2018年8月26日 主日礼拝「千年王国」

本日の聖書箇所

ヨハネの黙示録20章1〜15節

説教題

「千年王国」

今週の聖句

彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

ヨハネの黙示録20章4〜5節
 
 
訳してみましょう。
2015 We must experience our weakness to experience God’s strength.
(私たちは神の力を経験するために弱点を経験しなければなりません。)
2016 We see in part; God sees the whole.
(我々は部分的に見る。 神は全体を見ます。)
 
 

説教メモ

私がクリスチャンになりたての頃、ある宣教師が言ったという、こういうことを聞きました。それは、「一度だけ生まれた者は、二度死ぬ。しかし、二度生まれた者は、一度だけ死ぬのだ」。今日のおことばのなかで「第一の死」「第一の復活」「第二の死」という表現が出てきます。
 

1.千年期(ミレニアム)

千年期、あるいは千年王国という言葉が20章に出てきます。今日の箇所は色々と解釈が分かれるところです。どれが正しいとは言えません。色々な説、考え方がありますので、みなさんはそれぞれ、そのような考え方もあるのだというふうに受け止めていただければと思います。
大まかに分けますと、イエス様が再臨なさること。それは誰でも分かっていることですが、クリスマスにイエス様が来られたこと、これを初臨と言います。そして再びイエス様が来られる。これを再臨と言います。これはどの聖書学者も共通した解釈なのですが、この「千年王国」に関しては、イエス様の再臨に合わせて考えていくのですが、この千年王国がイエス様の再臨の前か後かで意見が分かれます。色々な説があり、それを裏付けるみことばもありますが、皆さんはどれが一番良いと思われるか。あるいは、もう一つ、千年王国というのは霊的なものであって実際的なものではないと言う聖書学者もおります。
私の考えはここ何年か変わっていませんが、これが正しいとは思っていません。私の考えは、イエス様が再臨なさって、そして千年王国が始まり、それから最終的な終わりが来るのだというものです。
断定のできない、とても難しいところです。
 
千年王国は、千年の期間があるということで、「千年」ということばが6回出てきます。その都度意味合いが違っています。まず告げられるのは、悪魔が縛られる期間だということです。これは私が最近読んでいるジョン・ストットの本の中に言われています。彼は「今が千年期である」と言っています。キリストの初臨と再臨に挟まれた今が千年期であると。私は違うのではないかと思っていますが。ここに出ているサタンが千年の間縛られるということですが、今の世の中を見ますと、サタンは縛られているようには思えません。ですからまだ千年王国は始まっていないのではないかと考えるのです。
読み進めていくと、5節に「第一の復活」とあります。さらに6節には「第二の死」とあります。それから14節にも「これが第二の死である」とあります。第二の死と書かれているのに対し、第一の死ということは書かれていません。第一の復活はありますが、第一の死というものはありません。
20章には「キリストの再臨」ということも一度も出てきません。ですから色々と学者の中で考えがあるようです。ヨハネがここでキリストの再臨を挟んでおいてくれれば、千年王国がいつからいつまでかということがはっきりしたと思うのですが、書かれていません。分かりにくい。
私の考える考えは、多くのクリスチャンが持っている考えであると思います。つまり、イエス様がやがて再臨なさる。それから千年王国が始まる。サタンが縛られる期間がある。しかし千年という期間をそのまま正確に千年と捉えなくても良いかと思います。ある期間という考え方でよろしいかと思います。象徴的な数字でしょう。
その期間、サタンが底知れぬ所に完全に封じ込められることを示しています。千年の間はサタンの活動が許されていないと言うことです。そして「私たちはキリストとともに王となった」とあります。つまり王となるということは支配するということです。私たちは神さまとキリストとの祭司になる、キリスト共に王となる、千年の間治めるのです。
今週の聖句に上げておきましたヨハネの黙示録20章4〜5節ですが、「彼ら」とは誰を指しているのか。それは聖書に記されている通り、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」のことです。今日も私たちは十戒を告白しました。「あなたはわたしのほかに、他の神々を作ってはならない。他のものを神としてはならない。あなたは刻んだ像を作ってはならない」とあります通り、彼らは偶像を拝まなかった者たち。彼らがキリストともに王となったと言われています。もっと簡単に言えば、やがて「いのちの書」が出てきますが、そのいのちの書に名が記されている人がキリストとともによみがえり、千年の間王となるのです。ですからいのちの書に名が記されているかいないかは、とても大きな問題なのです。皆さんはご自身の名前がいのちの書に記されていると確信していますか。イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなり十字架に架かって死んでくださった救い主であると受け入れた時、いのちの書に名が記されます。そんなに難しいことではないです。皆さんが心に信じた時、皆さんの名がいのちの書に名が記されます。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
(黙示録20:6)

私たちは幸いな者、聖なる者です。私たちに対しては、第二の死は、なんの力も持っていません。
第二の死とは何でしょうか。20章14節に「これが第二の死である。」とあります。イエス様を救い主として告白しなかった者。福音を聞いていながらも受け入れなかった者。そのような人々は第二の死に与ってしまいます。言い換えればいのちの書に名が記されていない者が第二の死を味わってしまいます。

第一の死は書かれていませんが、これは誰もが経験する死です。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
(ヘブル9:27)

