2026年9月20日 主日礼拝「主を忘れないために」

前  奏  黙祷
招  詞  詩篇8篇3〜4節
讃  美  讃美歌23「来る朝ごとに」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   出エジプト記20章(「十戒」抜粋、新聖歌 交読文47)
讃  美  讃美歌56「七日の旅路」
      「聖い御霊よ」
聖書朗読  民数記15章32〜41節
説  教  「主を忘れないために」」
応答賛美  讃美歌333「主よ、我をば」
献  金  「御手の中で」
感謝祈祷  讃美歌547「いまささぐる」
報  告  
今週の聖句 民数記15章39節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記15章32〜41節

説教題

「主を忘れないために」

今週の聖句

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

民数記 15章39節

説教「主を忘れないために」

民数記15章32〜41節

はじめに 主の恵みを思い出す

昨日は、オンギジャンイの皆さんのコンサートがありました。オンギジャンイの賛美の中に、私が特に好きな「いつか心に」という曲があります。あの賛美を聞くと、心が温かくなり、「ああ、そうだった」と思わされます。自分がイエス様をどれほど愛してきたかではありません。「私が主を知るよりも前から、主は私を愛し、御手を差し伸べてくださっていた。」その恵みを思い出して心が温かくなるのです。
もちろん、歌そのものに特別な力があるわけではありません。けれども賛美の言葉を聞くうちに、忘れていた主の恵みを思い出し、もう一度、心を主へ向け直されることがあります。

今日の箇所にも、「思い出す」ことの大切さが語られます。しかし、その前に記されているのは、たいへん厳しい出来事です。
今日の箇所を初めて読まれた方は、驚かれるのではないでしょうか。「安息日に薪を集めただけで、死刑なのですか。」この人は宿営の外へ連れ出され、全会衆によって石打ちにされました。正直に言えば、私自身も、この箇所を読むと立ち止まります。厳しいと思います。
この人は安息日の戒めを知らなかったわけではありません。六日間は働き、七日目は主のために休む。荒野では、マナを集める時、六日目に二日分が備えられました。安息日に、「今日の分も自分で何とかしなければならない」と外へ出て探し回る必要はありません。主が備えてくださったからです。
ですから安息とは、「この日は仕事をしてはいけません。」という禁止だけではありませんでした。自分の手を止める日でした。そして、「私が今日働かなくても、主が私を支えてくださる。」「私が世界を動かしているのではない。」「私を生かし、必要を満たしてくださるのは主なのだ。」と見つめ直し、そして告白する日でもあったのです。

主の御声によって立ち止まる

民数記をここまで読んできた私たちは、「止まる」ことを何度も教えられてきました。9章では、雲がとどまれば民もとどまり、雲が上れば出発しました。「主の命によって」という言葉は、文字どおりには「主の口によって」です。主の口から出る御言葉によって進み、御言葉によって止まる。自分が進みたいから進むのではなく、主の御声を聞いて立ち上がり、主の御声を聞いてとどまるのです。
10章のラッパも、「進め」だけでなく、「集まりなさい」「立ち止まりなさい」という合図でした。主はこの民に、自分の判断だけで動き続けるのではなく、主の御声によって止まることを教えてこられました。安息日も同じだったのでしょう。
私たちは、とにかく動き続けようとします。まだできる。もう少し働ける。これもやらなければ。あれも必要だ。けれども主が、「今日は手を止めなさい。」と言われる。

これくらいに隠れる高い手

ところが、この人は薪を集めました。聖書は、この人が何を考えたかを記していませんから、決めつけることはできません。しかし人間的には、「薪を少しくらい集めてもいいだろう。どうしても必要なのだから」と、本当に小さなことに見えたのかもしれません。私たちにも、どこか分かるような気がしないでしょうか。
主が「今日は手を止めなさい」と言われたのに、私は「このくらいならいいでしょう」と判断する。主が「それは必要ない」と言われたのに、「私には必要です」と判断する。その時、私は神様と神様のことばに従う者ではなく、神様と神様のことばを判定する側に立っています。「これは、今の私には当てはまりません。」「これは必要なので例外です。」いつの間にか、自分の判断が主の御言葉の上に置かれている。そこに「高い手」があるのです。

