日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年4月1日 主日礼拝「死に勝利したイエス」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章1〜12節

説教題

「死に勝利したイエス」

今週の聖句

ここにはおられません。よみがえられたのです。

ルカの福音書24章6節

 

 

訳してみましょう。

1973 Spiritual growth is a process.
(霊的成長は過程である。)

1974 Because of God’s love, we are never truly alone.
(神の愛の故に、私たちは決して孤独ではない。)

 

 

説教メモ

1.埋葬の続き

今朝はルカの福音書24章の前半のところを拝読しましたが、もしもルカの福音書が23章で終わっていたならどうなっていたでしょうか。23章は最後にイエス様が十字架で息を引き取られてから、アリマタヤのヨセフとニコデモという二人の人がピラトのところに行って、イエス様を十字架から降ろさせて欲しいと願い出ました。そしてイエス様のからだを十字架から取り降ろして、亜麻布で包み、そしてまだ誰をも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。ガリラヤからイエス様と一緒に出てきた女性たちはヨセフについて行って、墓とイエス様のからだの納められる様子を見届けました。そして戻って来て、香料と香油を用意しました。そして安息日を迎え、律法に従ってその日は休みました。これがルカの福音書23章の最後のところです。

ここでルカの福音書が終わってしまっていたならば、イエス様は敗北者となってしまうことになります。パリサイ人や律法学者が知ってか知らずか、サタンに導かれてイエス様を十字架に追いやりました。そして十字架に架けられ死んだイエス様を見て、ほくそ笑んでいたかもしれません。しかしながら、ルカの福音書24章が続きます。それは素晴らしいことです。

イエス様はよみがえられた。イエス様はまことに神の子であり、いのちを与えられる方であることが証明されていきます。

イエス様が復活された故に、私たちはあらゆる状況の中でも希望を抱くことが出来ます。イースターはこのイエス様のよみがえりを喜び祝う日です。

ここにはおられません。よみがえられたのです。
(ルカ24:6)

御使いが女たちに告げられたことが記されています。
この女たちに最初にイエス様がよみがえられたことが知らされるわけです。このこと自体はすでに聞かされていたことでした。彼女たちは聞いたことを思い出せないでいました。イエス様の復活のことは、それだけまともに受け止められないでいたということだろうと思います。しかしどうでしょう。今日のクリスチャンも同じで、復活に対する信仰に弱さがないでしょうか。もし半信半疑でイエス様の復活を受け止めたおられるならば、今朝はそのことの確信をもって会堂を去って頂きたいと思っています。

死人がよみがえることは、常識では考えられないことです。
人間は出来るだけ長生きをしたいと、不老不死の研究が世界中で行われています。不老不死への憧れのようなものは、人は死んでしまったらすべて終わってしまうのだという考えからではないでしょうか。日本では生きているうちにいくら悪いことを行っていたとしても、死ねば仏になれるという考え方があります。死んでしまえばその先の事はあまり考えないというのが日本の考えだと言えます。しかしそれは正しいことではありません。

死に方は色々あります。老衰、病気、事故など。死に至る道は沢山ありますが、死そのものは何故存在するのでしょうか。

罪から来る報酬は死です。
(ローマ6:23)

ですから、罪の解決がなければ本当の救いはありません。

イエス様は十字架に架けられ、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。イエス様が死ぬべき私たちの代わりに死んでくださった。ですからイエス様を信じる者は死ななくて済むのだというのが聖書の教えているところです。

イエス様はご自分では何一つ罪を犯されませんでした。そのイエス様は私たちの罪を背負い死んでくださった。私たちの罪の身代わりとしてイエス様は十字架に向かって歩んでくださいました。そのイエス様を信じると言うことは、「私の罪はイエス様と共に十字架につけられ葬り去られたのだ」と告白していることになります。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

洗礼は身体全体を水に沈めます。そして水の中から上げられるということは、新しいいのちに生きるということです。古い自分はイエス様とともに十字架につけて死んでしまった。そしてもう一度新しく神さまに向かって生きるのだ。罪との関わり、罪を犯さない自由が与えられているのだから、これからは神さまに向かって生きるのだというのが洗礼だと思います。

私たち生まれ変わったクリスチャンでも、そのことを毎日毎日自分に言い聞かせていかなければなりません。そうでないとついまた罪を犯してしまうものです。霊的な成長のために、毎日ガラテヤ2章20節を信仰告白として、また自分に言い聞かせて行かなければなりません。私は大丈夫だとは、誰も言えないのです。

