日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年5月6日 主日礼拝「宣教命令」

    

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章44〜49節

説教題

「宣教命令」

今週の聖句

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

ルカの福音書24章46〜47節

 

 

訳してみましょう。

1983 Grace is when God gives us good things that we don’t deserve.
(恩寵は、神が良いものが与えられるのに値しない私たちに、良いものを与えてくださることです。)

1984 Mercy is when God spares us from bad things we deserve.
(憐れみは、神が悪を受けるのに値する私たちを、悪から助けてくださることです。)

 

 

説教メモ

1.ルカの福音書にある大命令

私たちが宣教命令と聞くと、マタイの福音書28章の「大宣教命令」を思い起こすのではないでしょうか。しかしルカもまた、ルカの福音書の中でイエス様の宣教命令を私たちに訴えています。

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24 46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24 47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
(ルカ24:45〜47)

ルカが私たちに語っている宣教命令。そこには5つの真理が述べられているとある人は言っています。

  1. 二重の出来事が書かれている
    イエス様の「死」と「復活」。福音(良い知らせ)は歴史上の出来事から始まってきます。出来事があるからこそそれが体験になり得るのです。
  2. 二重の宣言がある
    十字架に付けられて復活されたイエス様の御名を基として、「罪の赦し」と「悔い改め」が宣言されています。確かに福音は無代価に与えられています。何か私たちが良い行いをしたから救われるのではなく、恵みです。受けるに値しない私たちに与えられる、神さまからの一方的な憐れみです。イエス様の方向に向きを変えるということは、同時に悪から向きを変えることでなければなりません。それは罪からイエス様の方に向き直ることです。
  3. 二重の視点がある
    「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に」と47節に書かれています。ここには「ユダヤ人」と「異邦人」の二つの視点があります。神さまの福音はエルサレムから始まってあらゆる国々の人々に伝えられなければなりません。異邦人に信仰の戸を開くことによって、神さまはユダヤ人の戸を閉じられるわけではなく、ユダヤ人も救われなければならないということです。
  4. 福音は二重に承認されている
    それは44節「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということ」つまり旧約聖書は全て成就するということ。そして48節「あなたがたは、これらのことの証人です。」ここのあなたがたとは使徒たちのことです。旧約聖書の言われていることと、これからあなたがた、つまり使徒たちがこれらのことの証人であると言われています。福音は旧約聖書と新約聖書とで、二重に承認されています。
  5. 二重に遣わされる
    宣教大命令には二重の派遣が含まれています。49節「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」これは聖霊のことです。聖霊は弟子たちに派遣されるのです。そして弟子たちがこの世に遣わされます。ここに二重の派遣があります。同時進行です。聖霊は宣教のために派遣される霊であられます。

このようにして復活の主は、私たちにご自身の復活について、美しく均整の取れた分かりやすい説明をしてくださいました。私たちは旧新約聖書に従って、私たちに与えられる聖霊の力によって、私たちのために死んでくださり、よみがえってくださった方を基として、悔い改めと罪の赦しを全ての人々、ユダヤ人と異邦人に宣教するようにと使命が託されています。この宣教の務めは共に手を携えて進めていくことが私たちの務めです。

これらのことがルカの福音書の中で宣教命令として伝えられていることです。

 

 

2.死に対する勝利

それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
(Ⅱテモテ1:10)

これは使徒パウロが言っていることです。

死ぬのが怖いと仰る方がおられます。永遠のいのちを信じているクリスチャンの中にも、やはり死ぬのが怖いと仰る方がおられます。それは決して不思議なことではありません。

恐らく人は誰でも死ぬのが嫌なのではないでしょうか。特に日本では「死(し)」から「四(し)」を避ける傾向があるほどです。病院の診察室や病室には「4」の付く部屋は少ないと思います。日本のゴルフコースでは4本の木を植えることは考えられないことなのだそうです。日本の文化とも言えます。
日本の地域社会では、葬儀はとても大事な営みです。日本人は死を敬遠しながらも、いざ死んでしまうと厳かに弔うのが日本の文化、しきたりです。

イエス様は弟子たちに、死という恐ろしいことから救い出してくださる「わたしは〜である」という表現を何度かしておられます。私たちの教会のお墓には「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と掘られています。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11 26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
(ヨハネ11:25〜26)

ここでイエス様はご自分に従う者たちに、ここでも二重の約束をしてくださいました。生きていて信じる者は決して死なない。イエス様がその人のいのちをなってくださっていること。死は人生の一コマであるかのように捉えられています。信じて死んだ者の場合は、もう一度生きることになる。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」キリストがその人の復活となっておられるからです。このような意味で、キリストは生きる者たちのいのちであり、死んだ者たちの復活であると、二重の祝福があることを仰っています。イエス・キリストは「いのち」と「死」の両方において、変革をもたらしてくださいました。