もちろん、聖書は、すべての罪が全く同じ重さであるとは教えていません。この15章自身が、過って犯してしまう罪と、主を侮り、故意に反抗する罪とを区別しています。けれども同時に、この箇所は私たちに教えます。私たちには小さく見える行為の中にも、神様に対する大きな反抗が隠れていることがあるのです。
例えば、「ちょっとくらい見てもいいだろう」と、心を汚すと分かっているものを見る。クリック一回、タップ一回なら、人には小さく見えます。しかしその奥で、「主が何と言われるかより、自分が見たいものを見る」となっているなら、問題は行動の小ささだけではありません。主より自分の欲望を上に置く心が隠れています。
「これくらい。」「一回くらい。」「必要だから。」「みんなもやっている。」「誰にも迷惑をかけていない。」私たちは、そんな言葉で自分を納得させることがあります。けれども大切なのは、「どこまでなら許されるだろう。」ではなく、「主は何を喜ばれるだろう。」という問いなのだと思います。

帰っておいでと呼ばれる礼拝

では、なぜ安息がそれほど大切だったのでしょう。
イエス様は「安息日は人のために設けられた」と言われました。
神様は人を苦しめるためではなく、「一日、手を止めてよい」と安息を与えてくださいました。六日間働くと、体も心も疲れます。そして実は、私たちの内側も少しずつ疲れていきます。霊的な感覚も鈍くなることがあります。主が語られなくなったのではありません。けれども、多くの声を聞くうちに、主の御声を聞き分けにくくなる。日曜日には御言葉に心を動かされ、「主よ、従います」と祈ったのに、週の半ばには感動が薄れ、信仰の決心もぼんやりしていきます。仕事のことばかり考え、人の評価ばかり気になり、目の前の問題が主より大きく見える。感謝が少なくなり、つぶやきが増える。そして、ふと気づくのです。「私はいつの間に、こんなところまで来てしまったのだろう。」

先週お話ししたように、羊も突然、羊飼いから全速力で逃げるのではないでしょう。目の前の草へ行き、その先の草へ行き、気づけば羊飼いの声が聞こえない所まで来ています。だから主は、一週間ごとに私たちを止め、「帰っておいで。いろいろなものを見すぎたでしょう。いろいろな声を聞きすぎたでしょう。もう一度、わたしの声を聞き、わたしを見上げなさい」と呼んでくださるのです。そう言ってくださる。

旧約の安息日の規則を、そのまま今の日曜日に当てはめるわけではありません。けれども私は、一週間のうちに自分の手を止め、主の前に集まり、主を礼拝し、救われた恵みを思い起こし、御言葉をいただき、ずれていたところを直していただいて、また新しい一週間へ送り出されていく。この恵みの原則は、今の私たちにも与えられていると思います。だから私は、日曜日の礼拝を軽く考えてはいけないと思うのです。
礼拝を休めば神様が罰を与える、という話ではありません。むしろ反対です。迷い出る私たちをご存じの主が、一週間ごとに「帰っておいで」と呼んでくださっているのです。

以前、ある教会の礼拝に出席した時、午後の行事の準備のためでしょう、何人かが説教中にも会堂を出入りしていました。事情は分かりません。本当に必要なことだったのかもしれません。「午後の働きのため、宣教のために必要だ」と考えておられたのかもしれません。ですから、それを私が罪だと決めることはできません。しかし自分には問いかけられました。「午後の働きの準備と、今、皆と一緒に主の前に座って御言葉を聞くこと。主は、どちらを喜ばれるだろう。」
答えが簡単に出ない時もあります。だからこそ、「これは罪か」「ここまでは許されるか」という最低線だけでなく、「今、どうすれば主を愛することができるだろう」と考えたいのです。
何かをすることによって、主への愛を表すこともあります。何かをしないことによって、主への愛を表すこともあります。そして、「どうすることが、隣にいる人の信仰の益になるだろう。」と考えたいのです。なぜなら、イエス様が律法を、「神を愛すること。隣人を自分自身のように愛すること。」この二つに要約されたからです。「これくらいならいい。」ではなく、「主は何を喜ばれるだろう。」その問いを大切にしたいと思います。

