日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年7月29日 主日礼拝「七つの教会へ①」

    

本日の聖書箇所

黙示録2章1〜17節

説教題

「七つの教会へ①」

今週の聖句

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

黙示録2章4節

 

 

訳してみましょう。

2007 Does your life shed light or cast shadows?
(あなたの人生は光を放ちますか、それとも影を落としていますか?)

2008 Be on guard against evil, or you’ll be influenced by it.
(悪魔に逆らって防御していなさい。さもなければ悪魔によって影響を受けるでしょう。)

 

 

説教メモ

ヨハネの黙示録1章をご覧ください。
ご存知のように、これは私たちが手にしている聖書66巻最後の書物です。冒頭には「イエス・キリストの黙示」。このように記されています。そして1章においてヨハネは、一度十字架につけられ、そして今は栄光をお受けになったイエス様の荘厳な幻を与えられました。主はご自身を最初であり最後であり、生きている者であると仰っています。また、地上の王の支配者であるとも仰っており、この称号はローマ帝国の皇帝を指すものでありました。

黙示録は2章に入ると場面が一転します。復活し、栄光に包まれたイエス様が地上にあるご自身の諸教会を巡回し、指導しておられる姿がここにあります。イエス様はヨハネに対して、ローマ帝国のアジヤ州にある7つの教会それぞれに手紙を書くようにと命じられました。7つの手紙はみな同じ構成を持っております。その教会の状況を把握していると断言しているキリストのことばから始まり、それぞれの教会にふさわしい賞賛か責めかが語られ、そして勝利する者に対する約束で終わっています。7つの教会はそれぞれ歴史と地域を越えて広がる教会の様々な側面を示していると見なすのが自然でしょう。同時に理想的な教会とはどのような特徴を帯びているのかも教えていると思います。

本朝は最初の3つの教会について見てまいりましょう。

 

 

1.エペソの教会への手紙

まずエペソ教会の手紙です。
一言で言えば「愛」がテーマとなるでしょう。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
(黙示録2:4)

皆さんにとっての初めての愛とはいつでしょうか。「私とキリスト」との間の初めての愛です。イエス・キリストとの出会いの時です。人それぞれ様々な形があったかと思います。イエス・キリストと出会った時、心の中に何かあたたかなものが満ちるような感じがしませんでしたか。ジョン・ウェスレーという人は、ある時読まれたローマ人への手紙の冒頭のみことばに触れたとき、ほのかに自分の心があたたまってきた、熱くなってきたのを覚えたと言っています。彼は本当の意味で、その時神さまの愛に触れました。そして彼は変えられて行きました。皆さんはどうでしょうか。

さて、エペソはどの辺にあるか分かりますか。エペソはパウロの伝道旅行においても拠点となった地でした。エペソはローマ帝国のアジヤ州の州都でした。その町の住民は自分たちの町をメトロポリスと呼ぶことを好んでいたようです。商業の中心地であり、また世界の七不思議であるアルテミスの神殿を擁していたことを誇っていました。
さらにエペソの教会には褒められるべき点も多々ありました。イエス様は特に3つの美徳を挙げられています。

  • 堅実な行動
  • 困難な状況への忍耐
  • 神学的な識別力、悪を許しがたいこととすること

それにもかかわらず、エペソ教会が模範的な教会に見えたとしても、イエス様にとっては不満がありました。エペソ教会の美徳の全ても「最初の愛から離れてしまった」という欠点を埋め合わせることはできませんでした。エペソ教会の人々が回心したときのイエス様に対する愛は疑いなく熱く新鮮なものでした。しかし今は、火は燃え尽きてしまった。ヤハウェの神がエルサレムに関してエレミヤに語った不満が思い浮かびます。

わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。
(エレミヤ2:2)

エペソの教会もエルサレムのようになってしまっていました。天の花婿は花嫁の最初の愛の高まりに戻ることを切望しておられました。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
(黙示録2:5)

愛なしには全てのものは無いに等しいのだということです。
このおことばを聞いて、皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。私は数学を子どもたちに教えることがあるのですが、子どもたちが問題が分からないと言う時、「どこから分からなくなってしまったのか」と問います。どこまでが分かっているのか。分からなくなってしまったところまで戻って学び直せば大丈夫だと言います。

