日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年4月8日 主日礼拝「エマオ途上にて」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章13〜35節

説教題

「エマオ途上にて」

今週の聖句

彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。

ルカの福音書24章31節

 

 

訳してみましょう。

1975 Humbly accept the word God has planted in your hearts.
(神があなたの心に植えた言葉を謙虚に受け入れなさい。)<ヤコブ1:21>

1976 Live as if Christ died yesterday and is coming back today.
(あたかもキリストが昨日死なれ、今日戻ってこられるかのように生きなさい。)

 

 

説教メモ

1.エマオに向かう二人の弟子

今日の箇所で、エマオへの途上の弟子たちですが、よみがえったイエス様が彼らと合流し、一緒に歩いて質問したり答えられたりしておられたのに、それがイエス様だとは分かりませんでした。しかし最後にはイエス様だと分かりました。

イエス様は復活なさった後に、弟子たちに姿を現されました。しかしただ単に現れただけではなく、復活の意味を説き明かされました。エマオへの途上の弟子たちにおいて明らかなように、弟子たちがまだイエス様の救いの意味を良く理解していなかったためであろうかと思います。弟子たちは多くのユダヤ人と同じように、この世の罪からの救い主ではなく、当時のローマ帝国の圧政からの解放者、政治的な救い主と理解していました。それが当時の一般的なメシヤ観でした。

そんな彼らに対し、イエス様は旧約聖書全体を用いながら、十字架による贖いと復活について説明されました。霊的な主であるご自身を明らかにされました。私たちが手にする聖書はイエス様を証しする書です。旧約、新約と分かれていますが、私たちはその預言の成就に注意しながら、救い主としてのイエス様に対する理解を深められていくように、信仰を深められていくように祈って行かなければなりません。

クリスチャンは復活を信じています。ただ、あまり深い意味が分からずに、ただ復活ということを信じていることもあります。しかし、今日学んでいくエマオ途上の弟子たちは、イエス様の苦しみと栄光に関する旧約聖書のことばをイエス様ご自身から教えられました。そのことによって復活の確信を得ていきました。これは現代に生きる私たちにとっても同じ事です。単に復活を信じようとしても信じられるものではありません。むしろ聖書の証しに耳を傾け、注意深く説明を聞くならば、そこに聖霊が働かれ、心の内に主に対する信仰が段々と燃やされていくことになります。

エマオというところは、エルサレムから11㎞離れたところにあったようです。現在、エマオという村は地図上で4箇所あると言われています。ここでいうエマオがそのうちのどこであるのかは分かりません。エマオが二人の弟子たちにとってどういう場所であるのかも、聖書は明らかにしていません。ですから私たちは推測するしかありません。
弟子の一人は「クレオパ」。もう一人は、多くの学者によってクレオパの妻であると言われています。しかし聖書がはっきり言っていないということは、二人の関係はあまり重要ではないということだと思います。いずれにしても、二人の弟子はイエス様を家に招き入れました。

それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
(ルカ24:29)

もしかするとクレオパ夫妻の家だったのかもしれません。
11㎞ですと、徒歩でおよそ2時間の道のりです。おそらく道すがら、復活の朝の出来事について、空っぽだった墓の謎について論じ合っていたのでしょう。それは単なる噂話ではなく、答えを見出そうとする語り合いでした。

しかし二人の弟子は、まさかよみがえったのだとはこの時思ってもいなかったのでしょう。先ほども申しましたが、彼らのメシヤ観は、当時のローマ帝国の圧政からの解放者、政治的な救い主といったものだったのです。当然、この弟子たちにもイエス様に対する復活の信仰はありませんでした。

 

 

2.イエスとの会話

しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
(ルカ24:21)

と言っています。十字架から三日目になるのだから、もう望みは消え去ったのだということです。

イエス様の復活など嘘だという人が大勢いました。今でもいます。

  • 女たちが墓を間違えた
  • 弟子たちが来てイエス様の遺体を持ち出した
  • イエス様は完全に死んでいなかった

どの説明も、聖書をよく読むならばどれも通用しないことが明らかです。また誰もイエス様は復活しなかったのだということを証明できませんでした。今でも証明できていません。
しかし、イエス様の復活を証明した人たちがいます。アラバマ州の元知事は、その職を辞し、すべての財をつぎ込んでまでも、イエス様は復活しなかったのだということを証明しようとしました。二年あまりイスラエルに移り住み、徹底的に調べ努力しました。その結果彼が導き出した答えは、イエス様は聖書が言っているとおり、よみがえられたのだということでした。

イエス様の復活が信じられないと思っておられる方は、もっと時間と財を使って調べてみてください。そしてどういう結論に導かれるか、ご自身で確かめていただきたいと思います。

弟子たちは十字架から三日目に、イエス様を丁寧に埋葬しようとして墓に行った女性たちから、イエス様は復活したのだという知らせを聞きました。実際に墓まで行き確かめた弟子たちもいました。そして空の墓を確かめました。

エマオ途上の二人の弟子は、何も確かなことは言えないとして、望みは絶たれたと考え始めていたのでしょう。

その二人の弟子の目が開かれるのが25〜35節に書かれています。

 

 

3.復活のイエスと出会う

イエス様は彼らの不信仰と心の鈍さを指摘されました。そしてご自身が必ずそのような苦しみを受けてから栄光に入るはずであったことをモーセの5書、および預言書から始めて、旧約聖書全体を通してご自分について書いてある事を説き明かされました。