罪をこれくらいとしない

さて、この薪を集めていた人は捕らえられ、留置されました。人々はこの事例を自分たちだけで処理せず、主の御心を求めました。もし私がそこにいたなら、「確かに安息日は破った。しかし薪を拾っただけなのだから、もう少し軽い裁きにならないだろうか」と考えたかもしれません。
そのように、もしかすると「それくらいなら。」という思いは、この一人だけではなく、共同体の中にもあったのかもしれません。これは想像です。実際には確認できません。
しかし、その時彼らが聞いた主の御言葉は、たいへん厳しいものでした。「その者は必ず殺されなければならない。」そして民は、その御言葉に従いました。自分たちの感覚で、「さすがに厳しすぎるから、少し変えよう。」とはしませんでした。
ここにも今日の問いがあります。自分の感覚と主の御言葉がぶつかった時、どちらを上に置くのか。この裁きを柔らかく説明して、その重さを消すことはできません。神様は罪を、「それくらいなら」と扱われないお方です。それは愛のないお方だからでしょうか。私は、むしろ逆だと思います。

小さな子どもが交通量の多い道路へ飛び出そうとする時、親は「できれば行かない方がよい」とは言わず、「止まりなさい」と強く叫び、腕をつかんででも引き戻すでしょう。もう安全だと分かれば、抱きしめて涙を流すかもしれません。愛しているからです。その子のいのちが大切だからです。

もちろん、このたとえによって、この人に下された死刑そのものを説明することはできません。ここで行われているのは、罪に対する神様の厳粛な裁きです。ただ、一つのことは言えると思います。愛することと、厳しくあることは、決して矛盾しないということです。罪が人をどこへ連れて行くのか。罪が神様との交わりをどれほど壊していくのか。いのちの道から、どれほど私たちを遠ざけてしまうのか。神様は、私たち以上によく知っておられます。
だからこそ、「これくらいならいい。」とは言われないのです。私たちは今日、罪を犯した人を石打ちにすることはありません。しかし、自分の中にある罪を、「小さいから。」と言って、生かし続けてよいわけでもありません。教会も、「みんなそうだから。」と言って、罪を普通のことにしてはいけない。罪を「これくらい」と正常化しない教会でありたいと思います。けれども――。今日の御言葉は、ここで終わらないのです。
私は、ここが本当に大切だと思います。一人の人が死にました。イスラエルの民は、罪の重さを目の前で見せられました。

見る 思い起こす 行う

そしてその直後、主はモーセに言われます。

15章37節    主はモーセに告げられた。
15章38節    「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。
15章39節    その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

見る。思い起こす。そして行う。あるいはしないため。神様は民に、日常の中で「見るもの」を与えられました。
この衣の房は、荒野の時代だけで終わった一時的な習慣ではありませんでした。新約聖書の時代にも、ユダヤ人たちはこの房を身につけていました。イエス様も、パリサイ人たちが人に見せるために房を長くしていたことを指摘しておられます。何百年もの間、イスラエルの民の衣服には、「主を思い出しなさい。」という印があり続けたのです。ここに私は、神様の深い愛とあわれみを見るのです。

主は、「もう二度と忘れるな。」と言って終わられませんでした。あなたがたは忘れる。あなたがたは迷い出る。あなたがたは、自分の目に見えるものに心を奪われる。主は、それをご存じだった。だから、「それなら、わたしを思い出すものを、あなたがたの目に見えるところに置こう。」とされたのです。衣服の四隅に房をつけなさい。歩けば見える。座っても見える。日常生活の中で何度も目に入る。そのたびに、「ああ、そうだった。」と思い出しなさい。
「私は主の民だった。」「主が私を救ってくださった。」「私は、この主とともに歩む者だった。」忘れないように、自分の力だけで頑張りなさい。ではありません。忘れるあなたのために、わたしが思い出すものを与えよう。「わたしがあなたとともにいる。」何と恵み深い神様でしょうか。