私たちの愛も同じです。イエス様は初めの愛から逸れてしまったと仰いました。いったいどこから逸れてしまったのだろうか。そのことを思い起こし、そこへ戻り、そこから再出発しなさいと仰います。

エペソの教会は評判が良かったのです。エペソ人への手紙では、あのパウロもエペソの教会を称えています。

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
(エペソ1:15〜16)

エペソの教会は愛に溢れていたようです。しかしそんなエペソの教会は、初めの愛から離れてしまったとイエス様からお叱りを受けました。そのことを心してエペソの教会、いや、私たちは受け止めていくべきではないでしょうか。

 

 

2.スミルナ教会への手紙

エペソから少し北に、スミルナというところがありました。

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
(黙示録2:10)

エペソの教会へのテーマが「愛」だったとすると、スミルナの教会へのテーマは「苦しみがある」ということです。苦しみがあるのだから承知していなさいということです。

模範的な教会の第一のしるしが「愛」、第二のしるしは「苦難」です。キリストのために喜んで苦難を受けようという思いが、私たちのイエス様に対する愛の純正さを証しするのです。本当のクリスチャンであるならば、キリストのための苦しみを受けて当然であるということです。

スミルナ。現在はイズミルと呼ぶそうです。エペソから50㎞ほど北に行った海岸沿いにありました。七つの教会に回覧する手紙を届けようとするならば、エペソの次がスミルナでした。この町は壮大さとエペソの町に対する対抗意識で有名でした。競っていたのです。

スミルナの教会は苦難を受けていました。イエス様はこの町の教会の苦しみや貧しさ、敵対者の罵りを知っていると仰いました。苦しみの理由は恐らく皇帝崇拝に関連していたと思われます。

スミルナは皇帝テベリウスを記念する神殿が建てられており、そのことを誇っていました。市民は折に触れて皇帝の像の前に立つ祭壇に香料をまきつつ、「カイザルは主である」と告白することが求められていました。「イエスは主である」と告白するクリスチャンは、どうしても「カイザルは主である」と告白することは出来ませんでした。

紀元156年、尊敬されていたスミルナの司教ポリュカルポスは、これらの板挟みとなりました。群衆の詰めかけた競技場で、「カイザルの霊に忠誠を誓い、キリストを罵倒せよ」と迫られました。しかし彼はその要求を拒みこう答えました。「私は86年間もキリスト様にお仕えしてきた。ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加えたもうことはなさらなかった。どうして私が、私を救いたもうた私の王を冒涜することができましょうか」。総督は更に迫り、「考えを変えなければ野獣によってか、火によってか殺されることになる」と警告しました。しかし彼は揺らぐことはありませんでした。そこで火が付けられ、聖なる大司教はキリストの杯に与るに足る者とされ、多くの殉教者たちの群れに加えられることを神に感謝したのでした。ポリュカルポスはこのように殉教していきました。

この出来事の半世紀以上前に、イエス様はすでにスミルナの教会に対して投獄や死の警告を発せられました。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
(黙示録2:10)

このように、キリストはスミルナの教会に書き送るようにと仰いました。

「十日の間苦しみを受ける」とは、10日間の激しい迫害が皇帝ネロから始まり、ディオクレティアニス二世までの間、1世紀中頃〜4世紀初頭にわたって10回の迫害がありましたが、その10日の間の苦しみは、実際の10日間の苦しみなのか、10回の迫害なのか、どちらかを指すのだと思われます。その迫害に対して耐え抜いた者にはいのちの冠を与えようとイエス様は仰いました。

ある人がビリー・グラハム師にこんな質問をしたそうです。「死に至るまで忠実であるとは、どういうことでしょうか」。彼の答えは「それは言葉では言い尽くせない重みがある。その人がそれに直面しなければ分からないことではないでしょうか」と答えたそうです。私たちの苦しみは何でしょうか。死に直面するような苦しみ。私たちは死を覚悟して、忠実に主に従っていくでしょうか。

「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」イエス様に反旗を翻すことなど私にはできないと告白しながら、ポリュカルポスは死んでいきました。

スミルナの教会に対しては、「苦しみがあるのだ」と予告されました。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」
(黙示録2:15)