十字架と復活は旧約聖書を通して語られてきた中心的なテーマです。旧約聖書はイエス様の十字架と復活を一貫して語っています。

エマオの村に近づくと、イエス様はまだ先に行かれるようだったので、彼らはイエス様とともに語り合ううちに、イエス様に対する意識が変えられたようです。是非一緒に泊まってくださるようにと申し出ました。そして彼らはイエス様とともに食事をしました。イエス様はパンを裂きました。これはイエス様がいつもしておられたことであり、聖餐式ではありません。普通の食卓にあずかるときにイエス様はパンを取り、感謝してそれを裂きました。それによって彼らの信仰の目が開かれました。傍に一緒におられたのがイエス様だったことが分かったのです。

二人はエルサレムに戻ると、これらの出来事を証ししました。

今朝の「世の光」の放送では、安海靖郎先生が「心の目を開いてください」と聴衆者に呼びかけておられました。私たちも心の目を開かせていただき、復活の主にお会いするのです。

イエス様は途中で二人の弟子に寄り添って話しをされました。二人の弟子と道連れとなって、二人の話を聞き、そして聖書からご自身のことを話して聞かせてくださいました。
今の私たちにとって、イエス様はどのような人と道連れとなってくださるのか。それは第一に「失望している人」です。例えば事業に失敗して、あるいは人間関係で失敗して自分に失望している人に、イエス様は寄り添ってくださいます。第二に「自分が置かれている状況が分かっていない人、分からない人」にイエス様は寄り添ってくださいます。第三に「罪の中にいる人、罪を犯してしまいどうしたら良いのか分からない人」にイエス様は寄り添ってくださいます。自分はクリスチャンなのに罪を犯してしまった。もう一度赦していただけるだろうかという思いの中にいる人。クリスチャンなら誰でも経験していることではないでしょうか。イエス様が自分の罪の為の身代わりとなって十字架で死んでくださった。にもかかわらず、なぜ私は愚かな罪を再び犯してしまったのだろうと、弱さを覚えている私たち、もう一度立ち直りたいと願っている私たちに、イエス様は道連れとなり寄り添ってくださいます。そのようなお方です。

二人の弟子はイエス様がパンを裂かれたイエス様の姿を見て、「この方はイエス様だ」と分かりました。気がついたのです。その途端、イエス様は見えなくなってしまいました。目で見ることが出来ないにもかかわらず、それでも共におられるイエス様を信じて生きる恵みの時代へと彼らは変わっていきました。

私たちの現実は不可解なことが沢山あります。しかし不可解なままでも人生を肯定できます。何故でしょうか。それはイエス様の側で配慮してくださるからです。必要ならばイエス様の方から近づいてくださる。一度イエス様にお従いすると決めたならば、歯を食いしばってでもどこまでもついていくのだと願っても、そんな自分の願いはいつも途中で挫折してしまいます。むしろイエス様の方から、そんな弱さを持つ私たちに近づいてくださる。私たちの道連れになってくださる。それがクリスチャンが生かされている証拠だと思います。

もう一つのことは、私たちは聖書全体をとしてイエス・キリストという方を知ることができます。旧約聖書は大きく分けると、律法、預言者、詩篇と三つに分けることが出来ますが、聖書が救い主の苦難と栄光についてどう教えているかについて、イエス様は説明されました。イエス様はすでにこう仰っています。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
(ヨハネ5:39)

ですから、私たちは聖書を読むとき、イエス様がどのようなお方であるのかが分かるのです。

また、私たちはパンを裂くことによってイエス・キリストという方を知ることが出来ます。エマオ途上の弟子たちは、イエス様の手の傷を見たり、声を聞いたりして気付いたかもしれませんが、そのこと以上にルカはここで二人の記憶が呼び覚まされたことを強調する四つの動詞を書いています。それは「パンを取り、感謝して裂き、それを与えた」ということです。四つの動詞を通して二人の目は開かれました。イエス様であることが分かったのです。

彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
(ルカ24:35)

二人はパンを裂かれた時にイエス様だと分かったと言っています。多くのクリスチャンも同じような経験を証ししています。有名なジョン・ウェスレーのお母さん、スザンナさんもそのうちの一人です。彼女はある日、聖餐式の式文の言葉が語られたときのことを彼女はこう告白しています。「言葉が私の心の奥深くに突き刺さりました。神がキリストにより私の罪のすべてを赦してくださったことを、はっきりと悟りました」。

クレオパとその連れとが復活の主を認める事ができたのは、二つの手段によってでした。そしてそれらによって私たちもまた、今、主を認める事ができるのではないでしょうか。

  • 聖書を通して
  • パンが裂かれることによって

つまり、神さまのことは聖書と聖礼典(聖餐式)によって私たちは復活の主と出会うのであります。多くのクリスチャンは教会に行く。それは復活の主に会うため。教会に行きイエス様を信じている人たちと一緒に復活の主に会うため。ですから喜びがあります。週の初めの朝には色々なことがあります。やることが沢山あります。しかしその中でまず教会に行き、主に愛された兄弟姉妹共々に主の聖餐に与りましょう。私は毎週聖餐をしても良いのではないかと思っています。実際に毎週やっている教会もあります。そして毎週毎週、主の日の礼拝に来るときに復活の主にお会いするのだという、そんな喜びをもって皆さんが教会に来られると良いと思っています。

皆さんが復活の主にお会いしよう、お会いするのだという思いで教会に来られることはとても素晴らしいことだと思います。