自分の心と目の後を探し回らない

しかも39節には、民数記をここまで読んできた私たちにとって、興味深い言葉があります。「自分の心と自分の目に従って」という部分の「従って」には、13章で約束の地を「偵察する」と訳されたのと同じヘブル語が使われています。日本語では違う意味に聞こえますが、同じ言葉なのです。

「土地を偵察する。」そして、「自分の心と目に従う。」なぜ同じ言葉なのでしょう。この言葉には、「探る」「探し回る」「探し求める」という意味があります。「偵察する」というのは、ただ通り過ぎながら見ることではありません。何があるだろう。どこにあるだろう。と、注意を向け、探っていくことです。かつて彼らは、約束の地を探って歩きました。そして今、主は言われるのです。「今度は、自分の心と、自分の目が欲しがるものを探し回って歩いてはいけない。」
覚えておられるでしょうか。十二人は同じ土地を見ました。同じ町を見ました。同じ巨人を見ました。同じぶどうを見ました。ところが十人は、目に見える巨人の大きさに心を奪われ、主の約束を見失いました。目に見えるものの後を、心までついて行ってしまったのです。だから主は今度、「自分の心と、自分の目の後を探し回るな。」と言われる。実に意味深い言葉です。

自転車やオートバイには、「ターゲット・フィクセーション」と呼ばれる現象があります。ぶつかりたくないと思っている障害物をじっと見続けていると、無意識に体やハンドルまで、そちらへ向きやすくなる。だから、「障害物ばかりを見るのではなく、行きたい方向を見なさい。」と教えられるそうです。

信仰にも、どこか似たところがあるように思います。私たちは、見つめ続けるものの方向へ、心まで引っ張られていくことがあります。今の時代は特にそうです。目から入ってくる情報が、本当に多い。
しかも、自分が好きなものばかりを選んで見ることができます。一度見れば、次にも似たものが出てきます。「あなたはこれが好きでしょう。」「これもどうですか。」「次はこれです。」そうやって、次々と私たちの目を引きつけます。だからこそ、「何を見るか。」「何を見続けるか。」ということは、とても信仰的な問題なのだと思います。主はイスラエルに、「これを見なさい。」と房を与えてくださいました。

私自身も、いろいろなことを試します。「ああ、今、少し心が主から離れ始めているな。」と感じる時があります。そんな時、パソコンの画面に御言葉を出す。スマートフォンの待ち受けに御言葉を置く。意識して賛美を流す。時には少し大きな音で流す。心が主に向いているから、そうするのではありません。むしろ逆です。心が向いていないから、まず目を主の方向へ向ける。心が向いていないから、まず耳を主の方向へ向けるのです。
すると、ふっと目に入った御言葉によって、「ああ、そうだった。」と思わされる。賛美の言葉を聞いて、「ああ、主はこんなにも私を愛してくださっていた。」と、忘れていた恵みを思い出す。そうすると、少しずつ心も主の方へ向いていきます。ある方は、「必ず一日に何度か行くところだから。」と言って、トイレに座った時にちょうど目の前に来るところへ、御言葉カレンダーを掛けているそうです。これはなかなか賢いと思います。必ず見ますから。
場所はともかくとして、私たちには、主を思い出すきっかけが必要なのです。冒頭にご紹介した賛美も、私にとっては、その一つでした。「ああ、そうだった。」私が主を愛するよりも先に、主が私を愛してくださっていた。それを思い出すと、「主よ、私もあなたを愛したいです。」という思いが、また起こされます。もちろん、「恵みを思い出せば、あとは何の努力もしなくてよい。」ということではありません。

