日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

ヘッダー

2018年6月24日 主日礼拝「エペソ伝道」

    

本日の聖書箇所

使徒の働き19章1〜20節

説教題

「エペソ伝道」

今週の聖句

こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなっていった。

使徒の働き19章20節

 

 

訳してみましょう。

1997 To make the most of your life, make God’s goals your goals.
(あなたの人生を最大限に生かすために、神の目標<御心>をあなたの目標にしなさい。)

1998 We may successfully fool others, but God knows our hearts.
(私たちは他の人をうまく欺くかもしれないが、神は私たちの心を知っている。)

 

 

説教メモ

1.エペソにて

パウロたちがアジヤからヨーロッパに渡り、コロサイ、テサロニケ、ベレヤなどを通ってアテネに行きました。時間の関係上、全てを学んでいくことはできません。今回はコリント伝道を割愛しまして、エペソ伝道のところを見てまいります。

その前に数人の人物を紹介します。それは、プリスキラとアクラという夫婦、そしてアポロという雄弁な伝道師のことです。

コリントにいた時にアレキサンドリヤ生まれのアポロという非常に雄弁な人がいました。ところが彼には足りないところが一つありました。彼は旧約聖書にとても秀でていましたが、新約聖書のこと、特にイエス様のことや聖霊が降られたことは何も語りませんでした。恐らく何も知らなかったからだろうと思います。コリントの手紙を見ますと、コリントの教会では後に、「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」、また「私はイエスにつく」などといった分派が起こりました。アポロの名が上げられるほど、アポロには影響力があった伝道師だったことが分かります。しかし先ほども申しましたが、彼は聖書全体を把握していなかった、つまり新約聖書のことを知らなかったところがありまして、そこが彼の欠点でした。
その彼の足りなかったところを優しく正してあげたのがプリスキラとアクラという夫婦でした。アクラが夫でプリスキラが奥さんです。彼らが初めて登場したのは、パウロがコリントに来て伝道を開始した時、使徒の働き18章2節になりますが、そこに初めて登場します。夫のアクラはポント州という所の出身で、夫婦共にユダヤ人クリスチャンでした。ローマの皇帝がクラウディアの時に、ユダヤ人追放令が出されました。その時ローマに退去してきた「信徒牧会者」でした。彼らはパウロのコリントでの伝道開始の時から、パウロを自分たちが天幕作りを生業としていた家に住まわせて、パウロも同業者でしたから、共に天幕作り、テント作りをしていました。パウロは2年間この夫婦と一緒に暮らし、一緒にテント作りをしました。そしてその間、ツラノの講堂というところに出入りしてエペソ伝道をしました。夫婦はパウロの働きを助けました。

パウロはコリントでの伝道を終えてエペソに行くと、二人も共に移り住んで、パウロとともに福音伝道の働きに携わりました。彼らはアポロが聖書を正確に捉えていないことをシルト、二人は聖書から正確に説明し、アポロを福音宣教師として送り出すという、重要な役目を果たしました。

彼らはパウロのエペソでの約3年の伝道の期間を支えました。そしてパウロが去った後、再びローマに戻って伝道しました。パウロはコリントから書き送ったローマ人への手紙に彼らのことが記されています。ローマ人への手紙16章3〜4節です。

その後の彼らについては、パウロの生涯最後の書簡であるテモテへの手紙第二4章19節にその名が記されております。彼らはローマでパウロを支え、再びエペソへ戻り、指導者テモテをそこで助けたのではないかと言われています。彼らは主の福音宣教のために心を合わせて生活のすべてを主のために献げた「信徒献身者」でした。今日のように会堂がなかった時代には、信者のそれぞれの家が教会でした。彼らはそのただ中に臨在される主を喜び、褒め称える礼拝の生活をしていました。そして社会に根ざした日々の生活の中で、心を一つにして生ける主、イエス・キリストを人々に伝えていました。

このような彼らの生活は聖霊に満たされた主の共同体、言うならば夫婦という、あるいは家庭という共同体、また教会という共同体がどういうものかというのを、私たちに具体的に示すものではないだろうかと思います。