今、イエス様が再臨なさったら私たちはどうなりますか。私たちは天に引き上げられます。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」死を味わうことはありません。
しかし、すでに墓に葬られている信者たちに対しては「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と仰っています。

イエス・キリストの復活と、それによって死が征服された事実から言われることです。そのことを思うと、死とはそれほど恐れるものではないのではないかと思います。

私はいつ死んでも良いと思ってはいますが、もし今晩死ぬと分かったならばどうなるだろうかとも思います。神さま、もうちょっと待ってくださいと訴えるかもしれません。多少なりともこの世に未練があります。もう少しやりたいという思いがあります。しかし、永遠のいのちが与えられており、いずれ神さまのもとに行くことが出来るという約束がありますから、世間一般が抱く死に対する思いとは違うと思います。クリスチャンには永遠のいのちが与えられている。イエス様が「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」と、はっきり宣言しておられる。ですからそんなに心配することはありません。

私たちはどのような形でこの世を去るかは分かりません。病気や自然災害、事故など、この世から取り去られる形は様々であり、私たちには分かりません。しかしクリスチャンとして死の準備がきちんと出来ているなら、死はそんなに心配することではありません。

 

 

3.世界大の宣教

28 18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28 19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28 20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:18〜20)

私たちが「大宣教命令」として受け止めていることです。

これはイエス様の復活に基づいていることです。イエス様が復活してくださったから、このように仰いました。
宇宙大の規模の宣教命令です。それを私たちは受けているのです。

イエス様は宇宙規模の権威を主張なさっています。これは復活後のことです。

旧約聖書では「やがてあなたがたに救い主が与えられる」と伝え、イエス様が死んでよみがえってくださったこれからは、「あなたがたがすべての国に行って宣教するように」と伝えています。ですから教会から外に向かっていくのです。
同心円を想像してみてください。静かな水の上に小石でも投げ込むと、小石が落ちたところを中心に輪が広がって行くではありませんか。イエス・キリストの十字架と三日目のよみがえり、それは教会から始まって段々広がって、世界大、宇宙大に広がっていくものです。
教会が外に向かって進み出ていく時です。それはどこが転換点であったかというと、イエス様の復活です。復活されたイエス・キリストは宇宙規模の権威を主張することができました。その権威を行使して、弟子たちに出て行くことを命じられました。

宣教とは、主なるキリストの召しによって派遣されることです。

イエス・キリストの宇宙規模の権威と、教会に託された宇宙規模の使命。この根本的な結びつきは聖書全体にみなぎっている事実です。神さまはイエス・キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をイエス・キリストにお与えになりました。つまり最高位のランクにつけられました。ですからすべての者がイエスの前に膝をかがめ、すべての者がイエスは主であると告白するようになります。もし神さまが復活なさったイエス・キリストに宇宙大の権威が払われることを望んでおられるのなら、私たちもまたその望みを持つべきです。イエス・キリストはよみがえってくださったゆえに、この宣教のわざは全世界に宣べ伝えられるのです。

これは私たちの宣教、あるいは証しの根本になっていることです。

 

5 20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
(Ⅱコリント5:20)

私たちはキリストの使節。神さまと人との和解の使節です。そのために私たちは用いられます。
「使節」「大使」とは、母国の言っていることをそのまま他国に伝える役割を持っているものです。そこには自分の思いや考えを加えることはしません。ただ伝える。その単純な仕事をする者です。
私たちは、和解の福音を宣べ伝えるキリストの使節である。このことを決して忘れてはなりません。
私たちは隣人に対して、あるいは家庭の中の救われていない人に証しをする。福音を知っている私たちは、その福音を伝える役割があります。私たちの思いや考えではなく、ただ福音をそのまま伝えるのです。

福音とは何でしょうか。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと……。

聖書がこう言っていることを宣べ伝えるのです。福音の使節として福音を単純に宣べ伝えて行くのです。
人々に福音を伝えるまでに、一緒にお茶を飲んだり、相手と親しくなったりと、色々なプロセスがあるでしょう。出会って突然すぐに伝えられるものではありません。色々な準備が必要です。隣人を愛する。自分を愛するように、隣人を愛するようにとイエス様は仰いました。それは隣人が聖書の真理に触れて悔い改め、そして救われることを望むことです。そのために証しをして行くのです。大宣教命令は、私たちのすぐそばの隣人に対してから始まります。私たちは彼らが救われることを願い、何らかの形で証しを続けて行きましょう。私たち一人ひとりが宣教師なのです。