日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年4月22日 主日礼拝「疑い深いトマスに」

    

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書20章24〜29節

説教題

「疑い深いトマスに」

今週の聖句

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。

ヨハネの福音書20章29節

 

 

訳してみましょう。

1979 Christ’s blood makes us safe; God’s word makes us sure.
(キリストの血は私たちを安全にします。 神の言葉は私たちに確信を与えます。)

1980 A drop of God’s wisdom is greater than an ocean of human intelligence.
(神の知恵の一滴は、人間の知性の海よりも大きい。)

 

 

説教メモ

1.主の復活を否定するトマス

イエス様が日曜日の朝によみがえられた。そして何人かの者にご自身を現してくださった。先週取り上げたことです。まずマグダラのマリヤに、墓から帰る女たちに、ペテロとヨハネに、500人以上の者に同時に現れてくださいました。今日はトマスを取り上げますが、ペテロもまた疑い深い人でした。ペテロは私たちにとって馴染みやすいのではないでしょうか。それは性格的に似ているところがあるからだと思います。なかなか頑固なペテロに「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか」と3回迫ってくださいました。それは来週見てまいりますが、今日はトマスです。トマスは主イエス様のよみがえりの朝、弟子たちの前にイエス様が現れてくださった時、そこにはいませんでした。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
(ヨハネ20:24)

トマスが一緒にいなかった理由は書かれていません。恐らくこのことも含めて神さまはトマスを導いていてくださったのだと思います。トマスがそこに居合わせなかったことは、むしろ私たちの為に良かったことだったのかもしれないと、私はここのところを学んでそう感じました。

イエス様の復活を否定するトマスの姿が記されています。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
(ヨハネ20:25)

復活の主が現れた時、トマスはそこにいなかった。なぜ彼だけがいなかったのかは不明。喜ぶ他の弟子たちの姿勢に対して、彼は頑なに「私は信じない」と言いました。この姿勢が後の時代に、トマスが非常に懐疑的な人であるというレッテルを貼ることになりました。疑い深いトマス。英語では「Doutting Thomas」。トマスの頑なさが彼の性格や性質に由来しているのかは分かりませんが、今までユダヤ人を恐れて隠れていた他の弟子たちの豹変ぶりに、トマスは間違いなく驚かされました。また、その知らせが本当ならば「主と一緒に死のう」と言うほどイエスを愛していたトマスを喜ばせたはずです。自分がいない時にイエス様が来られたことに対して、彼は意固地になっていたのかもしれません。

イエス様ご自身は、もちろんトマスがそこに居合わせていなかったことはご存知だったでしょう。承知の上で弟子たちの前に現れたのだと考えることもできると思います。それはトマスの信仰告白と、後の私たち信仰者たちがイエス様を信じるために大切な教えを残すためであったのだと言えるかも知れません。

聖書を読み進めて参りますと、トマスが信じた、つまりトマスの信仰告白が記されています。

 

 

2.トマスの信仰告白

先の主イエスのよみがえりの日の夜から一週間経ちました。イエス様は再び弟子たちの前に現れました。その時、弟子たちが集まっていた部屋の戸は閉じられていた状態。聖書の脚注には「鍵がかけられていた」と説明されていますが、イエス様は彼らの前に現れました。8日後というのは、復活の日から数えるので次の日曜日のことを言っています。

この8日間はトマスにとって辛い期間だったことが分かります。喜ぶ弟子たちを尻目に、一人心を閉ざしていたトマスの姿を思い浮かべることができます。

イエス様のことばは、最初に弟子たちの前に現れた時と同じように、「平安があなたがたにあるように。」でした。主はトマスのためにもう一度、祝福と派遣を繰り返したと思われます。イエス様はトマスに向かって、彼が言った言葉をすべてご存知あられることを示され、彼が願った通り手の傷や脇の傷を示されました。

興味深いことに、イエス様は復活のからだに傷を残しておられたことです。復活のからだが完全なものであるなら、傷を残す必要などなかったでしょう。しかしイエス様は弟子たちやトマスのために、あえて傷を残した姿で現れてくださいました。

トマスは自分が語った言葉を忘れたかのように、イエス様に即座に応じて告白しました。

「私の主。私の神。」
(ヨハネ20:28)

イエス様が神であることを明確に告白する言葉は、新約聖書にそれほど多く書かれていません。

 

 

 

3.見ずに信じる幸い

ヨハネの福音書の冒頭には何と書いてあったでしょうか。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
(ヨハネ1:1)

ヨハネはこのように福音書を書き出しています。「ことばは神であった」。これはヨハネの福音書を貫く一つのテーマです。そしてそのテーマは、このトマスの信仰告白によって完結していることを、私たちは見ることが出来ます。ヨハネの福音書とは、そのような構成で記されているのです。

トマスの不信と頑なな姿勢が、イエス様の大切な教えを引き出すことになりました。それは

「見ずに信じる者は幸いです。」
(ヨハネ20:29)

