キリストを信じ、その愛を心にいただいていたからこそ、自分の命を他の人の為に捧げることができました。この出来事を通してイエス様を信じようとした人たちも多く起こされたようです。

先日、韓国の平昌でオリンピック、パラリンピックが行われました。パラリンピックではあまり気がつかなかったのですが、オリンピックではヨーロッパの女性選手たちが大勢、十字架のネックレスをつけていました。私は十字架のアクセサリーを着けている人を見ると、クリスチャンかなと思うわけです。欧米人の場合、大抵がクリスチャンです。しかし日本は違います。日本ではクリスチャンでない人が大勢、十字架のアクセサリーを身に着けています。

十字架は意味深いものです。教会の屋根にも付いています。長いキリスト教の歴史の中で、教会のシンボルが十字架であることは定着しています。しかし、なぜ十字架だったのでしょうか。ある注解書を読むと、イエス様は家畜小屋でお生まれになったのだから、飼い葉桶がキリスト教のシンボルで良かったのではないか。あるいは、イエス様が弟子たちの足を洗われたときに腰に下げていた手ぬぐいでも良かったかもしれない。大工仕事の道具でも良いし、イエス様は「人間を獲る漁師」と仰ったことから、魚でも良かったし、網でも良かったのではないかと書かれていました。

教会のシンボルとなり得るものは沢山あります。しかし教会のシンボルは十字架となっています。イエス様が最後の晩餐の時に「これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。これはあなたがたのために流されるわたしの血である」と仰って、イエス様ご自身が定めてくださったのが聖餐式でした。それだけ十字架には重い価値があるのです。イエス様が十字架に歩んでくださり血を流してくださった。深い意味があると思います。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
(Ⅰペテロ3:18)

一度とは、その背後に、二度と繰り返されないのだという意味があります。つまりイエス様の十字架の死は、ただ一度だけの歴史的事実です。この事実によって日毎に捧げられてきた罪のいけにえはもはや必要ではなくなりました。イエス様の死は、あらゆる時代における全人類の罪の為のもの。生まれながらに御怒りを受けるべき悪い人である私たちが、本来受けるべき罪のさばきを、罪も汚れもない完全に正しい方であるイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さいました。それがイエス様の十字架です。それ故に今は、キリストの贖いの死が自分の為であると信じる者は誰でも罪が赦され、真の救いを得ることができます。

ゴルゴタの丘。ゴルゴタは「どくろ」です。どくろとは何でしょうか。頭蓋骨です。英語ではカルバリーです。そこにあった処刑場に連れて来られたイエス様の罪状書きには「これはユダヤ人の王である」と書かれていました。ユダヤ人は異邦人を追放してユダヤ人の国家を建て上げる政治的な救い主を待望していました。群衆のイエス様に対する失望があるとすれば、彼らの希望にそぐわなかったからでした。ローマ総督からすれば、この罪状書きはローマに対抗しようとするユダヤ人に対する皮肉でもあったと思われます。

十字架刑は、当時フェニキヤ人の間で行われていました。後にローマがそれを用いるようになりました。この刑に処せられるのはローマ人ではありません。ローマ人以外でした。奴隷であったり、犯罪者、犯罪者のうちでも身分の低い者がこの十字架刑に処せられました。当時の死刑のやり方の一つでした。その中でも一番むごい処刑法でした。

十字架を取り囲んだ人たちは、主イエス様が選ばれた道が分かっていませんでした。言葉の限りを尽くしてののしりました。そしてゴルゴタの丘で処刑されました。

 

 

2.あがないの十字架

「贖う」とは、代価を支払って自分のものにするという意味があります。

イエス様は十字架から降ろされて苦しみが和らげられることをは望まれませんでした。人々に嘲られ、弟子たちは逃げ去り、神に見捨てられました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられませんでした。

しかし恨みの言葉を残して死んだのではありませんでした。錯乱状態でもありませんでした。ご自分の死の意味をはっきりと理解され、死に至るまで従順であられました。血を流すことなく罪の赦しはないと聖書は記しています(ヘブル9:22)。御子イエスの血がどんな罪も赦すものになるためである(Ⅰヨハネ1:7)とも記されています。イエス様の十字架の死は、贖いの代価でした。自分で自分を救うことのできないような窮地にある人、あるいは命の危険にさらされている人のために、他の人が代価を払ってその人を救い出すという本来の意味合いがあります。イエス様は罪を赦し、本来の奴隷状態から解放してくださるために死なれました。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちを罪から解放してくださるため。私たちの罪をご自分の血という代価を払って帳消しにしてくださいました。ですから私たちがなおも罪の中に生きるということはあり得ないことです。ところが、私たちは罪を犯してしまいます。それが人間の弱さです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

私たちはこのことを毎日自分に言い聞かせていかなければなりません。

 

 

3.私たちと十字架

イエス様に敵対していた祭司長や律法学者たちだけではなく、道を行く人々も、自分の犯した犯罪のために十字架に架けられた人さえも、こぞってイエス様をののしりました。神を畏れることで知られていた人々が、嫉妬の故に主イエス・キリストを十字架に架けて喜んでいる群衆の姿があります。通りがかりの無関係の人も、十字架に架けられたイエス様をののしって、彼らは楽しんでいたのです。彼らの心を支配しているのは、悪を喜ぶ思い、罪の原理ではなかったでしょうか。

もし私たちが、今からおよそ2,000年前のその場所に居合わせていたならば、私なら主イエス様を十字架につけはしなかっただろうと言い切れるでしょうか。神を神として認めない。自分に依り頼んで生きることは、神に敵対して生きることです。しかし罪人である私たちの身代わりとして主イエス・キリストは死なれました。私たちはこの神さまの愛にどのように応えることができるでしょうか。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって下さった。

キリスト教の最高のシンボルとして、当時のギリシャ、ローマの文化で、恥じ以外の何ものでもなかった十字架が選ばれました。使徒パウロはどのようにして十字架を栄光と見なすことが出来たのでしょうか。皆さんも今週、それを考えてみて下さい。十字架はなぜ私たちが誇れるものなのだろうか。それは自分たちではなし得なかったことをイエス様がしてくださったから。罪の身代わりとしてイエス様が十字架でご自身を捧げて下さった。それが私たちの主イエス・キリストの十字架です。

イエス様の十字架には深い深い意味があります。そのことを是非今年もイースターがやってまいりますから、もう一度思い直してください。そしてこれからは罪から解放されて、神さまの方に向かって歩み出して下さい。しかし私たちは色々と思い悩み、そしてまた罪を犯し悔やむことばかりです。そこで神さまに赦しを願い、イエス様の十字架のことを思い直し、祈りをもって神さまに近づいていっていただきたいと思います。父なる神さまは待っておられます。