日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年4月15日 主日礼拝「二階の部屋で」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章33〜53節
ヨハネの福音書20章19〜23節

説教題

「二階の部屋で」

今週の聖句

平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。

ヨハネの福音書20章21節

 

 

訳してみましょう。

1977 How we give is more important than how much we give.
(私たちが与える方法は、私たちがどれだけ与えるかよりも重要です。)

1978 Someday the scales of justice will be perfectly balanced.
(いつか正義の尺度は完全にバランスが取れます。)

 

 

説教メモ

1.復活の目撃者たち

エルサレムを去りエマオという村に向かった二人の弟子たちのことを先週お話ししました。イエス様は彼らに追いついて色々と話しをされ、宿についてイエス様がパンを裂いたとき、その方がイエス様であったことがはっきりと分かったというお話しでした。その弟子たちはすぐにエルサレムに引き返し戻りました。そして弟子たちが集まっていた二階の部屋で、もう一度復活の主にお会いするというのが今日の箇所です。

二階の部屋でイエス様にお会いしたこと、その8日後にトマスに現れてくださったこと、それから「聖霊が与えられるまでエルサレムにとどまりなさい」(使徒の働き1章)と仰り、彼らの見ている前で天に帰ったということもありましたけれども、ルカは割合と完結に最後のところで一言述べていますが、今日はその二階の部屋で復活の主に弟子たちが会ったことだけを取り上げたいと思います。トマスは来週取り上げたいと思います。

初代教会のクリスチャンたちは、復活の主にお会いすることを楽しみとして日曜日ごとに集まりました。土曜日のユダヤのカレンダーによると、私たちクリスチャンはユダヤの安息日を守る伝統から脱却しており、日曜日を主日とするようになりました。ですから私たちは日曜日ごとに教会に集まるという一番の目的は、復活の主にお会いすることです。

 

弟子たちはイエス様が復活されたことについて色々と語り合っていました。すでにシモン・ペテロがそのことを目撃していました。クレオパたちも自分たちがエマオに向かっていた途上でイエス様に出会った様子を証ししています。そんな中にイエス様が突然現れました。ここの記事を読むと、数々の奇跡を目撃しながら主とともに歩んできた弟子たちでさえ、死んだはずのイエス様が復活するなどなかなか信じられないことが分かります。弟子たちは幽霊ではないかと疑ったほどでした。

イエス様は様々な機会にご自身の姿を現されました。聖書を記した記者たちは、全部で最低10回の場面を記しています。

  1. マグダラのマリヤの前に
  2. 墓から帰る道すがらで女たちの前に
  3. ペテロの前に
  4. エマオ途上で二人の弟子に
  5. エルサレムにいた10人の弟子たちに
  6. トマスを含む11人の弟子たちに
  7. 500人以上の兄弟たちに
  8. ガリラヤ湖畔でペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブ、ヨハネを含む弟子たちに
  9. オリーブ山で天に帰られた時、多くの者に
  10. ダマスコ途上においてパウロの前に

イエス様はご自身が復活されたことを様々なかたちで、特に使徒たちに示されました。恐らく聖書に記録されていないいくつかのイエス様が現れたこともあったと思います。聖書は10回、あるいは11回記しています。

 

 

2.復活のイエス、復活の証人

イエス様は二つの証拠によって、ご自分が確かに復活し生きておられることを示されました。一つはご自分が以ておられるからだ、肉体を示すことによって。もう一つは弟子たちが差し出した焼いた魚を食することによって。

このように私たちの体と変わらないからだが、いかにして閉じられた戸を通り抜けられるのか、あるいは突然現れては消えるのか、理解しがたいことではありますが、いつか私たちも主と同じ姿に変えられるのです。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
(Ⅰヨハネ1:1〜2)

私たちはキリストと似た者となることが分かります。主の栄光の姿と同じ姿に与ることが約束されています。

この二階の部屋で、エマオ途上の二人の弟子にされたように、ご自身についてモーセの律法と預言書と詩篇、つまり旧約聖書全体に渡って書いてある事を説明されました。それはイエス様の苦難と死、復活、罪の赦し。弟子たちはその目撃者であり宣教者です。イエス様の説き明かしによって弟子たちは、自分たちは何をし、何を語るべきかを段々と理解していきます。