というおことばです。

この後、復活の主に直接お会いした者も何人かいたことでしょう。聖書は全部それを事細かに記してはいませんが、想像できます。ほとんどの場合、人々は直接イエス様を見て信じるのではなく、弟子たちの証しを通して信じることになりました。今の私たちもそうです。それが使徒の働きの時代から現代の教会に至っています。

教会はイエス様を見ずに信じる者たちの集まりです。私たちは神さまのみことばと使徒たちの証言を通して、「私の主、私の神」と告白できるのです。トマスを通して私たちに与えてくださったイエス様の祝福です。その意味でイエス様は、トマスを信頼し試練とも言える8日間の後に、彼から信仰告白を引き出すために再び現れてくださったのです。これはトマスのためではありましたが、後の時代の、今の私たちのためでもあったと言えるでしょう。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル11:1)

先ほど、イエス様を見て信じた方はおられますかと質問しました。誰もおられませんでした。

 

最初の日の夜、イエス様は10人の弟子たちの前に現れました。その時トマスは不在でした。復活のイエス様にお会いする祝福に与れませんでした。私は、このことは日曜日の礼拝に定期的に来られない人は残念であるという思いに至るのです。

しかし、神さまの憐れみによって次の日曜日にトマスがいるところにイエス様が現れてくださいました。そして先の日曜日には与れなかった祝福に、今度こそ与ることができました。

疑い深いトマスに対し、他の弟子たちが「私たちは主を見た。」と証言した時、トマスはそれを信じるべきでした。事実イエス様はトマスをとがめて仰いました。「見ないで信じる者は幸いである。」と断言されました。

私たちが何かを信じるに至るまでに、そこには主に二つの道があります。一つは私たち自身がその事実を求めて調査すること。今の時代にイエス様が復活したなどと信じられない方は、私は何度も例に出していますが、ある人が全財産をつぎ込んで「イエスの復活などない」ことを証明するために調べ尽くしたように、そのように徹底的に調べるべきだと思います。証明できれば納得できるではありませんか。この例の結果をもう一度申しますならば、この人が出した結論は「聖書が示す通り、確かにイエスは復活された」というものでした。ですから事実を実際に調査することが必要だと思います。

もう一つは、確かに信頼できる人の証言を受け入れることです。ここで他の弟子たちが「私たちは主を見た。」と言った時に、トマスは信じるべきでした。他の弟子たちが誠実で真面目な証人であることを知っていたのですから。同様に、もし今日、すべての人に復活の主を見てくれることを要求するならば、恐らく信じる人は誰一人いないことでしょう。私たちは残念ながら、イエス様の傷の跡に手を入れることはできませんでした。そうではなく、無数の人々は、イエス様の傷の跡を見て、触れた人の証言によって信じるに至っているのです。

実はトマスもまた、イエス様の傷の跡に実際に手を入れてはいないことが分かります。傷に手を差し入れずに、目の前に立たれるイエス様を見て「わが神。わが主よ」と言って信じました。触れて信じたのではなく、見て信じました。私たちはその目で見た人たちの証言を、聖書を通して知らされています。彼らが信じるに値する使徒たち、弟子たちであることを私たちは知っています。信じるに値する人たちの証しです。その証しの信頼性によって私たちは信じています。現在の私たちは使徒たちが復活の主にお会いし、そして変えられたことの証言を聞いたり読んだりして信じることを許されているわけです。

トマスは信じただけでなく告白しました。

「私の主。私の神。」
(ヨハネ20:28)

主を礼拝する者へと変えられました。
そして伝説によりますと、トマスは後に宣教師としてペルシャ、インドに赴いき、そこに教会を建て上げたことが伝えられています。宣教し、そして最後は殉教したと言われています。

 

キリスト教信仰の土台は、今日でも目撃者である使徒たちの証言です。それは確かな証言です。。実際に目撃した人たちの証しが使徒の働きに記されています。

私たちは自分が見たからイエス様を信じているわけではありません。使徒たちが見たと証言しているから信じているのです。新約聖書が絶対的に重要なのは、使徒たちの証しが記されているからです。使徒たちは最初はトマスに口頭で語ったことを、今は文書の形で私たちに語っています。「私たちは主を見た」と、文字に表されているところを私たちは見ているわけです。ですから復活の日、私たちはその場所に居合わせていませんでしたが、使徒たちが会い、8日後にトマスが会い、イエス様を信じる者に変えられたように、2000年の隔たりはありますが、使徒たちが記していることを読んで、私たちはイエス様のよみがえりを信じる者にされました。最初は信じられなかった。それが信じる者へと変えられました。復活はなかなか信じられるものではありません。そう簡単には信じられるものではありません。教会に集い、聖書の話しを聞き、ご自分でも聖書を読み、そのようにして信じる者へと変えられて行く人が多いのです。聖霊が私たち一人ひとりを導いていてくださいます。