アポロ、プリスキラとアクラのことを頭のどこかに留めておいてくださって、今日のエペソ伝道のお話しを聞いて頂ければと思います。

 

第3回のパウロの伝道旅行が始まって行くわけです。パウロは第2回の伝道旅行が終わってすぐに第3回目の伝道旅行に出発しました。この間、どれくらいの期間があったのかは分かりませんが、18章23節を見ますと「しばらくいて」とありますので、ほんのごく短い期間だけエルサレム留まって、すぐに第3回目の伝道旅行へと、非常に慌ただしく出て行ったことが分かります。

第3回の伝道旅行の期間は、紀元53年から56年くらいの間であろうと考えられています。パウロはこの期間の大半をエペソで過ごしています。約3年間。
またこの伝道旅行には複数の同行者がいたと思われます。それはテモテ、エラスト、ガイオ、アリスタルコ。
エペソは小アジヤにあるローマの属州、アジヤ州の首都と言われています。地図をご覧いただいて、エペソの位置をご確認ください。エペソはアルテミスの神殿があることで知られていました。アルテミスとは豊かさ、多産の象徴の神さまでした。

 

 

2.イエスの御名

エペソに来たパウロは、聖霊を受けていない弟子たちがいた、つまり先ほどのアポロに導かれた弟子たちのことなのですが、彼らはヨハネのバプテスマ、すなわち悔い改めのバプテスマは受けていましたが、イエス様の名によるバプテスマは知りませんでした。パウロの言葉を素直に受け入れた彼らは、イエス様の名によるバプテスマを受けました。そしてパウロの按手によって聖霊を受け、異言を語ったり預言をしたりしました。パウロの按手によって人々が聖霊を受けたことは、パウロが他の12使徒と同様の権威を受けていることを表しています。

8〜17節に進んで参りますが、パウロはエペソにおいても今までと同じように、まず会堂に入って語りました。ユダヤ人が住んでいるところには「シナゴーグ」と呼ばれるユダヤ人の会堂が方々にありました。ですからパウロがまずシナゴーグに行ったということは、「福音は、まずユダヤ人に」という思いがあったからでしょう。そこにいる人々を説得しました。会堂において3ヶ月もの時間をかけて論じましたが、ユダヤ人のある者は心を頑なにして、人々の前でパウロをののしったために、パウロは会堂から退去しました。そして「ツラノの講堂」というところに移ったわけです。約2年間、そのツラノの講堂で語り続けました。ツラノは地名ではなく、ある人の名前です。所有者が創設者の名前だったと考えられています。そこは広く開放されていたようで、誰でもそこで語ることができたようです。パウロはその日の天幕作りを終えると、人々が集まってくる昼の時間帯にそこで語っていたと思われます。

そこで腰を据えて語り続けたぱうろの精力的な伝道は、豊かな実を結んで、アジヤ全域に主のみことばが響き渡りました。また同時にパウロは、主の御名によって多くの奇跡を行いました。彼の手ぬぐいや前掛けにすら病気を癒し悪霊を追放する力が宿るほどでした。いかにパウロが聖霊に満たされていたかが分かります。もちろんそのものに力があるわけではなく、イエスの御名の権威に力があったわけです。パウロがイエスの御名によって語ったゆえに、パウロの色々な身につけているものなどが用いられたということです。

パウロの伝道が成功すると、真似をしようとする輩が出てきました。ユダヤの祭司長スケワの7人の息子たちが、パウロを真似てイエスの名による悪霊の追い出しを試みました。ところが逆に悪霊に憑かれている人に襲われてしまい、手ひどい失敗をしました。このことでいよいよエペソに住む人々は恐れを感じ、イエスの御名を崇めるようになりました。エペソ全域にパウロの働きが伝えられていました。

 

3.エペソで広まる主のことば

聖書の最後に黙示録があり、そこに7つのトルコの教会が出てきますが、それはこの時、パウロたちがエペソに滞在していた時に、トルコの色々な教会が後に出来てきたわけですが、その色々な地方からパウロの噂を聞いてエペソに来て、人々はパウロの説教を聞きました。そこで信じた人たちが自分の国に帰り、教会を建てました。その教会に宛ててヨハネは書簡を書きました。