恵みに押し出されて従う

パウロは、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」と言いました。これは、自分の体を傷つけるという意味ではありません。競技者が自分の体を鍛え、思い通りに動くよう訓練するように、自分自身を主に従うよう訓練するということです。
信仰には訓練があります。では、私たちは何を「打ちたたいて従わせる」のでしょう。私たちの体そのものが悪いわけではありません。そうではなく、私の目も、耳も、手も、口も、時間も、生活全体も、自分の欲望の言いなりにさせず、主に仕えるものとして整えていくのです。

見たいものから目をそらす。開きたいスマートフォンを閉じる。言い返したい言葉を飲み込む。まだ仕事を続けたいけれど、手を止める。自分の思い通りに動きたいけれど、主の御言葉の前にとどまる。時には自分自身に、「いや、そちらではない。」と言わなければならない。「こちらだ。」と、主の方へ自分の目と耳と体を向け直さなければならない。それも信仰なのです。では、その力はどこから来るのでしょう。
ただ歯を食いしばって、「もっと頑張れ。」と自分に言い聞かせるところからでしょうか。今日の御言葉を見ると、そうではありません。まず、見る。そして、思い出す。それから、行う。「ああ、そうだった。」「私はこれほど愛されていた。」「私は救われていた。」「主がここまで導いてくださった。」その恵みに押し出されて、「だから、この方に従いたい。」となる。恵みは、私たちを怠けさせるものではありません。
本当に恵みを知ったなら、その恵みが、私たちを主への従順へと押し出していくのです。

そして最後、41節で主はこう言われます。

15章41節    わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。」

ここが今日の箇所の最後です。
神様は、「わたしの命令を全部守れたら、あなたがたの神になってあげよう。」とは言われませんでした。「きちんと従ったら、エジプトから救ってあげよう。」でもありません。もう救ったのです。もう導き出したのです。「わたしが、あなたを救った。」それが先です。だから、「わたしを忘れないで歩みなさい。」「わたしのことばに従って歩みなさい。」と言われる。救いが先です。恵みが先です。その後に従順があります。愛されるために従うのではありません。愛されたから従うのです。神様の民になるために従うのではありません。神様の民とされたから、この神様とともに歩みたいと願うのです。

町の外で死なれたキリスト

そう考えると、今日の最初の場面が、もう一度心に戻ってきます。一人の人が、宿営の外へ連れ出されました。彼は、自分自身の罪を負って、そこで死にました。厳しい光景です。
しかし聖書を読み進めていくと、私たちはもう一人、町の門の外で死なれたお方を知っています。イエス・キリストです。もちろん、この薪を集めた人が、そのままイエス様の予型だったということではありません。むしろ二人は正反対です。

あの人は、自分自身の罪のために裁かれました。しかしイエス様には、ご自分のために負わなければならない罪は一つもありませんでした。罪のないお方でした。それなのに主イエスは、町の外へ連れ出され、十字架につけられました。誰の罪のためでしょうか。私たちの罪のためです。「これくらいいいだろう。」そう言って、主のことばより自分の判断を上に置いてきた罪。「必要だから。」と言って、主より自分の必要の判断を信じてきた罪。自分の心と、自分の目が欲しがるものを探し回ってきた罪。主から迷い出てきた罪。愛とあわれみをもって差し伸べられた主の御手を払いのけるようにして、「それでも私は、自分の好きなようにします。」と、高い手を上げてきた罪。その罪を、イエス・キリストが負ってくださいました。ですから今日の箇所を読んで、「罪というのは恐ろしいものなのだ。」というところだけで終わってはいけないと思います。

確かに、罪は重いのです。神様は罪を、「まあ、それくらいならいい。」とはされませんでした。私たちの罪が赦されるために、御子が十字架で死なれた。それほど罪は重いのです。
しかし、そこで同時に、もう一つのことが分かります。それほどまでに、神様は私たちを愛してくださった。罪を軽く扱うことによって愛してくださったのではありません。罪を御子に負わせることによって、私たちを救ってくださったのです。
ですから私たちは、罪の重さだけを見つめて帰るのではありません。私たちの罪を負って十字架で死に、よみがえってくださった主イエス・キリストを仰いで帰るのです。