さらにイエス様は聖書を悟らせるために、彼らの心を開かれました。普通、私たちは本を読むとき、理性をもって読み解いていきます。しかし聖書は理性だけで理解することはできません。聖書は心を照らす聖霊の働きなくして、また聖霊への信頼なくして理解することはできません。聖霊が聖書の著者であり解説者であるからこそ、聖書は祈りつつ読む必要があります。

また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(Ⅱテモテ3:15〜17)

聖書はただの書物と違い、神さまの霊感によって書かれたものですから、読む私たちも与えられた霊性をもってそのことをわきまえて読んでいかなければならない書物です。

 

 

3.イエスの約束と祝福

イエス様は聖霊を遣わす約束を繰り返されました。そのためにエルサレムの都にとどまって待つことを勧めました。それは彼らが使命を果たすために必要な力を得ることの約束でした。彼らは主の復活の証人としての働きを、自分たちの力ではなく聖霊の力に励まされてするのだと期待されました。この約束はまもなくペンテコステの日に果たされました。

皆さんは、嬉しいことや楽しいことがあると喜びます。時には馬鹿騒ぎをして喜びます。しかしそれは瞬間のことで、過ぎてしまうと忘れてしまうような喜びです。しかしそうではない。心の中に静かに、しかし確かに広がってその人に慰めや希望を与え、その人の一生を導くような喜びが、聖書を通して私たちに与えられています。そのことを是非知って頂きたいと思います。本当の喜びは心の底からわき上がってくるもの。主が共にいてくださる、主が私たちを贖ってくださった。その主が今、私のかたわらにいて支えて下さっている。そこから出てくる心温まるような喜びが信じる私たちにはあります。

今週の聖句です。

平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。
(ヨハネ20:21)

イエス様が弟子たちにくだされた宣教命令があります。一番有名なのはマタイの福音書28章です。これは大宣教命令と呼ばれています。似たようなところにマルコの福音書16章があります。ヨハネの福音書20章19節、あるいは21節は、ヨハネ版の宣教命令です。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」これはイエス様が弟子たちに向けてお語りになる四つの明解な文として与えられています。

イエス様は弟子たちに平和を保証された。この出来事があったのは復活当日の夜のことでした。エマオからの人たちも戻っていました。トマスがいなかったので他の10人の弟子たちもいました。使徒たちは自分たちも捕らえられ殺されるのではないかという恐れに震えながら戸に鍵をかけた部屋に潜んでいました。その真ん中にイエス様は立たれ、彼らの怯える心と思いに平和を約束してくださいました。恐らくイエス様は弟子たちに会う度に「シャローム」と挨拶されていましたが、この時は弟子たちに対する格別な思いがあったのではないでしょうか。復活の主が弟子たちに「シャローム(平和であれ)」と仰った。

イエス様は弟子たちにご自分の手と脇腹を示された。聖餐式の時のように、しるしによってご自身のことばを確証してくださいました。ヨハネの福音書ではトマスに対して言われました。

第一に平和を保証してくださった。

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネ20:19〜20)

十字架につけられたその手の傷を見せ、脇腹を見せました。弟子たちはそれを見てとても喜びました。

第二にイエス様は使徒たちに宣教という使命のモデルを示された。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネ20:21)

イエス様の使命はクリスマスの出来事、神である方が人間となってこの世に降ってくださった。それを「受肉」ということばで表します。この受肉を含めて、父がわたしを遣わしたということは、クリスマスの時に父がイエス・キリストをベツレヘムの家畜小屋に生まれさせたそのことも含めて、わたしもあなたがたを遣わすのだ。
イエス様が幼子のかたちをとってこの世に来られたということは、全世界の人々にとってかけがえのない素晴らしいメッセージでした。私たち人間の一人となられながら、神ご自身であることをやめられたわけではありませんでした。ただ栄光を一時捨ててこの世に降ってくださったそのイエス様が、今、御父がご自分を遣わされたように私たちを世に遣わそうとしておられる。おおよそ本当の宣教は、イエス様がこの世に来られた、つまり受肉のことですが、この世の人々の世界にそのようにして神さまの教えは入って行くものです。ですから父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わすというのは、受肉を含めるのだということを覚えておいて下さい。