エペソで広がっていった主のおことばが書かれています。

そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。
また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。
こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。
(使徒19:18〜20)

主を恐れた人々に悔い改めのムーブメントが起こりました。
まず信じた人々は、自らの罪を告白しました。罪の告白と悔い改めは、罪からの解放を与えます。エペソの多くの人々は異教的な魔術に支配されていました。多くの人々が魔術に関する書物を持っていました。それらを捨てることが示されました。このことに関してパウロの具体的な指示があったかどうかは分かりませんが、真の神さまへの信仰が示され、ならば偽りの神々を捨て去ることを選ぶのはごく自然な成り行きではないかと思います。人々は魔術の書物を携えて来ては、皆の前で焼き捨てました。その焼き捨てられた本の値段の合計は銀貨5万枚にもなりました。現在の価値に換算するならば、ある注解書によると、これは5万人の人に対する日当に相当するということでした。日当が1万円とするなら、5億円にもなります。とんでもない学です。チェーン式聖書には250万円と書かれていますが、計算の仕方によってはだいぶ変わってきます。いずれにしてもかなりの高額であり、それだけ多くの魔術の書物が出回っていたということです。

パウロのエペソでの伝道は、このように豊かな実を結びました。

こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。
(使徒19:20)

前にも申しましたが、エペソ伝道の成功の背景には、パウロの忍耐強い、腰を据えた約3年間の働きがありました。

この後、エペソにおいて暴動が起こりました。パウロはエペソから引き上げざるを得なくなり、離れることとなりました。しかしこの時の宣教によって生み出されたエペソの教会へ、後にパウロは素晴らしい手紙を書き送っています。この手紙は現代の私たちに「教会とは」「クリスチャンのあり方」を示しているものとなっています。

 

ここから二つのお話しをしたいと思うのですが、一つは、彼らは悪い習慣から立ち直ってイエス様を救い主と受け入れて、悪い習慣を断ち切ったということがあります。これは私たちにとっても大切なことです。今まで自分がしてきた何となく捨てきれない悪い習慣があるなら、それを捨てきる必要があります。それが悔い改め、悪い習慣から立ち直ることです。それが必要です。今日の箇所では悪い書物を焼き捨てたとなっているところです。私たちもイエス様を信じていながらも、未だに捨て切れていない悪い習慣があるならば、きっぱりと悔い改めて捨てる覚悟をしなければならないことが求められているのではないかと思います。

もう一つのことは、前に申しましたがパウロは一人で宣教していたのではなく、同労者がいたのだということです。プリスキラとアクラがいました。アポロもまたパウロの同労者と言って良いでしょう。パウロとアポロはあまり接近したということは聖書に書かれていません。ですが、後にパウロがアポロの働きを認めていました。ですから、パウロが一人でエペソ伝道をしたというわけではないのです。同労者がいてエペソでの伝道、エペソだけではありませんでしたが、伝道の成功がありました。パウロは神の国を継承していくことの必要を見据えて、テモテであったり、アクラとプリスキラであったり、エパフロデトなど色々な人たちがパウロの後継者として出てくるわけです。ここで皆さんに知っておいて頂きたいのですが、私も何気なく「私の後継者」という言い方をしてしまうのですが、正しくはそうではない。「教会のわざを受け継いで行く人」それが後継者です。今、私たちの教会から神学生を送り出していますが、それは私の後継者ではなく、教会の働きを受け継いで行く人、そのような意味での後継者ですから、そこを誤解のないように受け止めていただきたいとお願いしたいと思います。福音伝道の後継者です。
パウロが恐らく約2年少しいた時、すでにパウロの弟子たちもツラノの講堂で教えていたのだと思われます。実際にパウロが去った後、弟子たちがパウロの働きを継承しました。

騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。
(使徒20:1)