主を思い起こして歩む

昨日、賛美を聞きながら、「ああ、そうだった。」と思い出しました。皆さんもそうだったのではないでしょうか。
そして今日、主は私たちにも、「ああ、そうだった。」と思い出させようとしておられるのではないでしょうか。礼拝で心を動かされても、明日にはもう別のことで頭がいっぱいになっているかもしれません。日曜日に、「主よ、あなたに従います。」と祈っても、火曜日には腹を立てているかもしれない。水曜日には不安に心を奪われ、木曜日には欲しいものを追いかけ、金曜日には疲れ果て、土曜日には、主のことが心の片隅へ追いやられているかもしれません。私たちは、そういう者です。主は、それをご存じです。だから礼拝を与えてくださった。御言葉を与えてくださった。賛美を与えてくださった。祈りを与えてくださった。聖餐を与えてくださった。主を思い起こすものを、私たちの生活の中にいくつも与えてくださった。
そして何より、私たちが「仰ぐべきお方」として、イエス・キリストを与えてくださいました。「忘れるな。」だけではありません。「忘れるあなたのために、わたしが思い出させよう。」「迷い出るあなたのために、帰る時を与えよう。」「いろいろなものを見るあなたのために、見るべきものを与えよう。」そうしてくださる神様です。何と恵み深いお方でしょうか。だから今週も、自分の心と、自分の目の後を探し回るのではなく、主を仰いで歩みたいと思います。

そこで今週、主を思い出すための工夫を一つしてみてはいかがでしょう。よく見る場所に御言葉を置く。決まった時刻に短く祈る。意識して賛美を聞く。どれも、心を主へ向け直す助けになります。ただし、その工夫自体に力があるのではありません。それに頼り、それを神の位置に置くなら、十戒が禁じる偶像礼拝になってしまいます。工夫は主を指し示す標識であって、私たちが信頼し礼拝するのは、生ける主ご自身です。
目に入ってくるもの全部について行かなくてよいのです。心に湧いてくる思い全部に従わなくてよいのです。立ち止まりましょう。主の御声を聞きましょう。そして、「ああ、そうだった。」と思い出しましょう。私は主に愛されている。私は主に救われている。私のためにイエス様が死んでくださった。
そして、よみがえった主は、今も生きておられる。この方が、私の神でいてくださる。だから私は、この方を愛したい。この方のことばに従いたい。罪を「これくらい」と軽く扱うのではなく、しかし、自分の罪に打ちのめされて終わるのでもなく、私たちの罪を負ってくださった主を仰ぎましょう。疲れたなら、また主のもとへ帰って来ましょう。ずれてしまったなら、御言葉によって向きを直していただきましょう。迷い始めたなら、主が与えてくださったものを見て、聞いて、その恵みを思い出しましょう。そしてまた主の日に、主の前に集まりましょう。

主は、迷い出る私たちを放っておかれません。帰る時を与え、見るものを与え、御言葉を与え、賛美を与え、そして、ご自分の御子まで与えてくださいました。この主を仰ぎ、この主の恵みを思い起こしながら、また新しい一週間を、主とともに歩んでまいりましょう。

【祈り】
天の父なる神様。私たちは「これくらいなら」と、御言葉より自分の心と目を信じて歩んでしまいます。どうか赦してください。
罪を軽く扱われない聖なる主が、迷い出る私たちを呼び戻し、御子イエス・キリストによって救ってくださったことを感謝します。
日々、あなたの恵みを思い起こし、何が許されるかではなく、何が主に喜ばれるかを尋ねて歩ませてください。私たちの目と心を主に向け、御言葉に従う力をお与えください。
今週も、十字架で死に、よみがえられた主イエス・キリストを仰いで歩ませてください。尊い主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

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