日本同盟キリスト教団|長野聖書教会

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2018年8月5日 主日礼拝「七つの教会へ②」

    

本日の聖書箇所

ヨハネの黙示録2章18節〜3章6節

説教題

「七つの教会へ②」

今週の聖句

なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

コリント人への手紙第二5章10節

 

 

訳してみましょう。

2009 The supreme need in every hour of difficulty is a vision of God.(G.C.morgan)
(困難に直面するために最高に必要なものは、神のビジョン(神の御顔・御姿)です。)

2010 A christian’s life is a window through which others can see Jesus.
(クリスチャンの生活は、他の人がイエスを見ることができる窓です。)

 

 

説教メモ

先週は、7つの教会に宛てられた手紙のうち、3つの教会への手紙の内容を見てまいりました。ひとつはエペソの教会です。エペソの教会へのテーマは「愛」でした。「あなたは初めの愛から離れてしまった。初めの愛に戻りなさい」とイエス様は仰いました。もう一つはスミルナの教会で、同じくテーマは「苦難」であり、「主のための苦しみがある」ということでした。ペルガモの教会へは「真理」で、異端などがはびこっていた中で「真理とは何か」ということが問われました。

本朝は続いて2つの教会への手紙の内容を見てまいりましょう。

 

 

1.テアテラ教会への手紙

テーマは「聖さ」です。

テアテラという町は商業都市でした。ビジネスの町、政治的な町でした。この町は商取引の中心として栄えていました。考古学者の発見によれば、テアテラには数多くの商業組合が存在していたようです。例えばパン職人の組合、青銅加工組合、靴職人組合、織物職人組合、皮なめし、染め物、焼き物などなど、たくさんの職業にそれぞれの組合がありました。私たちにとって興味深いこととして、ピリピの教会の有名な改宗者「ルデヤ」という婦人のことです。使徒の働き16章14節に記されています。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。
(使徒16:14〜15)

パウロがピリピに行った時に、そこにルデヤという婦人がいて、彼女はテアテラ市の出身で家族とともにピリピに住んでいました。紫布の商いをし、恐らく裕福だったのだと思います。このルデヤがパウロのメッセージよって救われ、彼女だけではなく彼女の家族も救われました。ルデヤはパウロを家に招き、その家を拠点にピリピの教会が発展していきました。そしてキリスト・イエスにあって新生したルデヤが、テアテラの町に戻り、そこにまた教会が誕生したのではないかと考えられます。一部始終は記されていませんが、そのような歴史があったのではないかと思います。

テアテラの教会への手紙の中で、模範的な教会の重要なしるしとしてイエス様が強調しておられることは「聖さ」です。イエス様は手紙をあたたかな賛辞から始めています。

「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」
(黙示録2:19)

信仰、希望、愛とは、コリント人への手紙第一13章を思い起こさせます。そこに忍耐を加え、四つの美徳が語られています。イエス様はテアテラの教会の中にそれらを認められ、褒めてくださっています。

さらに注目すべきことは、エペソが最初の優れた状態から後退してしまったのに対し、テアテラの教会はそれと反対に、最初より今の方が良くなっているとイエス様は仰いました。ですから見たところ、テアテラの教会はとても素晴らしい教会でした。しかし残念ながら、それが教会の姿のすべてというわけではありませんでした。この美しい園にも、毒麦は育っていたのです。麦畑にいつの間にか混じって育ってしまう、イエス様がたとえ話しで話されたあの毒麦です。

テアテラの教会は優れた資質の傍らで、道徳的な妥協に対する責めも負わされました。教会は悪意に満ちた自称預言者の女性「イゼベル」を黙認してしまっていました。このイゼベルという女性は、テアテラの教会のある者たちの道を踏み外させました。「クリスチャンの自由は不道徳な行いをしても良いという許可を与えるものだ」と焚きつけました。

イエス様はこの女に、悔い改めるように呼びかけておられます。しかし彼女は言うことを聞こうとしませんでした。従ってイエス様のさばきはこの女性に下されることが避けられないこととなりました。この女性に追従していた者たちも、その生き方を悔い改めなければ同様に裁かれるであろうということです。