彼らはパウロの弟子というよりも「キリストの弟子」であり、パウロの同労者として神の国をアジヤやヨーロッパに広める役割を担っていたと思われます。
私たちの現代の教会においても、牧師の後継者という考えではなく、教会の働きを受け継いで行く者という視点から見ていく必要があるのではないでしょうか。信徒であっても自分たちが教会の働きの継承者となるという自覚で聖書を学び、また次世代に継承していかなければなりません。牧師の賜物次第で教会の働きと成長が決まるような教会形成であってはいけないのです。牧師は自分の弟子ではなく、主の弟子を育てる必要があります。主の弟子となった教会が次世代の牧師を生み出すべきなのです。教会は個人主義でも、個人を犠牲にする集団主義でもありません。神の家族です。家族ということは、どういうことでしょうか。結婚すればやがて子どもが生まれます。そのように家族というものは継承されていきます。教会の働きも長期的に成長していきます。

先ほども述べましたが、アクラとプリスキラ。彼らは信徒伝道者でした。いわゆるパウロのような使徒ではありませんでした。皆さんと同じ信徒でした。職業も天幕作りという仕事を持っていました。それをしながら、つまり自給しながら伝道に励んでいました。
宣教師のタイプには大きく分けて二通りあります。一つは教会またはクリスチャンの人たちに毎月サポートをいただいて宣教地に出て行くタイプ。もう一つはそのようなサポートをもらわないで自ら生計を営みながら福音を伝えていく。それを「天幕伝道」と言います。「テントメイキング」と呼ばれる働きがあります。言うなれば、私も天幕伝道をしてきました。私は安茂里聖書教会の時代、前の牧師が色々な事情で転勤になってしまい、無牧になってしまった時があり、しかし同盟教団は私の当時の家内が神学校を出ていたというのが一つの理由だったのかも知れませんが、彼女は実質的に何もすることなく、私が表向きは牧会していました。それなのに教団は新しい牧師を送ってくれませんでした。3年間無牧となったのです。その間、私は皆さんの前で説教をしました。いわゆる信徒牧会をしたのです。そして3年間経った頃、ある先輩牧師、神学舎の島田福安先生が伝道集会に来てくださいまして、その時、島田先生が私に神学校行きを勧めてくださいました。私は羽鳥明先生、舟喜順一先生という以前からの人脈もあり、神学校に行くなら神学舎と決めていましたから、そこに行きました。三年間、神学舎に毎週通いました。当時は急行妙高という夜行列車がありました。それに乗ると朝の6時頃神学舎に着きました。その時間には学校ではすでに皆さん起き出していて、掃除や食事をしていました。そして火曜日の朝の一時限目から、土曜日の午前中の授業まで出ました。土曜日の授業が舟喜順一先生の組織神学の授業でして、先生の授業というのは必ず時間通りに終わらず、2〜30分延びました。私は長野に帰ってその日に塾で生徒たちを教えなければなりませんでしたから、授業の延長が終わる前に教室を出て行き、特急に乗って長野に帰ってきました。土曜日の夜の塾講師、日曜日の礼拝メッセージ、日曜日の夜の塾講師、さらに月曜日も昼間と夜の塾をやって、また夜行列車の急行妙高に乗って学校へと戻っていく。そんな生活が3年間続きました。良く続いたね、とお褒め頂いたこともありましたが、私自身はそれほど苦労したなどとは思っていませんでした。神さまに行けと言われたのだから、神さまは必ず支えてくださるだろうという確信がありました。それで3年間、たいした病気もすることなく、無事に終えることができました。ですから無牧の4年間、そして私の神学校の3年間、合わせて7年間、私は信徒伝道者として牧師のような働きをしてきました。1984年に神学舎を卒業し、その年の4月から正式な牧師として働きました。私にも7年間の信徒牧会の時期があったということ。その間、色々なことで神さまの支えがあったことは非常に感謝なことでした。そして現在に至る、なのです。

パウロがエペソでの伝道を多くの同労者とともにしてきたこと。そして多くの信じる者が起こったこと。昼夜を問わない福音宣教の働きをするパウロの姿などを今日は見てきました。
私たちも神さまの国の継承者を生み出していく必要があります。そのことを覚えてまいりましょう。そして皆で協力し、この教会をもり立てて頂きたい。そう願うものであります。