 

週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
(ルカ24:1)

週の初めの日とは、日曜日のことを言います。
ユダヤのカレンダーでは、前日の土曜日が安息日です。イエス様がよみがえられたのは週の初めの日の明け方、日曜日の朝ということになります。

安息日には「安息日律法」というものがあり、してはいけないことがたくさん定められています。その中に死体を葬ることも禁じられていました。イエス様が十字架につけられたのが金曜日の午前10時頃。午後の3時頃に息を引き取られました。アリマタヤのヨセフとニコデモは、夕方のまだ日が落ちない頃に死なれたイエス様のからだを十字架から降ろしました。そして自分の為に用意しておいた墓にイエス様を納めました。ニコデモは没薬をイエス様のからだに塗って、当時の埋葬のしきたりにならって亜麻布を全身に巻きました。それを女たちは見ていました。

ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。
(ルカ23:55)

女たちには、当時の慣習に従って、主人であるイエス様をもっと丁寧に葬らなければならないとの思いがありました。最後まで礼を尽くしたいとの思いがあったようです。

しかし、そうこうしているうちに日が落ち、安息日が始まりました。当時の新しい一日は夕方、日没から始まりました。安息日には何も出来ないので、女たちは戒めに従って休みました。

 

 

2.イエスの復活

安息日が終わり、夜が明けるとすぐに、女たちは準備しておいた香料を持って墓に行きました。
墓の入口は、イエス様の遺体を誰も持ち出すことがないようにと大きな大きな石で塞がれており、しかもローマの兵隊たちが寝ずの番をしていました。
女たちが一番心配していたことは、墓の入口に大きな大きな石が置かれ塞がれているということでした。誰かがその石をどけてくれないと、自分たちは墓の中に入って丁寧に葬ることができないと心配していました。

見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。
(ルカ24:2〜8)

ここに「女たちはイエスのみことばを思い出した」とありますが、ペテロや他の弟子たちもこのイエス様のことばを聞いているわけです。

 

 

3.喜びの知らせ

御使いが現れてイエス様がよみがえられたことを告げました。女たちは恐れて地面に顔を伏せました。しかし本来ならば喜びをもって耳を傾けるべきニュース、良い知らせだったはずです。

「よみがえられた」と訳されたギリシャ語は、もともとは「目を覚ます」「起き上がる」という意味、さらにそこから「反乱を起こす」「反抗的に立ち上がる」といった意味の広さを持つ言葉が使われています。考えてみるとイエス様の復活は、一種の当時の社会に対する反乱でもありました。ユダヤの宗教家たちはイエス様を妬んで抹殺し、自分たちが正義であることを思い知らせたつもりでいました。しかしイエス様はよみがえりをもって、神さまが正義であることを示されました。よみがえりを信じると言うことは、既成の悪の構造に反抗的に立ち上がる神さまを信じることです。

悪霊、慢性的な病、死・・・。この世には人間の力ではどうしようもないことがあります。また社会には、一人の善人の力では打ち下しがたい悪の構造があり、私たちはその中に生きています。私たちのこの世の常識ではねじ伏せられて終わるという状況の中で、反乱を起こし、そうではないのだと破壊する力が復活の力です。この信仰に立つことができたなら、私たちの人生には大きな希望があります。

この復活は、私たちの前に厚く立ちはだかる壁を打ち砕く力があります。その信仰があるからこそクリスチャンは、望み得ない時に望み得るのです。自らを、また他人をも力づけることができます。教会はそのような信仰に立つものたちが集い、祈るところです。

「イエス様がお話になったことを思い出しなさい」と御使いは言いました。私たちも同様に、イエス様が語られていながらも思い出せずにいて、不信仰に陥っていることはないでしょうか。

 

ルカの福音書は、なぜか女性に重きを置いて書かれていることが分かります。

女たちはイエスのみことばを思い出した。
そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
(ルカ24:8〜11)

使徒たちは女たちの話を「たわごと」のようにしか思いませんでした。信用しなかったのです。「わたごと」とは、「精神錯乱に陥った者が放つうわごと」という意味を持つ言葉が使われています。
当時、女たちの証言は軽く見られていました。裁判では証言に立つことすらできませんでした。そんな時代に、使徒たちは女たちの証言はたわごとのように、「何を女たちは言っているのだ、そんなものは取るに足らないたわごとだ」と軽く受け止めました。当時の使徒たちの不信仰をそのまま物語っています。