ここでの第二の死とは何を指すでしょうか。黙示録を読み進めていきますと、「やがて火の池ゲヘナに永遠に落とされる」ということが書かれています。つまり魂の、神さまからの永遠の分離です。神さまから永遠に断絶されることです。第一の死は言わずもがな、肉体が滅ぶことです。第一の死は誰もが味わうこと。この世に生を受けた人は肉体の滅びに遭遇します。しかしそれはイエス様が再臨されるまでに死ぬ者がです。先週まで学んできましたが、キリストの再臨の時にまだ地上に生き残っているクリスチャンは、この第一の死を味わうことなく天に引き上げられることになります。それまでは100%、第一の死を味わいます。第二の死はさらに恐ろしいこと。神さまから永遠に別離させられる、永遠に見捨てられてしまうことです。ですから「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」と付け加えられました。

 

 

3.ペルガモ教会への手紙

ペルガモの教会に対するテーマは「真理」です。

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」
(黙示録2:13)

ここにお褒めのことばがあります。ペルガモの教会はスミルナよりもさらに数十㎞離れたところにある教会です。手紙はエペソからスミルナへ、スミルナからペルガモへと回覧されました。ペルガモの教会は真理に対しては献身的でした。この事実はペルガモの宗教的、文化的環境を考えますと、何よりも注目すべきことでした。イエス様は二度、「この教会がどこにあるのかをわたしは知っている」と仰っています。つまりサタンの王座のある場所。「サタンの住むあなたがたのところ」と表現されています。こうした表現によってイエス様は何を示しているのかは確かではないのですが、一般的に、教会が囲まれている非キリスト教世界を指すのではないでしょうか。限定して言えば、異教の偶像崇拝や皇帝崇拝を指しているのかもしれません。長野市のようです。善光寺があるこの地域はあたかもペルガモの教会のような状況でしょう。

ペルガモは異教の強力な中心地であったと言われています。多くの神殿や祭壇が建てられていました。町のアクロポリスの頂き近くにはゼウスの神の巨大な祭壇がありました。健康と癒しの神アスクレピオス崇拝の本拠地でした。しかしある学者たちは、「サタンの王座」とは「皇帝崇拝に関連していると考えることが最も適切であろう」と言っています。

紀元前29年、アウグスチヌスの神殿を建てる許可がペルガモ市民に与えられました。これは存命中の皇帝を記念して州都に神殿が作られた最初でした。ある学者たちはこの町こそが皇帝崇拝の中心地であったと考えています。
こうしたサタン的な町であったにもかかわらず、ペルガモの教会は決してくじけませんでした。それどころかイエス様はこの教会に対して賛辞を送ることができました。

しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
(黙示録2:13)

イエス様はすでにご自身の忠実な証人というその称号をアンテパスに対して用いられていることには大変感動させられます。にもかかわらず、イエス様は不満のおことばも付け加えました。ペルガモの教会は全体としてはイエス様に対して忠実でしたが、バラムの教えやニコライ派の教えを奉じている偽教師たちとの交流を大目に見ているところがありました。おそらく偶像崇拝や不道徳を容認すると言った教えだったのではないかと思います。

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
(黙示録2:14〜15)

異端が入り交じっていたペルガモの教会。

彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。
(Ⅱペテロ2:15〜16)

これは民数記22章に書かれていることです。バラムは不義の報酬を得るためにバラクに雇われました。このバラムの道が正しい道と対峙されて、偽教師たちの貪欲な姿を表しています。そしてペルガモの教会のもこのような姿がありました。

すでに教会が始まってそれほど歴史があるわけではありませんでしたが、当時の教会には様々な異端が入り込んでいました。ですから私たちも異端に対してはいつも気をつけていなければなりません。長野市内でも異端に乗っ取られてしまった教会がありました。私たちのこの教会にもある一人の韓国人の女性がこの教会を訪れました。私はその人と話をし、おかしなところを感じました。その方の二度目の来訪はありませんでしたが、私たちは異端に気付いたならば、自分たちの立場をはっきりと主張し、交わりを避けなければなりません。ペルガモの教会にはバラムの教えを奉じている人、ニコライ派の教えを奉じている人々が多く入って来ていたようです。そのような人たちとの交わりを避けるべき、交わりはすべきでないとイエス様は仰いました。あなたがたは真理を追究しなさいということを教えられました。

 

この続きはまた来週、見てまいりたいと思います。関心のある方は、是非続きの黙示録をお読みいただければと思います。