第三にイエス様は私たちに聖霊を約束してくださった。
弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と仰いました。弟子たちは自分たちだけで出て行くべきではありませんでした。聖霊が臨在しない限り宣教は不可能です。私たちに宣教の武具と力を装わせてくださるのは聖霊です。他の箇所でイエス様は弟子たちに、聖霊がくるのを待ちなさいと命じておられます。ここでイエス様が息を弟子たちに吹きかけられたのは、やがて弟子たちが受け取ることになる約束の聖霊が実現の確約を表す比喩的表現でした。

第四にイエス様は弟子たちに、また私たちに救いの福音を委ねられた。

あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。
(ヨハネ20:23)

ここは議論の多いところではありますが、ローマカトリックでは「懺悔」ということが言われています。罪を犯した者が司祭の前で罪の告白をし、告白を聞いた司祭が赦しを与えるということが行われています。私たちプロテスタントの教会ではそのようなことはありません。使徒たちが罪の告白を要求したり、自ら赦しを与えたりする例は聖書のどこにも記されていません。そうではなく、使徒たちは権威をもって救いの福音を宣言し、信じる者は神が赦してくださると約束してくださると宣べ伝えました。罪を赦すのは神さまであり、司祭や牧師ではありません。罪の告白を聞いた牧師や教職は、罪を犯した者と共に祈るものです。罪の救いを信じる者を、神さまは赦してくださいます。

私たちは完全な人間ではありません。罪赦された私たちは、イエス様の十字架によって罪赦されたのだという思いはありながら、ローマ人への手紙7章に記されているような、罪を犯してしまい無様な姿を晒しているところに自分を重ね見ることができる者たちです。罪から解放され、罪を犯さなくても良い自由が与えられていることを頭では分かっていながら、実際にしていることはそうではなく、「私はみじめな人間です」と告白しているパウロと同じ自分を見るわけです。この状態から解放してくれるのは何か。それはローマ人への手紙8章まで進むと答えが与えられています。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
(ローマ8:26)

自分の力では罪の解決はできません。それはやはりイエス様の十字架の血潮のおかげであり、神さまのもとに私たちが罪を携えて出て行った時にだけ神さまは赦してくださる。もしその人が罪を心から悔い改めるならば、私たちはとやかく言う必要はありません。神さまが赦してくださったのですから。

自分が罪を犯したために、教会に集う人たちが何か素晴らしい人のように見えることがあります。教会に集っている人たちがみな聖人ではありません。しかし世間の人たちからみるとそのように見えるわけです。ですから私が罪を犯してしまったという自覚がある時は、こんな私が教会に行けないと考える前に、まず神さまの前に進み出てください。そして罪を心から告白することが必要です。告白をするならば神さまは赦してくださる。そうしたら、教会の兄弟姉妹もそのことを受け入れてくださると私は思います。罪を赦された人は、罪を赦された人としてふさわしい行いが伴っていかなければなりません。そうでなければ「神さまは赦してくださるのだから」と、同じ罪を繰り返してしまうことになります。決してそうではないとパウロは言っています。

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
(ローマ6:1〜2)

私たちはもう一度イエス様を十字架につけてしまうようなことがあってはなりません。犯してしまった罪は心から悔い改めて赦していただくのだけれども、私たちは同じような罪を繰り返さないように気をつけなければなりません。

何度も申しますが、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

このことをいつも自分に言い聞かせていかなければなりません。それが罪を犯さない秘訣です。

私たちは自分だけにとどまっていてはいけません。私たちは世界宣教に遣わされています。まず自分のことを神さまの前に整然として、罪赦された者として立たなければならないのですが、同時に神さまによる罪の赦しを多くの人たちに証ししていかなければなりません。そうでないとイエス様を信じる者は増えていきません。私たちが罪赦されたことの証しをしていく。そうでないと世界宣教は信仰して行きません。

今日はヨハネ版の宣教命令を見てまいりました。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネ20:21)

このことを心に深く覚えてください。