一般に受け入れられない女性たちの証言に対し、使徒たちはそれを軽率に信じることを避けたのかもしれません。ある程度は信じたいという思いがありながらも、当時の社会的背景の中であえて信じなかったのかもしれません。

〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
(ルカ24:12)

12節には「かっこ」が付けられています。
ペテロとヨハネは、女たちが言ったことを確かめるために、墓へと走りました。
かっこが付けられている12節は、この節を省く写本があることを示しています。後の時代に書き加えられたのではないかと言われています。

イエス様は予告された通り死からよみがえられました。そのことをはじめは誰も信じませんでした。
私はここで、皆さんお一人お一人にお聞きしたい。皆さんはイエス様のよみがえりを信じますか、信じませんか。
何人かの方が「信じられません」と仰る方が出てきても不思議ではありません。弟子たちも信じられなかったのですから。しかし後に、ペンテコステの時に彼らは変えられて「まことにイエス様は死からよみがえられたのだ」という信仰に確信を持つようになりました。

 

イエス様のからだがそこになかった。墓が空っぽだった。これはとても大切な事実です。ルカは女たちの心境を、また行動や心理の一部始終を私たちに生き生きと伝えています。女たちの役割の第一は、イエス様が納められた墓が空っぽだったという事実の、最初の目撃証人だったということ。イエス様の復活の史実性の最も中核にあること、どうしても否定できないことは墓が空っぽになっていた、イエス様の遺体がなくなっていたということでした。復活に関してあらゆる説明はこの一転から始まりました。

色々な考え方がありました。
ある人は弟子たちがイエス様がよみがえったと嘘をついたのだと考えました。しかし弟子たちは後に、イエス様の復活の証言のゆえに殉教して行くわけです。嘘の為に命をかけられるでしょうか。
ある人は弟子たちがイエス様の死体を持ち出したのだと考えました。弟子たちでなくてもサンヘドリンの誰かが持ち出したのだ考えました。しかしイエス様がよみがえられたという話が広まった時、イエス様の遺体を持ち出して、ここに遺体があるではないかと言うことができたはずですが、そのようなことはありませんでした。
空っぽの墓はイエス様がよみがえられたという証拠の第一のポイントとして非常に重要です。

イエス様はよみがえられた。ただそういうことがイエス様から弟子たちに受け継がれて、それがいつまでも続いているということではなく、また、息を吹き返したということでも、霊がお化けのようにこの世に生き続けているといったことでもありません。弟子たちも、敵対者たちも墓を勘違いした、敵対者たちが懸念したように弟子が遺体を盗んだことでもない。イエス様は事実、からだをもって復活なさった。それを事実として認めない限り、その後の弟子たちの証言や彼らの変化、教会の誕生や発展を十分に説明することは出来ません。福音書が証言するように、イエス様は肉体をもって、但しここでは新しい存在としての肉体でよみがえられたと認める事だけが、歴史上の多くの検証を最も矛盾なく説明できるものです。

イエス様はよみがえらなければなりませんでした。24章の前半のところでは、まだよみがえられたイエス様は登場してきません。空っぽの墓に驚く女たちに、御使いが理由を解説しただけです。その解説の重要なポイントは「よみがえらなければならない」ということでした。新共同訳では「復活することになっている」と訳されています。必然性が書かれています。イエス様は神の子である。父なる神さまが神の子であるイエス様をよみがえらせたのです。イエス様が神の子であられたゆえに、イエス様は十字架上で悲痛な叫びをあげました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。ゲッセマネの園で血の汗を流しながら苦しみ悶え、そして「父よ。この杯をわたしから取りのけてください」と切実に祈られました。しかしイエス様はすぐに「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。イエス様はその時、確かに神さまの時がきたことを悟り、十字架に歩まれました。私たちはそのことを証ししていく。イエス様はまさしく死よりよみがえられたのだと。

私たちは、復活の朝の出来事を見て来ました。これまで何回も何回も復活のできごとは聖書を通して、説教を通して目にしたり耳にしたりして来られたと思います。しかしまだ信じられない方がおられましたら、今年こそ信じていただきたいと思います。