とあります通り、誰もが受ける死です。しかし第二の死は、いのちの書に名が記されていないという特定の人たちが受ける死です。それを他の言い方で言いますと、神さまと完全に分離されることです。これが第二の死です。
 
 

2.サタンの最後

7節〜10節です。
千年の終わりにサタンが解放されます。サタンに組する邪悪な勢力が結集します。そして最期の戦いが起こります。なぜサタンが解放されて最後の戦いの舞台が用意されているのか不明であると仰る先生がおりました。神の御力をもって底知れぬ所で決着をつけてしまえば良いのにと。確実なことは、神さまはサタンとサタンに付き従う全勢力を、天からの火で一瞬のうちに葬り去り、サタンを永遠の苦しみの中に投げ入れることです。これはやはり、イエス様の再臨の後に千年王国があるという考えに基づいているものです。
ヨハネが告げるところによりますと、千年期間が終わった時にサタンが牢から解放され、短期間ではありますが、再び国々を欺く。つまり教会の宣教活動が反対されたり、妨害されたりすることになるということです。サタンは敵対する者たちを集めて教会への最後の攻撃を試みますが、しかしキリストが白い馬に乗ったお方としてこの争いを先んじて制してくださいます。

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
(黙示録19:11)

少し飛びまして、

天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
(黙示録19:14)

ここに白い馬が登場します。そして神さまだけでなく、神さまに付き従う者たちも白い馬にまたがって登場するわけです。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
(黙示録20:10)

千年王国の終わりにほんのひとときサタンが解放され暴れますが、それは束の間のことです。そしていよいよ、最後に審判が下されます。
 
 

3.最後の審判

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
(黙示録20:11〜12)

先ほどから言っております通り、いのちの書に名が記されていない人が、この第二の死に相当します。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
(黙示録20:13〜14)

最終的にイエス・キリストを救い主として信じ受け入れなかった人。すなわちいのちの書に名が記されていない人は、イエス・キリストを信じなかったが故に、最後の審判の時に裁かれます。
気をつけて理解しておきたいことですが、ヨハネが記しております「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた」。はっきりとここで理解しておかなければならないことは、罪人がその良い行いによって義とされることを言っている訳ではないと言うことです。罪人が義とされるのは、唯一イエス様の憐れみ、恵みによって義とされるのです。決して私たちの行いによるものではありません。立派な行いをしたからと言ってそれで救われるわけではありません。むしろ反対です。私たちは救われたからこそ、良い行いに励むのです。そのように神さまが私たちを造りかえてくださっています。
行いに応じて裁かれるということは、行いによって義とされることではありません。ただ私たちは、この世にあってした行いに応じて裁かれます。ここには記されていませんが、神さまは「報いをもって、報いを携えてわたしは降る」と仰っています。私たちがはっきり分かっていることは、十字架のイエス・キリストは私の罪の為に死んでくださった救い主であるということ。そしてそれを告白していのちの書に名が記される。それで安心してしまってはいけません。いのちの書に名が記されたからこそ、むしろ私たちは良い行いに励むべきなのです。せっかく救われても、罪の中にいては良くありません。救われる以前よりももっと悪い罪を犯しているかも分かりません。そういう人は、私が常々申し上げている通り、自分の罪に死にきれていないということです。
私たちはこの地上での行いに応じて、ご褒美をいただくのです。救われてから罪を犯してしまうことは間々あることではありますが、罪を犯してしまったのならば、心から悔い改めて神さまに謝罪すべきでしょう。
自分は罪に対しては死んだ者であると。自分の古い性質は十字架で葬り去ってしまったのだと。これからは洗礼の時水から上げられるように、すべてが新しくなった、罪から解放されて、罪を犯さなくても良い自由を与えられたのだから、神さまに向かって歩く、どうぞ導いてくださいという思いで、日々自分に言い聞かせて歩んで行かないと、私たちはまた罪を犯してしまいます。一人ひとりそのような弱さを持っています。

たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
(ヤコブ2:26)

ヤコブは行いと信仰ということを強調していますが、結論的に、行いのない信仰などあるはずがないと言っています。ルターはヤコブ書を大切な書として取り扱いませんでした。しかしそれは正しくありません。聖書66巻の中にヤコブの手紙が入っているのですから。意味があるのです。行いのない信仰は死んでいる。それは当然のことです。信仰があるならば当然行いが伴ってくるはずです。
本当の信仰者たちは、すでにその名がいのちの書に記されています。いのちの書は、ヨハネはこのところだけでなく、

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
(黙示録13:8)

ここにもいのちの書が出てきます。
 
もう一つ、聖書学者の意見が分かれるところに、「白い御座のさばき」は誰がなさるのか、ということです。父なる神さまなのか、キリストなのか。両方解釈があるようです。私は父なる神さまがさばきをなさるのだと思っています。というのは、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
(Ⅰヨハネ2:1〜2)

私たちには弁護士がおり、それがイエス・キリストだということです。ですから白い御座のさばきは、父なる神さまがされるのだと思います。
私たちは、聖書には色々な事が書かれておりますが、私たちに与えられた聖書知識によって初信者に証をしますが、相手の方が受け止められないことを言い過ぎないことが重要です。また、他の教会から来られた方に対しても、相手の理解とまるで違うことを言い過ぎてはならないということ。特に今日のような千年王国に関することもそうです。相手を良く知ってお話しをする。そうでないと相手を躓かせてしまいます。

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