自由とは何をしても良い自由ではありません。そして自由には責任が伴います。自由であるほどその負わされる責任も大きくなります。

一つ気付いて欲しいことは、テアテラの教会の人たちは、このイゼベルの存在に気付いていないということです。悪女がいて、自分の主義主張に人々を引きずる込もうとしている、その存在と働きに気付いていなかったのです。イエス様は悔い改めさせようとされましたが、当の本人は悔い改めようとしませんでした。そのような者は群れから追放しなければなりませんでした。

私たち教会の群れの中にも、気付かずにイゼベルのような存在が起こってしまうようなことがあるかもしれません。私たちはそのことに本当に注意して行かなければなりません。

自らを制して、キリストに似た者であろうとする「聖さ」は、模範的な教会のもう一つの重要な特徴です。これを黙認してしまってはなりません。もしその黙認されてしまっている者が悪であるならば、それは決して美徳ではありません。神は今もご自分の民に呼びかけておられます。

「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」
(Ⅰペテロ1:16)

私たちはこの聖さを保っていかなければなりません。私たちのこれまでの教えと違った考えをするような人が出てきたならば、気をつけなければなりません。

 

 

2.サルデス教会への手紙

テーマは「誠実」です。

復活したイエス様がサルデスの教会に宛ててヨハネに書かせた内容には、7つの教会の手紙の中で唯一、「どんな種類の賛辞も語られていない」という特徴があります。良いことが何一つ書かれておらず、ひたすら非難されるべきことが綴られています。ほんの数語の極めて簡単な言葉によって教会の霊的な破綻状態がさらけ出されました。

あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
(黙示録3:1)

サルデスの教会の活力溢れる様は評判が良かったようです。他の6つの教会にも良く知られていました。教会内に偽りの教理が根を下ろすといったこともありませんでした。バラムもニコライ派も、イゼベルもいませんでした。

しかし、良く知られているその外から見える姿が本物であるわけではありませんでした。サルデスの教会もそのようであって、社会的には評判が良かったけれども、霊的には墓に入っているも同然でした。活力があるという評判に反して、実は死んでいたのです。キリストは表面ではない内側をご覧になって仰います。

わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
(黙示録3:2)

サルデスの教会の得ていた評判は、人間的なことについてであり、神に関するものではありませんでした。評判と実際。人が見ることと神がご覧になることとについての違いは、いかなる場合においても極めて重要です。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(Ⅰサムエル16:7)

これはダビデが神によって選ばれた時に、主ご自身がサムエルに対して言われたことです。

外見にとらわれての評価というものは、自然に偽善へと進んで行きます。それはイエス様が憎まれることの一つです。偽善者とは英語で「hypocrite」です。本来の意味は「舞台で演じる役者」を指します。それが転じて何かの立場を装う、偽善者や詐欺師を指すようになりました。偽善は教会に入り込み、その生命線を、特に礼拝を脅かすことになります。礼拝が霊的なものかそうでないかは問題ではありません。カトリック的な儀式、あるいはプロテスタント的な簡素さは関係ありません。偽善とは見せかけであり、それに対してここで言われていることは誠実さということ。サルデスの教会に求められていることは誠実さでした。それが真の、そして生きている教会の特徴です。

多くある教会の中には、一見、人が多く集まり素晴らしい教会だと思わせる教会もありますが、その内実は教会倫理に反するようなことを行って発展している教会もあるわけです。同じ市内の教会であっても関係なく、教会籍を無視するかのように、様々な事情はあるでしょうけれども、誰も彼も受け入れて大きくなっているのです。そのような教会は一見立派に見えるでしょう。しかしその実際はどうでしょうか。

サルデスの教会も見かけは良かったのですが、イエス様の目から見ると、7つの教会の手紙の中で唯一、どんな種類の賛辞も語られていない、良いことが何一つ書かれていない、ひたすら非難されるべきことが綴られている。そのような実際でした。

私たちも見かけによらず、実際はどうか、心をご覧になる神さまがどう仰るのか、そのことを良く感じ取って行く必要があるでしょう。主の誠実を行って行く。それがサルデスの教会に送られたメッセージでした。

 

次回も続けてフィラデルフィヤ教会、ラオデキヤ教会に宛てた手紙の内容を見てまいります。